万松老人評唱天童正覚和尚頌古従容庵録



第一則 【世尊陞座】 せぞんしんざ

みなの者に示して言います、門を閉じて居眠りをしながら上質のはたらきに出会い、さかんに鏡を振り返る猿は、自分を下のレベルにねじ曲げてしまいます。どうして苔むした曲がり木の上に、鬼の眼が開いているようすをガマンして見るのでしょう? それぞれの人のすぐそばにそれが有ることを納得できないのなら、出てきなさい、もし良く理解できないのならば、これを得ることもできません。


たとえば、お釈迦さまがある日上座に座っておられました、文殊は白槌を叩いて言います、静かにこの最上の法を観察しなさい、法の中の王とも呼ばれる法はこのようなものなのです、お釈迦さまはすぐに座を降りました。

頌云、
一段眞風見也麼、
綿綿化母理機梭。
織成古錦含春象、
無奈東君漏泄何。

詩文に言います、
一段上の座に真実の風が吹いていると言いますが、そこに何を見るのでしょう?
綿糸をつぎつぎと紡ぐはたおり機のコマのようなはたらきであり、
その織りあがった古い錦の布には春の風景が含まれています、
お釈迦さまがこのひみつの何かをそっと漏らすためには、他のやり方がないのです。


(まりはうすの一言) まっ、空気感のようなもんでしょうね・・・



第二則 【達磨廓然】 だるまくわくねん

みなの者に示して言います、春秋のころ楚の国の卞和 (べんか) は三度宝石を王に獻上したけれど、結局は (宝石と信じてもらえず) 足切りの刑に遭うことを免れませんでした。夜道で明かりを人に向けて照らすとき、刀が鞘に入っていなければ鮮やかに光ることでしょう。もし客観から抜け出せばそこには抜け出すべき主体もありません、仮のものをもっともだと思えば真実のものがもっともとは思えず、めずらしいものや異なったものの差別を実際に利用しようとすれば、それは死んだ猫の頭をひねって何かを出そうとすることなのです、少しこの話について考えてみてください。


ある時のこと。梁の武帝が達磨大師に問いかけます
「聖人にとってもっとも大切なこととはどんなことでしょう? 」
達磨は言います 「まわりを柵に囲まれたような場所であり、そこには聖人はいないのです (廓然無聖)」
武帝は言います 「それでは私の前にいるものは誰なのでしょう? 」
達磨は言います 「わかりません (不識) 」

武帝は達磨を国に迎え入れることをせず、達磨はとうとう長江を渡って少林寺に行き着き、そこで壁に向かって九年間の座禅行を行います (面壁九年)。

頌云、
廓然無聖、
來機逕庭。
得非犯鼻而揮斤、
失不廻頭而墮。
寥寥冷座少林、
默默全提正令。
秋清月轉霜輪、
河淡斗垂夜柄。
繩繩衣鉢付兒孫、
從此人天成藥病。

詩文に言います、
くるわのように囲まれた場所であり、 そこには聖人はいないし
意識が起これば庭をうろつきます。
自分の鼻先に注意を集められなければ、(腰に着けた) 斧を揮ってそれを断ち切ってみるとよいでしょう
もし (牛車の荷台から) 瓶が落ちて割れたとしてもけっして後ろを振り返ることはなく
しんとして冷たい少林寺の床に座り、
なにも言葉を発することなく、その現われたものを正しく実行します。
秋の美しい月には霜の輪がかかっていて、
川はもやで淡い色に変わり、軒のつららは夜の柄杓のようです。
その連綿と相承された衣と鉢は弟子や孫弟子へと伝わり、
この人が生成した病気を治療する薬もそれに従って伝承されることでしょう。


(まりはうすの一言) このページトップのイラストは、この廓然無聖のイメージでやってみました。



第三則 【東印請祖】 とういんしょうそ

みなの者に示して言います、はるか以前にいまだその兆しもあらわれないときのはたらきであり、亀は (水に向かわず) 火に向かいます。経典とは別に伝えられるその意味は、ウスの回し棒に花を咲かせます。そこで言ってください、思い返して (経文を) 受けつぎ保持し読んで諳んじることに利益があるのでしょうか、またはないのでしょうか?

あるときのこと、東インドの国王は、お釈迦さまからの相承を数えて第二十七代目にあたる般若多羅を招いてもてなします。王は質問して言います、
「(あなたは) なぜ経文を読まないのですか? 」
般若多羅は言います 「わたしが息を吸うときにはその陰の世界には居ません、また息を吐くときは (逆に) 俗世間にはかかわらないのです、常にこのように経巻をぐるぐると回転させることが百十萬億卷にもおよびます 」

頌云、
雲犀玩月含輝、
木馬游春駿不羈。
眉底一雙寒碧眼、
看經那到透牛皮。
明白心超曠劫、
英雄力破重圍。
妙圓樞口轉靈機。
寒山忘却來時路、
拾徳相將携手歸。

詩文に言います、
雲の尾ひれが月にかかるとき、雲は月の輝きを含んできらめきます、
木馬と春の季節を (想像しながら) 遊べばくつわがなくても早く走ることができ、
まゆ毛の裏にある一つだけの眼は涼しくて青い瞳のようで、
経文を看ればまるで (それが書かれた) 牛の皮を透かして見ているようです。
それを明らかに理解した心は、果てしなく広いことをも超えて、
英雄がその力を見せて何重にも重なった敵の囲みを破るようなもので、
ふしぎな円のからくりがかたちのないはたらきを伝えます。
寒山が自分のやって来たときの道を忘れたころ、
拾得がやってきて (二人で) 手をたずさえて帰ります。


(まりはうすの一言) 息を吐くときのアタマの中は、ぶちぶちと意識が途切れてます・・



第四則 【世尊指地】 せぞんしち

みなの者に示して言います、一かたまりの砂塵がわずかに舞い上がれば、すべての大地がそこに取り込まれ、馬を引いて一本の槍をかかえ、土地の境にある関を開き (そこから打って出て) 領土を広げることも即座に可能となります。あらゆる場所で主人のように (自由に) ふるまうことができ、出会ったものを即座に説明できるレベルに至ったとき、それはどんな人なのでしょうか?

こんな話があって、お釈迦さまが皆の者と出かけたときに、手で地面を指さして言います、この場所に寺の目印を建ててください。そのとき帝釈は一本の草の茎を持ってきてその地面に挿して言います、寺はすでに建て終わりました。お釈迦さまは微笑します。

頌云、
百草頭上無邊春、
信手拈來用得親。
丈六金身功聚、
等閑携手入紅塵。
塵中能作主、
化外自來賓。
觸處生涯隨分足、
未嫌伎倆不如人。

詩文に言います、
無数の草の葉の先には果てしない春の世界が広がっています。
手で合図するように (一輪の花を) くるりとひねれば、それを手に入れて良くわかり使いこなすこともできるでしょう。
六尺の身の丈で金色に光るお釈迦さまの功徳はその場所に集まり、
そっと手をたずさえて紅い砂塵の中に入れば、
その砂塵の中では自由に主人としてふるまうことができ、
その外に出れば自ずと (気を使うだけの) 客人に戻ってしまいます。
その場所に触れている間は、両足の重心でバランスを取るような感覚にしたがい、
まるで人ではないようなその微妙な感覚を嫌ったことは一度もないのです。


(まりはうすの一言) 場所をマーキングすると良さそうです。



第五則 【青原米價】 せいげんべいか

みなの者に示して言います、須闍提王子は自分の体から肉を切って飢えた両親に供養しますが孝行な息子の伝記としてつたわることはなく、山の岩石を落してお釈迦さまをつぶそうとした (怖いもの知らずの) 提婆達多が、どうして突然の雷鳴に恐れることがあるでしょう? いばらとトゲの林を抜けだせば、栴檀の樹が倒れている (良い香りを放つ) 場所に行き着き、そのままで季節が尽きて年月が極まるまで待ったとしても、古い器に頼っていては春はなお寒いままでしょう。ほとけの本体というものはいったいどこにあるのでしょうか?

ある僧が青原和尚に質問します、仏法の大ざっぱな意味とはどのようなものでしょうか? 青原は言います、いま盧陵あたりでは米の値段はいくらですか?

頌云、
太平治業無象、
野老家風至淳。
只管村歌社飮、
那知舜尭仁。

詩文に言います、
のんびりとした状態にするためにやるべきことは、何も形を思い浮かべないことです、
野原に遊ぶ老人の家には飾り気がなく。
村には歌声があり祭りでは酒を飲むだけです、
なぜ伝説の舜帝や尭帝が仁徳のある王とされるのか知っていますか?


(まりはうすの一言) 米相場といえば、酒田五法の本間宗久翁ですが、この人は六祖慧能の風にはためく旗の話で相場のさとりを理解した、と伝わってます・・



第六則 【馬祖白黒】 まそこくはく

みなの者に示して言います、口を開くことができない時、舌の無い人はその言葉の意味を理解し、足を持ち上げても立つことができないとき、足のない人が歩くという感覚を理解します。もし他人の理解した範囲にとらわれて、その言葉にこだわり考えることが死んでしまえば、どうして自由を感じることが有るでしょう、四方の山が自分に向かって迫り来る時に、どうやってそれを透かし見て抜け出せるのでしょうか?

ある時のこと、僧が馬祖大師に質問します、「四句のように非と有にこだわることなく百回も非非非・・と連ねることもないやりかたで、師にお願いします、このわたしにだるま大師がこの中国にやってきた真意を解説していただきたいのですが」 馬祖大師は言います、「わたしは今日は疲れてぐったりしているので、おまえの為に説明することができません、智藏のところに行って聞いてみてください 」

僧は知藏のところへ行って質問します。知藏が言うには、「どうして馬祖和尚に聞かないのだ? 」 僧は言います、「馬祖和尚がここに来て質問すればよい、と教えてくれました 」 知藏は言います、「わたしは今日は頭痛がするので、おまえの為に説明することができないのだ、百丈懐海兄さんのところに行って聞いてみてくれ」

僧は百丈のところに行って質問し、百丈は言います、「今のわたしには、あれこれよく考えてみたけれど、逆になにもわかりません」 僧は馬祖大師にこのいきさつを報告し、馬祖大師は言います、「知藏は頭が白く、百丈は頭が黒い 」

頌云、
藥之作病、鑒乎前聖。
病之作醫、必也其誰。
白頭黒頭兮克家子、
有句無句兮截流機。
堂堂坐斷舌頭路、
應笑毘耶老古錐。

詩文に言います、
薬なのに病気のフリをし、前の聖人の言葉を鏡に写します。
病気であってもじつは医者であり、必ずこの誰かに出会うことでしょう。
白頭の知藏も黒頭の百丈もなかなか良くできた弟子たちであり、
ことばがあったり無かったりしながらも、意識の流れを断ち切るはたらきであり、
部屋をめぐりながら舌先を根元から切り落とす言葉ではない路をたどり、
まさにこの古くて錆びたキリのような老人は、しきたりのようなものを笑っているのです。


(まりはうすの一言) ついうっかりと居眠りしてたので、話を聞いてませんでした・・・



第七則 【藥山陞座】 やくせんしんざ

みなの者に示して言います、眼や耳や鼻や舌にはそれぞれ一つづつのはたらきがあり、眉毛はそれらのはたらきを一括りにするような場所に在ります。武士や農民や職人や商人がそれぞれ自分の務めに精を出せば、このわたしもやることが無く常にひまとなるでしょう。その感覚を理解して教える師匠というものはどのように準備して実演してみせるのでしょうか?

