第七則 【如是慧超】 にょぜえちょう

垂示にいわく、声を発する直前の意識は (聲前一句)、千の聖人も伝えてはいません。いまだかつてよくわかるほどに見たことがなければ、大千の聖人の教えも隔絶されるようなものです。声が発する以前にあるそのものを (設使向聲前) 言葉で理解し (辨得)、天下の人々の舌さきを切り落としたとしても (截斷天下人舌頭)、それでもいまだ是れは自由を得た陽気な人 (未是性燥漢) とはいえません。そのゆえに言います、天に蓋をすることができず、地にも載せることができずと。虚空もなにかを入れることができず (虚空不能容)、日月も照すことができずと。

ほとけのいない場所にたった一つの尊いようなものがあって (無佛處獨稱尊)、そこで初めて較べてみたり中身を調べてみることもできるというもの (始較些子)。これはあるいはまだそうでないのならば、頭の上にある一本の毛を光に透してみれば (於一毫頭上透得)、それはまぶしい光を放ち (放大光明)、たてよこ自在で (七縱八横)、法に於いても自在自由であり、そっと手にのせてくるくると回してみれば (拈來)、これは無でも有でもありません (無有不是)。さあ言ってください、このもののなにを得たのでしょう (得箇什麼)、こんなような珍しいものなのでしょうか (如此奇特)。

またいわく、大衆はそれに出会っただろうか。目の前で汗をかいて走る馬がいても人がそれを知ることはなく (從前汗馬無人識)、ただくりかえし歴代の導師の言葉を (蓋代功) 論ずることを求めるだけです。今いったことを重ねてみなさんに伝えたうえで (且致)、わたしく雪竇の公案とはさてどんなものでしょうか (作麼生)。以下の文を見てください (下文看取)。

僧が法眼和尚に問います
僧 「わたし慧超が和尚にお伺いします (咨)、如何なるか是れ仏 」
法眼いわく 「汝は是れ慧超 」

江國春風吹不起、
鷓鴣啼在深花裏。
三級浪高魚化龍、
癡人猶夜塘水。

江南に春風が吹いても波は起ち上がらず、
コジュケイ (鷓鴣しゃこ) の鳴声がするそのさらに奥には花々が咲いていることでしょう。
竜門山の三段の滝は波が高く、そこを登りきった魚は竜になると伝えられます、
ところがそれを知らないおろかな人は今夜も堤の水を汲みにいくことになるのです


※聲前一句、設使聲前、天下人舌頭截斷、これら三つは同じことを言っていて、言葉を発する以前の意識状態のとき 「その感覚」があらわれ、逆に 「その感覚」 が現れたときには言葉がのどに詰まったように出て来なくなります。

天不覆地不載はこころの中にある孤絶された場所の感覚、空はからっぽではなくて 「その感覚」 に付けられた名前なので物を収納することはできず、同じく日月の光も感じることはできません。從前汗馬人識無は目の前で動き回っているものがあってもそれを見ることができないという意味で、ほとけが見えない状態の人の様子です。

法眼と慧超の問答は、名前の無い 「汝」 という主体は、「慧超」 という名前のある俗物な主体と同時に存在してるいう意味のようですね。ほとけと俗物自我は同時にあなたの中にふたつとも存在するのだ、という感じ。

最後の詩文の前二行は、単純に江南春の情景を頭の中でイメージとして思い描く感覚行法のようなもの、後二行はほとけを探す場所を間違えていませんか? というなぞかけです。

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