第九則 【趙州四門】 じょうしゅうしもん

垂示にいわく、明鏡がその台にのっているとき、美しいこと醜いことは (妍醜) 鏡がおのずから話しかけてきます (辨)。それを手に持って (※※在手)、生死にかかわる時に (殺活臨時) 臨みます。漢人が去り胡人来て、胡人が来て漢人が去ります。死中に活を得、活中にも死を得ます。

さあ言いましょう、いまこの場所にいてどうするのか? (且道到這裏、又作麼生)。もし仏の関所を透かし見ることのできる眼で、その行き着く場所を知ることができなければ (若無透關底眼轉身處)、ここに到ってほとけを明らかにしようとしてもどうにもなりません (灼然不奈何)。さあ言いなさい、如何なるかこれ関所を見透す眼とは (透關底眼)、その行き着く先とは (轉身處)。たとえばこんな話があるので考えてみてください。


僧が趙州に問う
「如何なるか是れ趙州 」
趙州いわく
「東門、西門、南門、北門 」

句裏呈機劈面來、
爍羅眼絶纖埃。
東西南北門相對、
無限輪鎚撃不開。

言葉の裏側にほとけのはたらきが現れると、その顔を二つに引き裂いてなにものかがやって来ます、
うすく半分に開いた眼がキラリと光り、どんなこまかいホコリでさえもすべて消滅してしまいます。
東西南北の門は相対して (その内なるものを包み)、
無限にそのかんぬきに槌を回し撃ちつづけたとしても門を開けることはできません。

※明鏡は上級者になるとあらわれる透明感のあるほとけで、初心者レベルならホコリだらけの古鏡でしょうか、漢人は俗物感覚、胡人 (インド人) はほとけ感覚の比喩です。殺活と死活は生死が一体で区別できないこころの状態であり、透關底眼は仏世界の入り口を関所にたとえますが、ここに入るためには理屈ではなくてその仕組みを透かして見ることが必要とされ、 「通」 でなく 「透」 の字であることに注意します。

問答にある四門は、趙州和尚が仏世界へ通じる門そのものであって、東西南北どの方角からやって来てもわたしがほとけの世界へ導いてあげますよ、という感じ。もちろん他のすべての宗派を仏門とすれば、どの宗派も門が違うだけで同じほとけを目指しているのだ、という一般表現からの引用です。

詩文はじめの二行は、意識の起こるはじめの一瞬をとらえることができれば、そのとき顔が二つに引き裂かれ、中から迦葉尊者があらわれその半眼がキラリと光るとき、この世の対象物はすべて消え去りほとけ世界に変容するという、ハリウッド3DCGばりなイメージの定番表現です、後ろ二行は唐の都が城壁都市でその中央の目抜き通りを出入りする四つの門には厳重にかんぬきがかけられ、そう簡単には破られないものだったという意味のようですね。

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