あるとき、薬山和尚はかなり長い間みんなの前で座ったままする説法をしていませんでした。寺の院主は内々にたずねて言います、「みなのものは長い間教えを示していただきたいと思っているので、和尚にはみなの為に説法することをお願いします 」

薬山が鐘を打ち鳴らさせると、みなの者が周囲に集まって来ます。薬山はしばらくの間良い感じで座ったままでしたが (良久)、すぐに座を降りて自分の方丈に帰ってしまいました。院主はその後について行って質問します、「和尚はいまやって来たみなの者の為に説法することをお願いしたのに、さわりの一言も言ってもらえません 」

薬山は言います、経文を読むためには読経の師匠がいるし、解釈をするためには経典講釈師がいます、この老人をうまく呼び出しておきながら (どうして説法をしていないと) 怪むのでしょうか?

頌云、
癡兒刻意止啼錢、
良駟追風顧影鞭。
雲掃長空巣月鶴、
寒清入骨不成眠。

詩文に言います、
不平を言う子供には泣き止むための葛藤があり、
良い馬車馬は鞭の影を見た瞬間に走り始めます。
雲は長くたなびき、月の光をうけて鶴が巣に帰ります、
澄み切った寒気が骨にしみ入れば、(うつらうつらとして) 眠ることもできないでしょう。


(まりはうすの一言) 仏像の座り姿を実演したみたいですね。



第八則 【百丈野狐】 ひゃくじょうやこ

みなの者に示して言います、その始めにあるなにかを末端の意味である文字で記して固定してしまえば、まるで弓を射るようにまっすぐ心が地獄に入ってしまいます。野狐が流す一すじのよだれは、飲み込むのに三十年かかり、(もし飲み込むことができれば) 吐こうとしても吐き出すことができません。これはインドの空にあるおごそかなものとは少し違っているようで、ただ思い込みがはげしく良くわかっていない人にありがちなことなのです。かつてこのような間違いをおかした者がいたのでしょうか?

こんな話があります。百丈和尚が本堂の演壇に上がるとき、常に一人の老人がいて説法を聴いていますが、みなの者が帰るときは一緒にどこかに帰ります。ある日のこと (説法が終わったのに) 帰らずにまだいるので、百丈は気になって質問します、「そこに立っている者はどんな人なのですか? 」

老人は言います、「わたしは昔、お釈迦さまの弟子である迦葉仏の時代に、かつてこの山に住んでいたものです。あるとき修行の人がやって来て、『修行の行き着いた人はそのとき因果に落ちるのでしょうか、または落ちないのでしょうか? 』 と質問され、わたしはこの質問に答えて言いました、『 因果に落ちることはないのだよ (不落因果)』 と。すると野狐の体に身を墮とし生まれ変わること五百回にもなります。今お願いしたいのは和尚にこれの代わりの言葉を示していただきたいのです 」

百丈は言います、「因果がはっきりとわかるのですよ (不昧因果) 」 老人は言葉を聞いてすぐに悟りを得ます。

頌云、
一尺水、一丈波、
五百生前不奈何。
不落不昧商量也、
依然撞入葛藤巣。
阿呵呵、會也麼。
若是汝灑灑落落、
不妨我多多和和。
歌社舞自成曲、
拍手其間唱哩※。

詩文に言います、
(桶の中の) 30センチの水や、(大海原にある) 3.3メートルもの高さの波があり、
狐に五百回も生まれる以前の出来事をどうすることもできず。
不落と不昧をそろばんで計算します、
それでもまだ葛のつたと藤づるの絡み合った鳥の巣の中に捕らわれていて、
ああー、とため息を漏らせばその何かに出会えるかもしれません。
もしこれがあなたにとってさっぱりとして気分のよいものなら、
自分がいつまでも和やかな気分でいることを邪魔しません。
歌声がお社から聞こえ、自分で作った曲にあわせて踊ります、
拍手の手を打ち鳴らしその間に、いっしょに歌ったり囃したりがつづくことでしょう。


(まりはうすの一言) バカって言うヤツが馬鹿だもん !!! は幼稚園児のあいだに流行ってる禅語のひとつです。



第九則 【南泉斬猫】 なんぜんざんみょう

みなの者に示して言います、青く光る海を蹴飛ばしてひっくり返せば、大地には砂塵が舞うでしょう、白い雲に喝をとばして散らすことができれば、なにも無い場所には粉が砕けた (もやの) ようなものがあり。厳しいやり方で正しく実行したとしても、なおこれは半分しかあらわれていません、その大きなはたらきをすべて明らかにするためには、どのように準備してやってみるのがよいのでしょうか?

こんな話があります。南泉和尚はある日、東西両堂の僧たちが子猫を取り合って言い争うところに出会います、南泉はこれを見ていましたが、とうとう僧たちに問題を示して言います、「(ほとけや禅について) なにか言うことができればこの猫を斬らないようにしよう 」 僧たちは言葉がありません。南泉はその子猫を切り捨てて真っ二つにしてしまいました。

南泉はまたこのときの話を趙州和尚に説明してその意味を問います。趙州はすぐにはいていた草鞋を持ってきて自分の頭の上に乗せて部屋を出ていってしまいました。南泉は言います、「この男がもしその場にいたならば、きっと猫の子を救うことができただろうに 」

頌云、
兩堂雲水盡紛拏、
王老師能驗正邪。
利刀斬斷倶亡像、
千古令人愛作家。
此道未喪、知音可嘉。
鑿山透海兮唯尊大禹、
錬石補天兮獨賢女。
趙州老有生涯、
草鞋頭戴較些些。
異中來也還明鑒、
只箇眞金不混沙。


詩文に言います、
両堂の雲水たちはその粉のようなものを捕まえることができません、
南泉老師は正邪のありさまを明らかにするやり方がうまく。
鋭い刀で切り捨てれば (二つに分かれたイメージも) 共に消え去ることでしょう、
はるかな昔よりこの家風のようなものを作っている何かを人々は愛してきました。
この道はいまだ失われず、その音を知ることはすばらしいことであり。
山を削って海に抜ける龍門の水路を作った禹王の功績をただ称えるようなものであり、
五色石を使い人々のために天に開いた穴を塞いだ神話世界の女渦のようでもあります。
趙州老人には命の尽きたその先のものが見えていて、
草鞋を頭に乗せてその微妙なものを突き合せます。
どこか別の場所からやって来て明鏡の中に還り、
ただここにある純金と砂を混ぜることがないのです。


(まりはうすの一言)  斬られる前に、子猫をかかえて寺から走って逃げ去ったほうが話はカンタン。



第十則 【臺山婆子】 だいさんばあす

みなの者に示して言います、ふところに収めるものが有り手放すものもあり、突き出した木の枝に体を曲げて合わせ、うまく殺しうまく生かすやり方はすでに手の中に在ります。その砂塵は魔物の住む外側世界が尽きた場所をぴたりと指差し、大地と山河はみなともに戯れはじめるでしょう。そこで言います、これはどんなレベルの人の気分なのでしょう。

あるときのこと、五台山へ行く途中の路上に一人のお婆さんがいました。何人かの僧が 「五台山への道はどの方向に行けばよいのですか? 」 と聞くと、お婆さんは言います、「まっすぐに行きなさい (驀直去) 」 そして少し行ったところで、お婆さんは後ろから声をかけます、「りっぱなお坊様なのにまたそんな風に行こうとするのかね? 」

ある僧が趙州和尚にこれを報告すると、趙州は言います、「待ちなさい、おまえの為にちょっと見て来てあげよう 」 趙州はその場所に行くと、また前に僧が報告したとおりにお婆さんに聞きます。

その次の日、法堂の演壇にやって来て言います、「わたしはおまえの為にお婆さんの意図を見破って来ましたよ 」

頌云、
年老成精不謬傳、
趙州古佛嗣南泉。
枯龜喪命因圖象、
好駟追風累纒牽。
勘破了老婆禪、
向人前不直錢。

詩文に言います、
年寄りになれば間違えて伝えることもなく細かい部分にこだわるようになり、
趙州という名のむかしの仏は、南泉和尚の法を継ぎます。
干からびた亀がその命を失ったのは、その甲羅の模様と似た (乾燥してひび割れた泥の) 図形のためで、
好い馬車馬は追風を身にまといながら自然に走ります。
老婆の語る禅を見破り終わり、
その場所に向かう人の目の前にお金を置いたりはしません。


(まりはうすの一言) お婆さんに言われたとおりまっすぐ歩いて行ったら、自分の寺に戻って来れたようですね。



第十一則 【雲門兩病】 うんもんりょうびょう

みなの者に示して言います、体の無い人が病を患い、手の無い人が薬を調合し、口の無い人がそれを服用し、なにも受けとらない人ならそれが安楽というものです。すぐに言ってみてください、体の奥深くに入り込んだ病にはどんな薬を調合するのでしょう。

あるとき雲門大師は言います。光りが透り抜けられない二つの病気が有ります。すべての場所が明るいわけでなく、目の前に物があると意識されることがこの一つです。すべての意識の広がりを透かし見ることができたとしても、まだどこか隠れた場所になにか物があるように感じることがあり、これもまた光が透り抜けられないことなのです。

それとはべつに仏の身体にもまた二つの病気があります。仏の身体に行き着くことができたとしても、仏を意識する感覚が残ることです。すでに見えているのになお残るものがあるために、まだ俗物な状態にいることになり、仏の身体にまつわるこれが一つです。たとえ透かし見ることができたとしても、それをやり過ごすことがすぐにできないのです。こと細かに検討して意見を持ち寄れば、息のカタマリである気配のようなものが有ると言いますが、これもまた病なのです。

頌云、
森羅萬象許崢エ、
透無方礙眼睛。
掃彼門庭誰有力、
隱人胸次自成。
船横野渡涵秋碧、
棹入蘆花照雪明。
串錦老漁懷就市、
飄飄一葉浪頭行。

詩文に言います、
細かく入り組んだ網目のような世界のありさまには、ときに難解なものも存在し、
自分の黒目で見ることをやめ、どこにも焦点が定まらないように透かし見てみます。
その場所の門や庭を掃いてまわっている、そんなはたらきをするのは誰なのでしょう?
その隠れたものは人の胸の中にいて、自分ひとりですでに完成されているようです。
船が野原を横切っていれば、そこには秋の青空が滲み込んでいて、
船を漕ぐ棹が花咲いたアシの中につきさされば、雪明りに照らされたようにも見えます。
茜色の雲が連なるのを見て、年老いた漁師はむかし市場に通ったことを懐かしく思い、
風に舞う一枚の葉っぱが波の上で揺れています。

(まりはうすの一言) ミイラのようにぐるぐる巻きの包帯を取ってみれば、そこには透明な人がいました・・・。



第十二則 【地藏種田】 じぞうしゅでん

みなのものに言います、才能あるものは文章を書き、弁舌をなりわいとするものは言葉たくみに話します。われら禅宗のものは、(法華経にある火につつまれた家の子供たちを救いに来たと言う) 露地の白牛を見てもぼんやりとしているだけで、刈り取った雑草を振り返ることもなく、どうやって毎日を暮らしているのでしょう?

