第十則 【睦州掠虚頭】 ぼくしゅうりゃくきょとう

垂示にいわく、そうだそうだ、と言い、そうではないそうではない、と言う (恁麼恁麼、不恁麼不恁麼)。もし論戦をすれば、それぞれが自分の理屈のある場所に立っています。

そのゆえに言います、もしさらに上質の教えに行き着くとすれば (若向上轉去)、そのとき得るものは、釈迦、彌勒、文殊、普賢、千聖萬聖、天下の宗師も、あまねく皆な気を飲み声を呑むことでしょう (普皆飮氣呑聲)。もしさらに質の悪い教えに (若向下轉去) 落ちるとすれば、瓶の中に住む虫であり (醯鶏甕裏)、虫がうごめくような心のはたらきであり (蠢動含靈)、これらひとつひとつに仏の光を当て (一一大光明放)、ひとつひとつに万尋の壁を立てて遮断しなくてはいけません (一一壁立萬仭)。

それでもあれこれと考えて (儻或) 上でも下でもないのならば (不上不下)、またどうやって思い計ることができるでしょう (作麼生商量)。筋道があればそれにしがみつき (有條攀條)、筋道がなければ過去の例にしがみつく (無條攀例)。すこし考えてみてください。


睦州和尚が僧に問う
「どこから来たのかな? 」
僧はすぐに 「喝 ! 」 と言います。
睦州いわく 「この老僧はおまえに一喝されてしまったな 」
僧はまた 「喝 ! 」 と言います。
睦州いわく 「三度喝して四度喝して、その後はどうするのか? 」
僧は言葉を返せません。
睦州はたちまち僧を打っていわく 「虚空の頭を掠め取った男だな (這掠虚頭漢) 」

兩喝與三喝、作者知機變。
若謂騎虎頭、二倶成瞎漢。
誰瞎漢。
拈來天下與人看。

二度の喝は三度目の喝を予感させ、それを感じるものははたらきが変わったことを知ります。
もし自分が虎の頭にまたがっていると言うならば、問答する二人はともに目が見えないことになってしまいます。
目が見えない者とは誰のことでしょう?
天下の人々が見守る中で花をつまんでくるくると回してみてください。

※恁麼恁麼、不恁麼不恁麼、は自分の立場が正しいと主張することのようで、そこから仏向上に向かえば、普皆気飲声呑、と言葉が出なくなってしまい、ここは禅思想的にはかなり大事なポイント、逆に仏向下にむかえば、井の中の蛙と同じ醯鶏甕裏や、不平不満のかたまりである蠢動含靈となり、文句タラタラ自己中心世界なので、そのときはお釈迦さまの大光明で照らし、千尋の高さの崖で八方を遮断しなくてはいけません。

僧と睦州の問答は、僧が一喝するしか知らないのを見て取って、睦州が三回目と四回目も喝を言うのだろうけど、そのあとに他のネタはあるのか? と先回りします。ビミョーではあるけれど、相手の立場をとりあえず認めて、その上で答えを模索するようなかんじ。

掠虚頭は実在しないイメージの頭をかすめ取る、とでも訳せばよいでしょうか。二つの解釈が考えられて、他人が示したほとけの解説を盗むことと、飛騎将軍入虜庭と同じで自我という自分の首を切ればそこにほとけが現れます。

詩文の兩喝與三喝は、一喝は二回やるとネタが割れ効果がうすれると言い、騎虎頭はトラのあたまにまたがった無敵状態であり、自分が正しいと思うことで勝他とおなじ意味、即座に目がみえなくなってしまうそうです、拈來天下與人看は、お釈迦さまの回して見せた花を見てもう一度考えてくださいという意味です。

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