第三則 【馬祖不安】 まそふあん

垂示にいわく、こころのはたらき一つと感覚の一つがあり、その意味を一つの言葉やひとつの文章に収めようとすれば、きれいな肌に傷を作りそこに巣穴や岩屋を作るように台無しになってしまいます。

世界を使いこなす方法はすでに目の前に現れていて、そこにはわだちのあとや法則もなく、さらに上質のやりかたがあることを知らないようなら、天にふたをし地にもふたをし、またたぐる綱の先に行き着くところはありません。

そのようなものを得るためには、ただ微妙なさまを知ることが必要であり (太廉繊生)、そのようなものもまた得られず、そのようでないものもまた得られないのなら、ただ狐として生きることさえ危ぶまれるのです。二つの道に分かれず、どうすればすなわち是のものになるのでしょう。さあ、だれか考えて見てください。


馬祖禅師の病気の具合がよくないので、寺のまかないをとりしきる院主が見舞いにやってきます。
院主 「和尚さま、ちかごろのご様子はいかがですか? 」
馬祖 「日に向かうほとけと、月に向かうほとけ (日面佛、月面佛)」

日面佛、月面佛。
五帝三皇是何物。
二十年來曾苦辛、
爲君幾下蒼龍窟。
屈。
堪述。
明眼衲莫輕忽。

太陽に向かう仏、月に向かう仏。
伝説の神々三皇五帝とはいったい何者なのでしょうか。
(江西省で教えの説法すること) 二十年来の辛苦に出会い、
あなたに会うために幾度も青龍の眠る岩屋にくだります。
そこには丸く屈んだものが居り、
よく考えて言ってみてください。
はっきりと眼の開いた禅僧であってもそのぼんやりとした感覚をないがしろにしてはいけません

※この話は馬祖禅師が死の直前に石門山の洞窟を見て、わたしは一か月後にこの場所に戻ってくるだろうと遺言した故事がもとになっているようです。日面佛は元気なときに見るハッキリとしたほとけの意識、月面佛は病人や死に近い人のうつらうつらとした意識、とくにこの月面仏を、天に昇る前にその岩屋で眠り続ける青龍のボンヤリとした意識にたとえているのは、なかなか秀逸で美しい表現ですね。

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