あるときのこと、地藏和尚が、脩山主というものに質問します
地藏 「どこから来ましたか? 」
脩 「南方から來ました 」
地藏 「南方の仏教は最近はどうですか? 」
脩 「議論したり考えたりとなかなか盛んです 」
地藏 「わたしのところではどうかと言えば、田んぼに米を植え、それをぱんぱん固めて食べていますよ 」
脩 「欲・色・無色の三界はどう考えているのでしょう? 」
地藏 「なにを三界と呼ぶかですよね・・ 」

頌云、
宗般般盡強爲、
流傳耳口便支離。
種田搏家常事、
不是參人不知。
參明知無所求、
子房終不貴封侯。
忘機歸去同魚鳥、
濯足滄浪煙水秋。

詩文には言います。
教えはいろいろあるけれどすべてそれを示していて、
流れ伝わるなにかは即座に耳と口を離れます。
田に種をまきご飯を食べることは日常ですが、
これは多くの人の知らないことです。
その明晰な知恵を手に入れれば求めることがなくなり、
漢の劉邦に仕えた張良 (子房) のようについには安っぽい身分を抜け出して領主に封じられます。
帰り去る思いがなければ魚や鳥と同じであり、
河で足を洗えばかまどの煙が水に映ります。

(まりはうすの一言) おにぎり食べてる時がヒントなんですね。



第十三則 【臨濟瞎驢】 りんざいかつろ

みなのものに示して言います、人はそちらを向いているのに、それが既にあることを知りません。こころのはたらきが尽きてしまえば、民衆もいなくなるのでそれを管理する役人も必要ありません。まさにこれはゆがんでいたり折れている木の枕に寝て手足まで具合が悪くなったようなもの。臨終にのぞんだ際には、いったいなにを為せばよいと言うのでしょう?

臨済和尚の命がまさに尽きようとしているとき、弟子の三聖に後を託します。

臨済 「わたしが死んだ後は、教えのカナメである我が正法眼藏を滅ぼし捨て去ることがないように 」
三聖 「どうしてわざわざ和尚の正法眼藏を滅ぼし捨て去ることがありましょうか? 」
臨済 「いまここに人がいておまえに質問をしたらなんと答えるのだ? 」
三聖は即座に喝を返します。
臨済 「誰が知っているのだろうか、我が正法眼藏がこのめくらのロバの代になって滅び去ってしまうことを・・ 」

頌云、
信衣半夜付盧能、
撹撹黄梅七百僧。
臨濟一枝正法眼、
瞎驢滅却得人憎。
心心相印、祖祖傳燈。
夷平海嶽、變化※鵬。(毘鳥)
只箇名言難比擬、
大都手段解飜騰。

詩文に言います。
相承の衣は夜もふけたころ、六祖慧能に託され、
黄梅山にいた七百人の修行僧たちは混乱します。
臨済和尚につたえられたその一枝の仏の眼は、
めくらのロバが滅ぼし去って人々からひんしゅくを買ったようです。
こころからこころへとそのイメージを受け渡し、多くの祖師たちがその灯りをつたえます。
海と巨大な山を平らにならせば、それは世界を救う鳳凰に変わります。
まさにこの名言は比べるようなものがあまりないので、
みながよく使うやり方としてなんども語られるのです。

(まりはうすの一言) 我が家の犬は、人間の肩に手をかけようとして、ときどき前足をクイックイッと空中でからまわりさせてます、ロバだけではないみたいですよ。



第十四則 【廓侍過茶】 かくじかちゃ

みなのものに示して言います、草むらを探る竿を手に持てば、草の影は自分の足元にあります。あるときは鉄の裏に綿のかたまりを貼りつけ、あるときはきらびやかな錦の織物の中に硬い石を包みます。硬いものを使って柔らかいものを使いこなすのはこんなことですが、強いものに出会ったときに弱いものとして対応するにはどうするのでしょう?

あるときのこと、廓という侍者が徳山和尚に質問します。
廓 「レベルの高い多くの聖人たちは、どのような場所に向かって去って行くのでしょうか? 」
徳山 「それはいったいなんだろう? 」
廓 「空飛ぶ天馬に聞いたつもりなのに、びっこの亀が出て来てしまった 」
徳山はそのまま自分の部屋に帰って休んでしまいます。

その翌日、徳山が風呂から上がると、廓は濃い目に出したお茶を徳山のところに持っていきます。徳山は廓の背中を上から下へ一回だけ撫でてみせます。
廓 「この老人は始めからその本性を少しだけあらわしていたのだな 」
徳山はまた自分の部屋に帰ってしまいました。

頌云、
覿面來時作者知、
可中石火電光遲。
輸機謀主有深意、
欺敵兵家無遠思。
發必中、更謾誰。
腦後見腮兮人難觸犯、
眉底著眼兮渠得便宜。

詩文に言います、
それが目の前にあらわれれば、こころのはたらきを為すものがそれを知ることになり、
火打石の火花の中に、すこし遅れて稲妻が走るところを見るようなものです。
そのはたらきを手渡そうとするものには、深い思いのような何かがあり、
敵を欺して勝つことが仕事の軍人には、遠くてボンヤリとした想いはありません。
それが起こるときは必ず内側にあらわれるので、それ以上誰かをダマす必要がないのです。
脳みその後ろにエラが見えるように、人がそれを触ったりつかんだりすることは難しく、
眉毛の裏側に目玉をつけて、それを使って見れば空っぽの水路のようなものがあることもわかるでしょう。

(まりはうすの一言) お茶はのどごしで味わいます。



第十五則 【仰山挿鍬】 ぎょうさんそうしょう

みなのものに示して言います、未だ言葉がないのに先に知ることができ、これをしゃべらない議論として默論と言います、答えが明らかではないのにおのずからハッキリとしていて、これは表にあらわれないはたらきで暗機と呼びます。お寺の山門前で合掌し、東西両堂に通じる道を行きます。このことは何かを思うたびにあらわれ、中庭で踊りをおどれば裏門を降りたところに頭を揺らすものが見えるはず、さてそれはどんなものでしょうか?

あるとき為山和尚が仰山に質問します。
為山 「どこから来たんだ? 」
仰山 「田んぼの中から来ました 」
為山 「田んぼに誰かいるのかな? 」
仰山はすきを地面に振り下ろし、それにもたれて立っています。

為山 「南の方の山には人が多いらしくて、ハスの葉っぱを刈り取っているそうだよ 」

仰山はすきを手でくるくるとひねり回しながらそのまま行ってしまいました。

頌云、
老覺情多念子孫、
而今慚愧起家門。
是須記取南山語、
鏤骨銘肌共報恩。

詩文に言います、
目覚めた老人たちは、自分の教えが後の世に伝わるようにと願うことも多く、
そのためにわざわざ俗世間の中に寺と一門を起こします。
このことはとにかく南山の言葉から読み取ってみてください、
師匠の言葉を骨に刻み肌にその名を記すのは共に恩に報いることなのです。

(まりはうすの一言) 田んぼのなかの人はいったい誰なんでしょう・・。



第十六則 【麻谷振錫】 まこくしんしゃく

みなのものに示して言います、鹿を指させば馬になり、土を握れば金に変わります。舌の上に風と雷を起し、眉毛の間に血塗りの刀を潜ませます。坐っていながら悪人を成敗することに出会い、立ったままで死と生のありさまをハッキリと見ます。そこで言います、これはどんなぼんやり感なのでしょうか?

あるときのこと、麻谷が錫を手に持って章敬和尚のところにやって来ます。章敬和尚の座っている周りをまわる事三回で、錫を一回振り降ろし、まっすぐに立って見せます。
章敬 「コレだよコレ 」

麻谷はまた南泉和尚のところにやって来て、南泉和尚の座っている周りをまわる事三回にして、錫を一回振り降ろし、またまっすぐに立って見せます。
南泉 「コレじゃないコレじゃない 」
麻谷 「章敬和尚は是だよと言ってくれたのに、和尚はなぜ是ではないと言うのでしょう? 」
南泉 「章敬和尚はモチロン是だけど、おまえがやって見せたコレは是ではないのだよ、この是というものは、風の力を肌で感じるときのように、悪人を成敗する分別がついに壊れてしまったことなのです 」

頌云、
是與不是、好看捲。
似抑似揚、難兄難弟。
縱也彼臨時、
奪也我何特地。
金錫一振太孤標、
繩牀三遶閑遊戲。
叢林擾擾是非生、
想像髑髏前見鬼。

詩文に言います、
是だったり是ではなかったり、そのぐるぐる回る様子をよく見てください。
抑えることにも似て、意気揚々とすることにも似ているし、兄とも言い難く弟とも言い難いのです。
思ったとおりにやってみれば、いわゆるその時に臨むこともあり、
自分という感覚を奪い去ってみれば、そこにはどんな特別な場所があるのでしょう。
金の錫を一回振り下ろせばわかりやすい一つの目じるしとなり、
師の座っている場所の周囲を三回りしても、遊んでいるだけで何かの足しにはなりません。
禅寺が騒々しいと良し悪しの感覚が生まれてしまい、
そのときドクロの前に鬼が立っているイメージを見ることになるでしょう。

(まりはうすの一言) A男 「アレだよアレ・・ 」、B太 「だからアレって何だよ? 」 みたいな感じかな?



