第六則 【雲門日日是好日】 うんもんひびこれこうじつ

雲門和尚が垂語していわく 「十五日より前のできごとはあなた方に問いませんが、十五日が過ぎて以後は、なにか一言考えて持ちかえって来てください (道將一句來)」 そして自ら代って言うには 「たとえば 『日日是れ好日』 のような感じです」 と。

去却一、拈得七。
上下四維無等匹。
徐行蹈斷流水聲、
縱觀冩出飛禽跡。
草茸茸、煙羃羃。
空生巖畔花狼藉。
彈指堪悲舜若多。
莫動著。動著三十棒。

一を捨て去り、七をひねり出して得る。
上下や北西・北東・南西・南東の方位は数を数えるということがなく、
ゆっくりと (水車を) 踏めば、流水の声を断ち切ることもでき、
(思いに) 従えば飛ぶ鳥の跡が写し出されることにあいまみえ、
きのこの生えた草屋根がつづき、煙は何本も立ち重なっている (ありふれた) 風景があります。
スブーティのいる岩山には花が降りそそぎ、
禅の指し示すところはその幼名であるシュニャータが悲しみに堪えるべきものなのです。
動いてはいけません、動けば三十棒が飛んでくるでしょう。

※雲門和尚が夏安居という坊さんの夏合宿中の宿題を出しているところです。先生の模範解答がなかなか良いひびきなので後の世に 「日々是好日」 として広まったようですが、毎日ほとけと一緒なら好い日がつづくでしょう、くらいの意味で一般解釈とはビミョーに違い、ほとけ感覚を説明しなくてはいけません。

去却一拈得七は、ひとつの世界感から木火土金水と日月の七曜が分裂したことで、七曜いぜんの一の状態がほとけです。是好日とは水車の水音を聞こえなくすることもできるし、実際には存在しない鳥の飛跡を見ることもでき、平凡な生活の風景をそのまま見ることもできます。

空生は須菩提、舜若多はその須菩提の幼名シュニャータ、般若心経でおなじみのスブーティのことで、空の解釈第一と言われる人であり梵天は彼をたたえて花を天から降らせたとされますが、禅はこのスブーティと空のアプローチがやや違っていて、否定の繰り返しや論理的な分類ではなく、仏と似てるものを並べたあいまい表現の羅列という形が最大のちがい、ひとことで言えば 「似たもの探しゲーム」 の感が強いです。

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