第十七則 【法眼毫釐】 ほうげんごうりん

みなのものに示して言います、二羽の雁が大地に沿って空高く飛び、一対のおしどりが地平線のあたりに立っています。弓矢と刀をともに並べて壁に立てかけてあったとすればそのままですが、のこぎりでバラバラにし、天秤のおもりではかるようなときはどうでしょう?

あるときのこと。法眼和尚が脩山主というものに質問します。
法眼 「わずかでも差があれば天と地ほどはるかに隔たってしまうでしょう。あなたはこれをどう理解しますか? 」
脩 「わずかでも差があれば天と地ほどはるかに隔たってしまうでしょう。」
法眼 「そのようであるならば、どのようにそれを得ることができるのでしょう? 」
脩 「わたしはこれだけです、和尚はどう思われますか? 」
法眼 「わずかでも差があれば天と地ほどはるかに隔たってしまうでしょう。」
脩山主はすぐに法眼和尚を礼拝します。

頌云、
秤頭蝿坐便欹傾、
萬世權衡照不平。
斤兩錙銖見端的、
終歸輸我定盤星。

詩文に言います、
天秤の上にハエがとまれば、すぐにそちらに向かって傾き、
いつの世も天秤のさおとおもりは平らでないことを明らかにします。
斤や兩や錙や銖といった目方の単位ははっきりとした数字の目安にはなりますが、
結局は自分の星占い盤に戻ってしまうようです。

(まりはうすの一言) 天と地をアロンアルファで接着してみたらどうでしょう?



第十八則 【趙州狗子】 じょうしゅうくし

みなのものに示して言います。水面に浮かんでいるひょうたんを手で押さえつけてみればくるりと回転し、宝石を日の光にかざして見れば、キラキラと色が変化します。心が無くても得ることはできず、心が有ったとしても知ることはできません。はかりとしての目安を失った静かな人は、言葉の文脈の裏側にくるりと還り去ってしまいます。そんなときでも意味を失わずに得ることができるものとは何なのでしょう?

あるときのこと、僧が趙州和尚に質問します。
僧 「犬がいたとして、犬には仏性があるのでしょうか、または無いのでしょうか? 」
趙州 「有ります 」
僧 「すでに仏性が有るのなら、何のために仏がわざわざその身体に入り込んでいるのでしょう? 」
趙州 「自分以外の世界を知るために、わざわざその中に入り込みます 」

また別の僧が質問します、
僧 「犬がいたとして、犬には仏性があるのでしょうか、または無いのでしょうか? 」
趙州 「無いのです 」
僧 「一切衆生にはみな仏性が有ると言います、犬にはどんなわけがあって無いというのでしょうか 」
趙州 「犬には俗物なこころのはたらきも在り、これが有ればそうなります 」

頌云、
狗子佛性有、狗子佛性無、
直鉤元求負命魚。
逐氣尋香雲水客、
雜雜作分疎。
平展演、大舗舒、
莫怪儂家不愼初。
指點瑕疵還奪璧、
秦王不識藺相如。

詩文に言います、
犬には仏性が有り、犬には仏性がありません、
曲がっていない真っすぐな釣り針ははじめから中心にあり、元気な魚ならすぐに逃げてしまうでしょう。
気配を追いかけ香りを尋ね歩き、雲水すがたの客がやってきて、
雑然としたものを大ざっぱに分類します。
平らに展ばして広げていき、大きく並べて説明し、
その自分の家がはじめから静かでなかったとしても、あまり怪しむことでもありません。
むしろキズにこだわって宝玉の「和氏壁」を奪われてしまうようなもので、
秦国の王さまが趙国の使いである藺相如の意図を見抜けなかった、和相如の話のようです。

(まりはうすの一言) ケースバイケースなのです。



第十九則 【雲門須彌】 うんもんしゅみ

みなのものに示して言います、わたしはきらめく陽光の、気分を一新するようなはたらきが好きで、一生の間人々のために釘やくさびを抜きつづけます。よくあることですが、門を開いて漆塗りのお盆をまとめて持ってきて、まるで路のような溝をノミで彫ってみます。言葉をあれこれ選びながらこの話を見てください。

あるときのこと、僧が雲門和尚に質問します、
僧 「なにも思いがおこらないときにも通り過ぎるものがあるのでしょうか、または無いのでしょうか? 」
雲門 「世界の中心にあるという、須弥山だな 」

頌云、
不起一念須彌山、
韶陽法施意非慳。
肯來兩手相分付、
擬去千尋不可攀。
滄海濶、白雲閑、
莫將毫髪著其間。
假聲韻難謾我、
未肯模胡放過關。

詩文に言います、
一つの思いさえ起こらなければまるで須弥山にいるようで、
雲門和尚の説法は、べつに中身をケチっているわけではないのです。
それを納得できれば両手にいっぱいのものを分け与えられ、
もし解らないままにするなら千尋の高さの壁を登ることはできません。
青い海はどこまでも広がり、白い雲はのどかに動きます、
何本かの髪の毛をもって来てもそのすき間をハッキリとみることがなく、
あまり自信のない言葉やひびきでは自分をだますことも難しいのです。
それでも未だあいまいさが解らないのなら、その間に関所の前を通り過ぎてしまうことになるでしょう。

(まりはうすの一言) 現代ならスカイツリーの展望台ですね。



第二十則 【地藏親切】 じぞうしんせち

みなのものに示して言います、真理に入るための深い言葉は、三をあざ笑い四を引き剥がします。長安の大通りは縦七本横八本というようにあらゆる方向に通じています。ぼんやりとして口を開けば説法の言葉がなく、足を上げて踏み出そうとしたそのときのことなのです。鉢を入れる袋をすぐに壁に高く掛けるべきで、持っていた杖はへし折ってしまいます。そこで言ってみてください、こんなことをする人とはいったい誰なのでしょう?

地藏和尚が法眼上座に質問します、
地藏 「あなたはどこに住んでいますか? 」
法眼 「風の向くままにあちこち歩いています 」
地藏 「歩き回ってなにを為すことができましたか? 」
法眼 「まだ知ることができません 」
地藏 「知ることができないことこそ、最もそれに近いのですよ 」
法眼はハッキリと何かに気がついたようです。

頌云、
而今參似當時、
盡簾纖到不知。
任短任長休剪綴、
隨高隨下自平治。
家門豐儉臨時用、
田地優游信歩移。
三十年前行脚事、
分明辜負一雙眉。

詩文に言います、
今を意識すれば、そのことがまさにその時であることに似ていて、
すだれの細い隙間が見えなくなれば、その知らないことにも行き着きます。
短いことがよく、綴じ合せたものを切り離して長く見ることを休み、
高いものを求めなければおのずから平たく収まります。
寺と一門を構えてあれこれ俗事をなすのは、そのはたらきを使いこなすためであり、
田んぼに僧侶が稲を植えるのは、仏を信じる心をすこしづつ前にすすませるためです。
三十年前にあちこちと歩き回ったことについては、
俗な常識に捕らわれて、仏の一つ目ならぬ片方の眉毛しか持ち合わせていなかったことだったと気づきます。

(まりはうすの一言) なんかよくわからん話だなー・・。



第二十一則 【雲巖掃地】 うんがんそうち

みなのものに示して言います、迷いと悟りから抜け出し、聖と凡の区別を断絶すれば、無というものではあるけれど、そこには多くのものがあらわれます。主人と客人を意識し金持ちと貧乏を区別すれば、これはそのものを理解した人とは言えず、お金を数え人々に仕事をあたえることは、それは無というものではないのです。同じような意識のかたまりがあって、それが人から人へ枝のように連なることは、どうやって理解するのでしょうか?

あるとき、雲巖がほうきで庭を掃いていると、その後ろで道吾が言います、
道吾 「おおきな区別の中に、またそれぞれの区別が生まれるとは? 」
雲巖 「区別するものでも、区別しないことがあるのを知るべきでしょう 」
道吾 「そのようであるならば、すなわち第二番目の月はあるのだろうか? 」
雲巖は掃いていたほうきを持ち上げて言います、
雲巖 「これはいったい何番目の月であるか? 」
道吾はすぐにさがって休んでしまいました。

玄沙 「まさにこれが第二月です 」

雲門 「あいつは女を見ると言葉遣いがていねいになるからな・・」

頌云、
借來聊爾了門頭、
得用隨宜便休。
象骨巖前弄蛇手、
兒時做處老知羞。

詩文に言います、
借りてきたとりあえずのものはお寺の入り口で終わりになり、
そのはたらきに従うことを得れば、もちろん即座に休むことになるのです。
雪峰山のがけの前で蛇をもてあそぶしぐさをやって見せ、
子供のような真似をすれば、年を取ってから少し恥ずかしく思うかもしれません。

(まりはうすの一言) 第二月って、下心のことだったんですね・・。



第二十二則 【巖頭拜喝】 がんとうはいかつ

みなのものに示して言います、人は言葉を使って意味を探り、水は杖を使って底を探ります。草をなぎ払い風を感じながら行脚することは日常の修行ですが、とつぜんに尻尾の焦げた大虎が飛び出してくればどうでしょう?

あるときのこと、巖頭は徳山和尚のところにやって来て、入り口の門にまたがったままで質問します、
巖頭 「これは凡でしょうか聖でしょうか 」
徳山はすぐに喝をやってみせ、巖頭は徳山を礼拝します。

洞山和尚がこの話を聞いて言います、
「もし巖頭がこれをやったのでなければ、ちょっと怒られたかもな 」

巖頭 「洞山老人は、好き嫌いのないかたですが、わたしはこのときお釈迦さまの真似をしていただけなのです 」

頌云、
挫來機、總權柄。
事有必行之威、
國有不犯之令。
賓尚奉而主驕、
君忌諌而臣佞。
底意巖頭問徳山、
一擡一捺看心行。

詩文に言います、
そのはたらきがやってくることは挫けてしまい、すべてのもののきっかけを推し量ります。
いろいろな出来事にはかならずそれにともなって人を従わせるもっともな理屈があり、
たとえば国にあっては罪を犯さないというもの。
客人がみつぎものを献上することは、主君に驕るこころを持たせることであり、
主君が意見されるのをキラえば、家臣がよからぬ悪事をたくらみます。
巖頭が徳山に質問したその真意とはどんなものでしょう、
片手を持ち上げ、片手を膝に置く、そのこころのあり方を見てください。

(まりはうすの一言) お釈迦さまの言ってた中道とは、門の上に跨がることのようです。



第二十三則 【魯祖面壁】 ろそめんへき

みなのものに示して言います、ダルマ大師は九年間少林寺にいて、その行法は壁にあいまみえると呼ばれます。二祖慧可である神光はダルマを三拜し、天のはたらきを少しだけこの世界にあらわして見せます。どんなふうにして得たものをキレイに掃き捨て、伝わったものを跡形も無く消し去ることができるのでしょう。

魯祖和尚という人がいて、僧がやって来るのを見るたびに、すぐに壁に向かって座禅をやってみせました。

南泉和尚がこれを聞いて言います、
南泉 「わたしもふだんは道ではないところに向いていますが、その何かは、この世界がまだなにもない空虚な場所であったときに、すでにあり、お釈迦さまがいまだこの世に現れていないときにも理解することができたものです。それでもまだ多くの人がこれを得たとは言えず、もしまだそんな状態なら、十二支ではなく、ロバ年に向かって消え去ってみればわかるかも知れません 」

頌云、
淡中有味有、妙超謂。
綿綿若存兮象先、
兀兀如愚兮道貴。
玉雕文以喪淳、
珠在淵而自媚。
十分爽氣兮磨暑秋、
一片閑雲兮遠分天水。

詩文に言います、
淡いビミョーさの中にも味を感じられることがあり、そのビミョーさは言葉を超えたところにあります。
綿綿と連なっているものは、象の鼻のようで、
なにも考えないことを地道に繰り返すことがその貴い道なのです。
宝玉に文字を彫り付ければその素朴さを喪ってしまい、
宝珠が水の底にあれぱ、自から光を放ち人を誘うでしょう。
十分に爽やかな風がふけば、まだ暑い秋にも磨かれたような透明感が漂い、
一かたまりののどかな雲が浮かび、はるか遠くに天と水面が分かれています。

(まりはうすの一言) 面壁モードの切り替えスイッチだな。



第二十四則 【雪峰看蛇】 せっぽうかんじゃ

みなのものに示して言います、東の海にいるという伝説の巨大な鯉魚、南山に住むという猛毒の亀首をもつヘビ、普化和尚はロバの鳴き声を真似し、子湖和尚は犬の遠吠えをやってみせます。世間の常の感覚に堕ちることではなく、獣や人で無いものの間を行くことでもありません。そこで言ってください、これはどんな人の行くべきところなのでしょう。

あるとき雪峰和尚がみなのものに示して言います、 「南山というところに、一匹の亀のような鼻を持った猛毒のヘビがいます、あなたたちはこれをもっとよく観察してみてください 」

長慶 「今日この本堂のなかにいる大勢の人たちは、みんな気絶してしまいました 」

ある僧が玄沙にこれを報告すると、
玄沙 「そんなことなら、これは長慶兄さんにしてはじめて得られる境地であって、でもたとえそのようであったとしても、わたしはもう少し違う感じかな 」
僧 「和尚ならどうするのでしょう? 」
玄沙 「南山という言葉のはたらきが、なにかをしているのだろう 」

雲門が杖をもってきて、雪峰の顔の前に向かいヘビを怖がっている様子をやって見せます。

頌云、
玄沙大剛、長慶少勇。
南山鼈鼻死無用。
風雲際會頭角生、
果見韶陽下手弄。
下手弄、
激電光中看變動。
在我也能遣能呼、
於彼也有擒有縱。
底事如今付阿誰、
冷口傷人不知痛。

詩文に言います。
玄沙はとても強い意志を持ち、長慶は勇気が少なかったようです。
南山にいカメ鼻のヘビは死んでその使い道もなくなります。
風が雲を吹きやれば、その境い目から頭に生えた龍の角があらわれ、
答えのわかった雲門は、手をおろして杖をふります。
へびもいないのに杖をふってみせること、
激しい稲妻のなかに変化する動きを見ます。
自分の内に在るものを、よく使いこなし良く呼び出し、
自分の外にあるものは、囚われることがあり、操られることがあります。
今この事のはたらくしくみは、誰がそれをするのでしょう?
感想の無い人は、傷を負っても痛みを感じません。

(まりはうすの一言) 3Dシューティング・ゲームにヘビのモンスター現れたところ。



第二十五則 【鹽官犀扇】 あいかんさいせん

皆のものに示して言います、北京にある湖の刹海は果てが無いように見えるけれど、まさにこの場所をはなれることはなく、はるか昔の出来事はその存在が尽きてしまい、そして今があります。この教えを試してみればまのあたりにその感覚が現れ、即座につむじ風が巻き起こってその場をぐるぐる回ります。そこで言ってください、それは通り過ぎたどの場所のことかと。

ある日のこと、鹽官和尚が侍者を呼びます。

鹽官 「わたしがしまっていたサイの扇子を持って来てくれないか? 」
侍者 「扇子は破れてしまいました 」
鹽官 「扇子が敗れたのならわたしにサイの子供を連れて来て返してください 」
これに答える者はありません

資福和尚が、円を描いて、その中に牛の字を一つ書いてみせます。

頌云、
扇子破索犀牛、
捲攣中字有來由。
誰知桂轂千年魄、
妙作通明一點秋。

詩文に言います、
扇子が破れればサイを探します、
くるりと回して持ち上げた円の中の文字にそのわけがあり。
千年の時をつらぬくすばらしいものは、誰が知っているのでしょう?
ふしぎな作用が明らかにして教えてくれるのは、秋の風景のようなものなのです

(まりはうすの一言) 子供のサイは角がありません。



第二十六則 【仰山指雪】ぎょうさんしせつ

皆のものに示して言います。氷と雪は一つの色で、雪には月の光が入り交じります。ほとけの身体である法身も凍りつき、漁師もまったく仕事にならず損をすることでしょう。さてこんなとき、その様子を楽しむことができるのでしょうか、またはそうではないのでしょうか。

仰山和尚が雪をかぶった獅子の像を指差して言います。
「この色を見て、仏をあらわすのにふさわしいそれ以上の者があるとすれば、それはどんなものだろうか? 」

雲門 「言われたまさにそのとき、即座に押し倒してみせれば良いでしょう 」

雪竇 「ただ押し倒すことを理解するだけでは、たすけ起こすことまで理解したとは言えません 」

頌云、
一倒一起雪庭師子、
愼於犯而懷仁、
勇於爲而見義。
清光照眼似迷家、
明白轉身還墮位。
衲家了無寄。
同死同生何此何彼。
暖信破梅兮春到寒枝、
凉飆脱葉兮秋澄潦水。

詩文に言います。
一回倒し一回起こす雪の庭にある獅子像、
なにかに囚われることを控えれば、ふところの内に思いやりがあらわれ、
思い切ってやってみれば、そこにすじ道を見ることになります。
外の光に目がくらみ、家の中が暗くて迷ってしまうようなもの、
明らかでハッキリとした世界に身を置けば、それは低いレベルに落ちることになります。
禅宗の最後に行き着く家は、寄るべき場所のないところがそれであり、
同じところに死に、同じところに生きるというのは、コレとアレの区別がつかないことを意味します。
暖かさを感じて梅のつぼみが破れれば、春は寒風の枝にもやって来て、
涼しいつむじ風が吹いて葉が落ちれば、秋の澄んだ空気がたまり水に映ります。

(まりはうすの一言) 雪獅子を、ななめに傾けたら良いかも。



第二十七則 【法眼指簾】 ほうがんしれん

皆のものに示して言います。師匠の数が多くなれば、伝わる血脈も乱れてくるし、はたらきが現れれば正しい道にはずれることもあります。病気がないことと病気を治療することは、どちらも傷を癒すことではあるけれど、すじ道があればそれにしがみついてしまいます。それならこの話は何が良くないというのでしょうか?

法眼和尚が手ですだれを指差します。その時二人の僧がいて、同時にすだれのところに行き、すだれを巻き上げます。

法眼 「一つ得て、一つを失った 」

頌云、
松直棘曲、鶴長鳧短。
羲皇世人、倶忘治亂。
其安也潛龍在淵、
其逸也翔鳥脱絆。
無何禰西來。
裡許得失相半。
蓬隨風而轉空、
截流而到岸。
箇中靈利衲、
看取涼手段。

詩文に言います。
松は真っすぐで、いばらの茎は曲がりくねっていて、鶴はクビが長く鴨は首が短いものです。
古代の聖人である伏羲の時代の人たちは、平和も戦乱もともに忘れて暮らしていました。
その安らかなことは、地に潜った龍がまだ沼の中にいて天にのぼる前のようであり、
その自由さは飛ぶ鳥がしばりひもから抜け出たようでもあります。
インドからなにか祠のようなものがやって来たわけではなく、
内側には得失が半分づつのものを秘めています。
よもぎは風に飛ばされて空中を転がっていき、
流れを断ち切れば岸に到ることができます。
自分の中にすぐれた禅僧の魂があり、
そのさわやかなやり方を見て取るのです。

(まりはうすの一言) 神さまの乱数表ですね。



第二十八則 【護國三麼】 ごこくさんま

皆のものに示して言います。短い糸をはた織り機に掛けることができずイライラした気分の底にいる人は、正に是れ外道の姿そのままで、米粒をうまく噛むことができずにいる男は、その場所に帰ることができず、焦った顔の鬼の王のようなものです。たとえ聖なる場所に生まれたとしても、いまだ旗竿の先から転落することをまぬがれません。そんなとき恥ずかしさを覆い隠した様なものがあるとすれば、どんなところなのでしょう? 」

僧が護國和尚に質問します。
「鶴が枯れた松に立っているときはどうでしょう? 」
護國 「地面の穴をのぞき込んだときの、あの一瞬のとまどいだよ 」

僧 「したたり落ちる水が凍りつくときは、どうでしょう? 」
護國 「朝日が出た後に一瞬やって来るあの気分 」

僧 「唐の会昌のころ仏教が禁止されたとき、ほとけを守る善神たちはどこへ去ってしまったのでしょうか? 」
護國 「山門の上にある二体の仏像を見たら、そのときの感じだよ 」

頌云、
壯士稜稜鬢未秋、
男兒不憤不封侯。
翻思清白傳家客、
洗耳溪頭不飮牛。

詩文に言います。
意気盛んな男のひげは稜線が立っていて耳元まで途切れません。、
小さな男の子は領主など見ていないので憤ることもなく、。
思い出すのは清白吏子と呼ばれる許由の家にやって来た客、
許由が仕官をさそう悪声を耳から洗い流すために渓流に頭をつければ、父親はその下流では牛に水を飲ませず上流に連れて行きます。

(まりはうすの一言) 三回くり返す「麼羅」、恥ずかしくて心を盗まれたような状態だそうです。



第二十九則 【風穴鐵牛】 ふうけつてつぎゅう

皆のものに示して言います。囲碁は遅打ちしてゆっくり歩き、斧の柄がささくれていることには気づきません。視点を移せば考えが迷ってしまい、ひしゃくの柄をまさに奪い取ったそのときのこと。もし鬼の住む岩屋の中にいてなぐられつづけ、死んだ蛇のあたまを握りしめているのなら、自分を振り返って豹のようにハッキリとした模様に区分されているか、またはそうでないかを考えてください

あるとき、風穴和尚が郢州の屋敷の中で、上座に座って説法をします。

「祖師たちの考える心のイメージは、兎王が黄河に沈めた鉄牛のはたらきに似ています。鉄牛が水に沈んで消え去れば、そのイメージがあたまの中にあり、目の前に現れればそのイメージは壊れてしまいます。ただ鉄牛が水に沈まないのに、目の前にも見えないようなことがあったとしたら、鉄牛のイメージが頭の中にあることが仏でしょうか? イメージのないことが仏なのでしょうか? 」

そのとき、盧陂長老というものが前に進み出て風穴和尚に質問します。
盧陂「このわたしには鉄牛のはたらきがあります。師はどうぞ、このわたしにその鉄牛のイメージを乗せてみてください 」
風穴「鯨が跳ねた巨大な波が水を澄んだものに変えたと思ったら、踏んずけた足元の泥砂の中でカエルがゲロッと鳴いていた 」
盧陂が思わず言葉につまると、風穴は「喝!」 とやって、さらに
「盧陂長老はなぜ言葉をつづけないのか? 」と聞きます。
盧陂は固まってしまい、風穴はほっすで一回打って言います。
風穴「もう一度話しのはじめに戻って、あらためて考えてください 」
盧陂が口を開こうとしたその瞬間、風穴は盧陂をもう一度ほっすで打ちます。

牧主というものが言います。
「佛法と王法がひとつになったようなものでしょうか? 」
風穴「それはどんな見立てかな? 」
牧主「決断しなければいけないその瞬間に決断しなければ、逆に乱れのもとになるでしょう 」
風穴はすぐに上座を降りてしまいます。

頌云、
鐵牛之機、印住印破。
透出毘盧頂行、
却來化佛舌頭坐。
風穴當衡、盧陂負墮。
棒頭喝下、電光石火。
歴歴分明珠在盤。
起眉毛還蹉過。

詩文に言います
鉄牛のはたらきは、イメージがあらわれて、イメージが壊れます。
ビルシャナ仏の頭のてっぺんを飛び越えて、透かし出されるものがあり、
風穴和尚はバランスした場所にあり、盧陂はかん違いに囚われます。
打たれた棒の頭と喝の声のとどくところ、稲妻が走り火花が飛びます。
むかしからハッキリしているのは、玉がお皿の上に載っていることで、
眉毛を持ち上げれば、逆にそれを見逃してしまうかもしれません。

(まりはうすの一言) 舞台のせり上がりのようなものでしょうか?



第三十則 【大隨劫火】 だいずいごうか

みなのものに示して言います。向かい合うあらゆるものを絶ち、二つの頭を切り落とします。疑いのかたまりを打ち破り、その言葉をどんなふうに消すのでしょう。長安の都を一歩も離れず、泰山はただ三斤の重さでしかありません。そこで言います、なにがそうさせようとして、あえてそんな言い方になるのでしょう?

あるとき僧が大隨和尚に質問します。
僧「世界の終末の炎が周囲をとりかこんでいるとき、大千世界もともに壊れてしまいます。よくわからないのですが、このわたしも壊れてしまうのでしょうか、または壊れてしまわないのでしょうか? 」

大隋「壊れる 」
僧「そのようであるならば、そんなことであるとして、他のものに従って消え去るのでしょうか? 」
大隋「他のものに従って消え去ればよいでしょう 」

また、僧が龍濟和尚に聞きます。
僧「世界の終末の炎が周囲をとりかこんでいるとき、大千世界もともに壊れてしまいます。よくわからないのですが、このわたしも壊れてしまうのでしょうか、または壊れてしまわないのでしょうか? 」
龍濟「壊れないだろう 」
僧「なぜ壊れないのでしょう? 」
龍濟「大千世界と同じだよ 」

頌云、
壞不壞、
隨他去也大千界。
句裏了無鉤鎖機。
脚頭多被葛藤礙。
會不會、
分明底事丁寧晒。
知心拈出勿商量、
輸我當行相買賣。

詩文に言います。
壊れたり壊れなかったり、
他のものに従って消え去るとは大千界のことであり。
言葉が終ればその裏に犬をつなぐ鎖のはたらきはなく、
足と頭の数が多ければ、葛や藤のつるに絡まってしまいます。
出会ったり出会わなかったり、
ハッキリ分かったその先とは、よく晒した布のようであり、
知識やこころを使って推し量ってはいけません。
自分がその場所に行き、だれかと売り買いの交渉をするようなものなのです。

(まりはうすの一言) 映画を見終わったあなたはいったい誰でしょう? みたいな話だな。



第三十一則 【雲門露柱】 うんもんろちゅう

みなのものに示して言います。 衆に示して云く、ほとけに向かうひとつのはたらきとは、鶴が広々とした空のかなたを飛んでいることであり、宋の国の北端にある当陽へ向かう一本の道は、灰色の鷹が朝鮮半島の新羅国へむかって飛び過ぎます。たとえその眼が流星のようにすばやく見ることができたとしても、口が横長のひさしのように開かれたままなのを逃れることはできません。そこで言います、これはいったいどんな意味を教えているのだろうか? と。

雲門和尚が皆の衆に言います
「この家のひさしを支える露柱は、お釈迦様より前の過去七仏と共通する点があります。その代々つたわるはたらきとはどんなものでしょう? 」

聞いている大衆は誰も言葉がありません。
そこで、雲門和尚が自分で代わりに答えます。
「南の山に雲が起こり、北の山に雨を降らせます」

頌云、
一道神光、初不覆藏。
超見縁也是而無是、
出情量也當而無當。
巖華之粉兮蜂房成蜜、
野草之滋兮麝臍作香。
隨類三尺一丈六、
明明觸處露堂堂。

詩文に言います。
一本のまっすぐな神の光には、はじめから覆われ秘蔵されているものがありません。
見ているという意識を超えれば、仏もまた仏ではなく、
思いを意識して計ることがなければ、そこもまたその場所ではなくなります。
見た目の美しい岩も粉に砕け散り、蜂の巣にも蜜ができています。
野草に栄養があるように、じゃこう鹿のへそにも香りがあります。
お釈迦様に従うそのものは三尺の高さがあり、
なにも迷いがなく一人で居ることは、
多くの露柱が家の入り口に立っていることなのです。

(まりはうすの一言) 男は黙って・・とかありましたね。



第三十二則 【仰山心境】 ぎょうさんしんきょう

皆のものに示して言います。龍は海をその住む世界とし、隠れたり現れたりして泳ぐことに優れ、天は是れ鶴のふるさとの家であり、鳴きながら飛ぶことを自在にします。孔子の困誓篇に史魚は自分の意見が容れられないのに黄河のほとりにとどまったといい、動きの鈍い鳥は葦の茂みの中に住みます。これはどんな利害を計っているのでしょうか?

仰山和尚が僧に聞きます。

仰山 「どこの生まれの人ですか? 」
僧 「幽州です 」
仰山 「あなたは、よく言われる中というものを思いますか? 」
僧 「いつも思っています」
仰山 「ハッキリと思うのはそれが心というもの、その思っている場所はそれを境と呼びます。その中には山河大地や高い建物や宮殿、人と動物などがいるのです。

その思っている一番底の心を、振り返るようにして思って見ます。そこから有るということに戻ってみれば、そのなにかが多数に分かれたこともわかります」
僧 「わたしはここまでやって来てすべてを考えましたが、その有るというものを見ることがありません」
仰山 「それを信じてみようというのは即ち仏、人の考えはいまだ仏ではありません 」
僧 「和尚はその他に指示することはあるのでしょうか、またはないのでしょうか? 」
仰山 「別に有ったり別に無しというのでは、即ち中というものではありません。あなたが自分の見たところを大切にするのなら、ただ一つの不思議を得ることになるでしょう。座布団に座り法衣を着たら、そのあとは自分で見てください 」

頌云、
無外而容、無礙而沖。
門牆岸岸、關鎖重重。
酒常酣而臥客、
飯雖飽而頽農。
突出虚空兮風搏妙翅、
蹈翻滄海兮雷送游龍。

詩文に言います。
外では無く内に入ることであり、妨げられることが無くはるかかなたまで広々としています。
門の垣根は高く連なり、関所の鎖は何重にもかけられ、
いつも酒を飲んでいる酔っ払いはすぐに人の家で寝てしまい、
飯も飽きるほど食べれば田んぼも見捨てられてしまいます。
虚空に突出した不思議な羽がはばたけば、
足のふいごで目の前の蒼い海に空気を送れば、雷が走り、竜が泳ぐところを見るでしょう。

(まりはうすの一言) お釈迦さまの中道かと思われます。



第三十三則 【三聖金剛】 さんせいこんごう

みなのものに示して言います。強いものに出会えば即座に弱くなり、柔らかいものに行き会ってみれば即座に硬いものとなります。二つの硬いものがぶつかり合えば、必ず一つの傷ができるというもの。そこで言います、どうすればこの堂々めぐりを抜け出せるのでしょうか? と。

あるときのこと、臨済和尚の弟子である三聖慧然がやってきて、雪峰和尚に質問します。

三聖 「その不思議な網を透リ抜けた金色の鱗の魚ですが、わたしにはまだわからなくて、どんなものを食べて生活しているのでしょうか? 」
雪峰 「それは、あなたがその網を透り抜けてくるのを待って、わたしがあなたに聞こうと思ってたんですよ 」
三聖 「一千五百人もの修行僧がいるのに、それでは話の入り口すらもわかっていないということですか? 」
雪峰 「老人は寺に住んでいるので、いろいろと雑用が多くてね 」

頌云、
浪級初昇、雲雷相送。
騰躍稜稜看大用、
燒尾分明度禹門。
華鱗未肯淹甕、
老成人不驚衆。
慣臨大敵初無恐、
泛泛端如五兩輕、
堆堆何啻千鈞重。
高名四海復誰同、
介立八風吹不動。

詩文に言います。
鯉が浪立つ三級の滝を初めて昇り龍となるとき、空には雷雲が次々と起こり、
沸き立ち飛び跳ねるようにつぎつぎと大きなはたらきを見ることができます。
鯉が尾ひれを焼き、はっきりとした龍の姿で禹門の滝を登るとき、
美しいウロコがいまだ魚入れの瓶の中にあるということもありません。
よくわかった老人は周りの人たちを驚かすことも無く、
大きな敵に臨むことにも慣れているので、初めから恐れません。
ぷかぷか浮かぶ60メートルの反物のようでもあり、
盛り上がりが連なっていて、なにやらただならぬ千鈞の重さもあります。
国中に名前が知られたとしても、それがどうだと言うのでしょう?
その立っている場所に八方から風が吹き込んでも動くことはありません。

(まりはうすの一言) なんか雪峰和尚は、どうでもいいような対応ですね。



第三十四則 【風穴一塵】 ふうけついちじん

みなのものに示して言います。赤い手のひら、虚空に突き出す握りこぶしは、千のものに変わり万のものに別れます。このことは、なにも無いことを利用して有るものを作リ出しているようにも見えるげれど、仮の像をあれこれ使い、真実の様子を再現しているとも言えます。そこで言います、有るものも元に返ればそれはまた無いことなのだと。

風穴和尚がはじめに質問して言います。
「もし、ひとかたまりの砂塵が巻き起これば、家も国も栄えるし、その砂塵が起こらなければ家も国も衰え滅亡するでしょう 」

雪竇和尚がもたれている杖をくるくるとひねりながら言います。
「同じ場所に生き、同じ場所で死んでいる。その根底に共通してあるものは、禅僧ならなんと説明するのでしょう? 」

頌云、
然渭水起埀綸、
何似首陽人。何似首陽清餓人
只在一塵分變態、
高名勲業兩難泯。

詩文に言います。
黄河の上流である渭水も、最初は組みひもを垂らしたような流れから始まり、
なにをもって山西省にある首陽山の人と言うのかは、周の武王をいさめた伯夷・叔斉が隠棲し餓死した故事のことです。
ただ目の前にひとかたまりの砂塵があれば、変化する様子から分離することができ、
名声や誇らしい業績は、ともに滅びるための災いなのです。

(まりはうすの一言) ぼんやり感のようなもの。



第三十五則 【洛浦伏庸】 らくほふくよう

皆のものに示して言います。すばやいはたらきと相手を上回る弁舌、仏教でないものや第六天の魔王とも交渉することができ、形式を離れ、教えを超えて、その本質的に優れたもののために利害や智慧を曲げて解釈します。この一棒で打たれることに出会ったとき、頭を回して振り返らないその元にいるなにかを感じる、そんな時はどうでしょう? 示衆云。迅機捷辯。折衝外道天魔。逸格超宗。 曲爲上根利智。忽遇箇一棒打不迴頭底漢。 時如何

あるときのこと、洛浦が夾山和尚のもとにやって来て、和尚に礼拝することもなく面と向かって立っています。

夾山 「ニワトリが鳳凰の巣に住んでいるようだな、その同類でないのならすぐに出で去りなさい 」
洛浦 「風の向くまま遠くからやって来たので、師にもう一言お願いしたいのですが 」
夾山 「目の前に薄暗くぼんやりしたものなどはなく(無闍黎)、この場所に老人もいないのです 」
洛浦はすぐさま喝を返します。

夾山 「いろいろな場所に住むことは、無数の草がざわめいていることではありません。雲と月は(重なれば)同じものに見えますが、川と山ならそれぞれ違った見え方もあるでしょう。天下の人々の舌先を切り落とせば、即座に無という言葉ではないものになり、どうすればこの舌の無いひとの理解した言葉を説明できるのでしょう? 」
洛浦 「・・・ 」

夾山はすぐに棒で打ち、洛浦はこのためにひれ伏してしまいます。

鷄鳳に棲む其の同類に非ず、出で去れ。浦云く、遠きより風にる、乞う師一接。山云く、目前に闍黎なく此間に老なし。浦、便ち喝す。山云く、住ね住ね且らく草草怱怱なること莫れ。雲月是れ同く溪山各異なり。天下人の舌頭を截斷することはち無きに非ず。爭でか無舌人をして解語せしめん。浦、無語。山、便ち打つ。浦此れより伏庸す。擧。洛浦參夾山。不禮拜當面而立 山云。?棲鳳巣。非其同類出去 浦云。自遠趨風。乞師一接。山云。目前 無闍梨。此間無老僧 浦便喝 山云。 住住且莫草草匆匆 雲月是同。溪山各異 斷天下人舌頭。即不無 爭教無舌人解語 浦無語 山便打 浦從此伏膺

  頌云、
搖頭擺尾赤梢鱗、
徹底無依解轉身。
截斷舌頭饒有術、
廻鼻孔妙通神。
夜明簾外兮風月如晝、
枯木巖前兮花卉常春。
無舌人無舌人、
正令全提一句親。
獨歩寰中明了了、
任從天下樂欣欣。

詩文に言います。
頭を揺らし、しっ尾をうねらせる、ウロコ模様の赤い枝先、
とことん何者にも頼らないなら、身をひるがえすことを理解します。
舌先を切り落とせば、いろいろな使い道があらわれ、
鼻の穴をひねって回せば、神に通じる不思議があらわれます。
明明とした夜、すだれの外の風と月は絵に画いたようであり、
岩壁にある枯れ木も、春がくれば花が咲きます。
舌の無い人、舌の無い人。
そのなにかから提示されたものがまったく正しく行なわれ、ひとつの言葉を大切にし、
世界を一人で歩けばすべてを明らかにし尽くし、
天下がこれに従いそれに任せてしまえば、楽しく喜びもあふれることでしょう。

(まりはうすの一言) 舌頭坐断は、言葉の出づらい感覚のこと。



第三十六則 【馬師不安】 ましふあん

みなのものに示して言います。心や想いがその認識しているものから離れ、それでもまだここに一つのなにかが存在することが有り、凡人や聖人のあり方を学ぶことからも出れば、そこには素晴らしく高みにあるものがすでにあります。赤く熱した火炉には鉄から出た浜菱やジャスミンのような花が飛んでいます。舌の剣と唇の槍ではへらず口を黙らせることはむずかしく、鋭い舌鋒を使って相手をやり込むこともありません。試しにこの話を見てください。

あるとき馬祖大師が病気で寝ていると、てらの院主が見舞いにやってきます。

院主 「和尚さまは、最近様子はいかがでしょうか? 」
馬 「太陽に顔を向けたときの仏、月に顔を向けたときの仏 (日面佛月面佛)。 」

頌云、
日面月面、星流電卷。
鏡對像而無私、
珠在盤而自轉。
君不見、
鎚前百錬之金、
刀尺下一機之絹。

詩文に言います、
太陽に顔を向け、月に顔を向け、星は流れ、稲妻が走ります。
鏡が像を映す時、自分というものがありません。
お盆の上に球があれば、(傾きにしたがって) 自分でころがります。
あなたはたぶんそれを見ないでしょう。
金鎚の前には百回も精錬した金が置かれていて、
刀を振り下ろす少し下には、一枚の絹が置かれているのです。

(まりはうすの一言) 太陽と月に顔を向けてみれば、皮ふ感覚がちがうんでしょうね、きっと。



第三十七則 【爲山業識】 いさんごうしき

みなのものに示して言います。田を耕す農夫が牛を動かすためには、牛の鼻の穴を引きずり回します。餓えた人の食事を奪い、その喉をつかんで絞め殺したりすることもあります。さて自分にもどって、このような毒のある手法を使える人はどんな人なのでしょう?

あるとき、爲山和尚が弟子の仰山に質問します。

爲山 「たとえば有る人がいて、一切衆生にはただ、思いが働くぼんやりとした感覚が連なるだけで (唯有業識茫茫)、 それらが依るべき本のものはなにもないのである、と問いかけたなら、おまえなら、それをどう説明するのかな? 」

仰山 「もし、わたしのところにやって来る僧があれば、呼び出して、その僧が首をこちらに向けたその瞬間にこう言うつもりです。これはなんだろう? 」

仰山 「そして、僧が答えに詰まってしまったところで、こう言います。そのただ思いがぼんやりとした状態でなくても (非唯業識茫茫)、またその依るべき本のものは存在しないのです 」

爲山 「それで良いだろう 」

頌云、
一喚廻頭識我不、
依蘿月又成鈞。
千金之子纔流落、
漠漠窮途有許愁。

詩文に言います。
一声呼ばれて、頭を振り返ってみたとき、自分というものがないことに気がつきます。
ぼんやりとした月を見れば、それはまた釣り合いのとれた秤のようであり、
千金の値のそのなにかが、わずかに流れ落ちて(バランスが崩れたとしても)、
無限に広がる道は途絶えてしまい、憂鬱な気分が残るだけなのです。

(まりはうすの一言) 元としての自分がないならば、いったい誰が世界を見ているんでしょうね?



第三十八則 【臨濟眞人】 りんざいしんじん

みなのものに示して言います。ドロボーであっても自分の子として育て、奴隷であっても自分の家臣にします。木でできた柄杓を折ることが、どうして先祖のドクロだと言うのでしょうか? ロバの鞍の反り返った部分で、ぼんやりとした老人がうなずいています。土が裂けて、植物の芽があらわれるとき、それをどんな風に理解したらよいのでしょう。

臨済和尚がみなのもの示して言います。
臨済 「ここに一人の位をもたない真実の人がいます (有一無位眞人)。

あなたたちは常にそれに向かっていて、それは顔の入口を自由に出入りしています。

まだ初心のもので、それがあることを確かめていないものは、よくよく見てください。」

ときにある僧が質問をします。
僧 「その無位の眞人とは、どのようなものなのでしょう? 」

臨済和尚が禅床を降りて来てその僧の着物をつかむと、その僧は言葉を失ってしまい、臨済はその手を突き放してこう言います。

臨済「無位の眞人とは、干からびたウンコが地面に突き刺さっているようなものだ 」

頌云、
迷悟相返、妙傳而簡。
春百花兮一吹、
力廻九牛兮一挽。
無奈泥沙撥不開。
分明塞斷甘泉眼、
忽然突出肆横流。
師復云、險。

詩文に言います。
迷ったり理解したり互いに返し合い、不思議なものを伝え、そしてそれはシンプルなもの。
春には百花が開いて風が一吹きし、
多くの牛で車を回し力づくで粉を挽きます。
泥砂をはじいても、穴が開くことはなく、なにごともなかったようで、
目薬をさせば、ハッキリとしたものから塞がれて遮断され、
ぼんやりとした中に突き出した市場の風景が横に流れていきます。
師はまたこうも言います、大事な一点のようなものである、と。


(まりはうすの一言) 蕨(草かんむりでなく木へん)は、密教で使うくさびで、干からびたうんこにたとえてます。



第三十九則 【趙州洗鉢】 じょうしゅうせんばち

みなのものに示して言います。ご飯が来れば口をほお張り、眠気が来ればまぶたを合わせます。顔を洗う場所では鼻の穴を拾って手に入れることができ、頭にわらじをかぶってみれば、かかとに眼がついているのかもしれません。こんなとき、話のはじめのちょっとしたことでも、夜も深くなった灯りのもとで探してみます。それが消え去ることは、どうしたら得ることができるのでしょう?

あるとき、僧が趙州和尚に質問します。

僧 「わたしは修行のため寺に入りました、できればお師匠さまになにか指示をしていただきたいのですが 」
趙州 「お粥は食べ終わりましたか、それともまだですか? 」
僧 「食べ終わりました 」
趙州 「それならお鉢を洗ってしまいなさい (洗鉢盂去) 」

頌云、
粥罷令洗鉢盂、
豁然心地自相符。
而今參叢林客、
且道其間有悟無。

詩文に言います。
お粥を食べ終えたら、その鉢を洗わせます。
とつぜん心が開け、なにか符号するものがあらわれます。
そんなようにして寺の客は修行に入るのです。
そこで言ってください、そのときなにも無いことがわかったのかどうか? と。

(まりはうすの一言) 洗鉢盂去は、鉢をどこかに消し去らなくてはいけません、リクツは喫茶去と同じ。



第四十則 【雲門白黒】 うんもんはくこく

みなのものに示して言います。車輪が回れば、智慧の眼で見てもなお迷うことになり、宝の鏡のふたを開けば、わずかな塵も付いてなく、こぶしを開いても地に落ちるものはありません。なにかに応じて善きものを知るとき、または二本の刀が出会うとき、どのように振り返ってみるのでしょう。

雲門が乾峰和尚に質問します。

雲門 「師になにかお話をいただきたいのですが 」
乾峰 「この年寄りのところにやって来たのか、またはそうでないのか? 」
雲門 「それは別にしても、私は少し遅れてしまいました 」
乾峰 「そうそう 」
雲門 「まさに候白のような(優れた)答えをして、ついでに候黒のようなおまけがつきました(將謂侯白。更有侯黒) 」

頌云、
弦筈相啣、網珠相對。
發百中而箭箭不、
攝衆景而光光無礙。
得言句之總持、
住游戲之三昧。
妙其間也宛轉偏圓、
必如是也縱横自在。

詩文に言います。
弓つるの両端は互いに引っ張り合い、天球の網にくくられた宝珠は互いを映します。
百発当たってしまえば、それらはもはや個々の矢の連なりとは見えず、
多くの風景が映り込めば光の重なりをさえぎるものもありません。
言葉の持つすべての意味を得て、
遊びに没頭する気分に住んでいます。
ふしぎなその場所は、ゆがんだ円が転がって行く(螺旋の)先にあるようで、
必ず縱横にしばられない自在なもののようです。

(まりはうすの一言) 候白は実在の秀才、候黒はただの話の勢いでしょうか・・。



第四十一則 【洛浦臨終】 らくほりんじゅう

みなのものに示して言います。あるときは誠実さに従い、カバンの留め具を折り曲げたようになにも言うことはなく、あるときは災いが及びそうなので、それを受け入れることができません。貧しい生活の末にひざが折ればったりと倒れても、最後のときはとても礼儀正しくふるまいます。涙が出て、お腹が痛くなれば、さらにその死んだ人の名を静かに呼ぶのは難しいでしょう。こんなときに、その冷たい眼を持った人なら、どんな風にふるまうのでしょうか?

あるときのこと、洛浦和尚はその命の終わるとき、みなのものに示して言います。

洛浦 「今、一つ気にかかる事があって、ここにいるあなたたちに質問します。ここにあるなにかがもし是であるなら、頭の上にもう一つの安心した頭があらわれるでしょう。もしまだ是でないのなら、頭を切り取ってその生き生きとしたものを探してください 」
首座が言います。

首座 「足を持ち上げて墓に入れ、昼間は明かりを灯しません 」
洛浦 「是れというのはなにを意味してるのだろうか? だれかこの話を説明しなさい 」

彦從上座というものが出てきて言います。

彦從「是と是でない二つの道はとりあえず置いといて、師匠はもう質問しないでください 」
洛浦 「それ以上は言うことがないのか? 」
彦從「わたしはまだ言い尽してはいません 」
洛浦 「わたしにはお前が言い尽したのか、言い尽していないのかはわからないな 」
彦從「わたしは和尚さまに付き添う侍者ではありませんから、お答えすることができません 」

その晩になって洛浦は彦從上座を呼び出します。
洛浦 「お前の今日の問答は、ここに呼ばれるだけのものはあったぞ。先師の言葉を得てそれと合致し、目の前にはたらきは無く、その意味だけが目の前にあるのだ。目の前にはたらきがあることは是というものではなく他のものであり、それは目や耳がとどいて理解できる場所にはないのだ。このような言い方が実体で、このような言い方が主なのであり、もしそのことを選択して得ることが出来るなら、(相承のしるしとして) 鉢とその袋をおまえに分け与えようと思う 」

彦從「わかりません 」
洛浦 「おまえはもう理解してると思うよ 」
彦從「まったくわかりません 」

洛浦は喝を発して言います。「苦しい、苦しい 」

そばにいた僧が質問します、「和尚のお心はどうなのでしょう? 」

洛浦 「仏の船は寄せる波の上で、あやつる棹もなく、険しい渓谷にむかって飛べないガチョウを放り投げるようなムダ骨だな・・ 」

頌云、
餌雲鉤月釣津、
年老心孤未得鱗。
一曲離騒歸去後、
汨羅江上獨醒人。

詩文に言います。
雲を餌にし月をカギ針にして船着き場で釣りをします。
年老いてこころは寂しくなりますが、いまだ魚を釣り上げることはできません。
離騒の詩に歌われるように、讒言によって地位をおわれた屈原はふるさとに帰った後、
汨羅江の上で一人物思いに沈みます。(注、その後、屈原は汨羅江に身を投げます)

(まりはうすの一言) 言うことがなければ、相承の鉢がもらえるようです。



第四十二則 【南陽淨瓶】 なんようじょうびん

みなのものに示して言います。食器としての鉢を洗い、水差しの瓶とそろえて並べます。このことがお寺の仏修行を言い尽しています。小舟に柴を載せ運河を進みます。不思議なはたらきや神の通力でないものはありません。どうした理由で地面が割れて光が放たれないのでしょうか?

あるとき僧が南陽の忠國師に質問をします。
僧 「ビルシャナ仏の身体というのは、どのようなものでしょうか? 」
忠國師 「ちょっとそこの水差しの瓶を持って来て、ここに置いてくれないか? 」
僧は瓶を持ってきてそこに置きます。
忠國師 「もとの場所に置いたほうが良いかな? 」

僧はまた質問します。
僧 「ビルシャナ仏の身体というのは、どのようなものでしょうか? 」
忠國師 「古い仏というのは昔から長くやってるからな 」

頌云、
鳥之行空、魚之在水。
江湖相忘、雲天得志。
擬心一絲、對面千里。
知恩報恩、人間幾幾。

詩文に言います。
鳥が空を飛び、魚が水の中を泳ぐようなもの。
寺の生活はもう忘れ、空の雲を見て行き先を考えます。
まだわからないその一本の糸が、千里の距離を歩かせ、
そのなにかを知り、そのなにかを活用する人も代々いたようです。

(まりはうすの一言) あちこち家具のレイアウトを考えるようなものらしいです。



第四十三則 【羅山起滅】 らさんきめつ

みなのものに示して言います。還丹という秘薬の一粒を鉄につけてみればそれは金に変わり、良くわかった一言は、平凡な人を聖人に変えます。もし金と鉄にちがいがないことを知れば、凡人と聖人も元から同じだったことがわかります。果実のような一つの点があり、それを使うのになにかを身に着けることもありません。そこで言います、これはどんな一点なのでしょうか? と。

羅山和尚が巖頭に質問します。

羅山 「意識の生滅が止らなかったらどうします? 」
巖頭はえっ? と驚いて言います。
巖頭 「誰が生滅してるって? 」

頌云、
斫斷老葛藤、
打破狐窟。
豹披霧而變文、
龍乘雷而換骨。
咄。
起滅紛紛是何物。

詩文に言います。
古くなった葛や藤のつるを切り放し、
狐のあなぐらを打ち壊します。
ヒョウが霧の中に飛び込めば、その模様は見えなくなり、
龍は雷に乗りながら、その大きな骨を地上に残します。
えっ? と声を発し、
生滅が入り乱れているとはどんなものなのでしょう?

(まりはうすの一言) 話をよく聞いてなかったんでしょうか?



第四十四則 【興陽妙翅】 こうようみょうし

みなのものに示して言います。ライオンが象を倒し、伝説のガルーダ(金翅鳥)は龍を襲います。月日が流れれば主君と家臣もまた別れ別れになり、禅僧にはいまだ主客が存在しています。それは天の脅しに屈するような罪を冒しているともいえ、そんなときどのようにこれを断ち切るのでしょう?

あるとき、僧が興陽剖和尚に質問をします。

僧 「法華経の場面で龍女が海を出て来ると、天地は静まり返っていて、(お釈迦さまと) 向かい合ったときには何があったのでしょうか? 」
興陽 「鳥の王であるガルーダが宇宙に飛び出したようなもので、自分の中のダレかが頭を持ち上げて出てきたところだよ 」
僧 「その頭が出てきた時とは、どんなものなのでしょう? 」
興陽 「ハヤブサが鳩をつかまえた瞬間に似てるかな、それでもわからないのなら、櫓の上に登ってホントかどうか確かめてみたらよいでしょう 」
僧 「そうであるなら、また自分の胸に手を当てて、三歩退くことにいたします 」
興陽 「仏像の下座にいるすっぽんなんだから、なんども額を床に打ち付けて痕をつけ、重ねて教えを乞う必要もないのですよ 」

詩文に言います。
絲綸降、號令分。
寰中天子、塞外將軍。
不待雷驚出蟄、
那知風遏行雲。
機底聽綿兮自有金針玉線、
印前恢廓兮元無鳥篆蟲文。

頌に云く、
王の言葉があれば、詔勅が発せられ、
国は天子が治め、城の外は將軍が守ります。
雷に驚いて地中の虫が這い出すのを待つまでもなく、
風が雲の流れをさえぎるのを見ればわかることでしょう。
はたおり機の中から綿をつむぐ音が聞こえれば、自動的に金色の針がビーズを一列に縫い付けます。
しるしとしての形が現れる以前の広大な時は、もともと鳥や虫の象形文字もありませんでした。

(まりはうすの一言) ハヤブサの狩りはやぐらに登らなくても、ネットの動画で確認できます。



第四十五則 【覺經四節】 かくきょうしせつ

みなのものに示して言います。その問題集のようなものはすでに目の前に現れていて、今このときしか見ることができません。本来の性質であり家のしきたりのようでもあり、絵のようなイメージではなく、少し予想外のものかもしれません。もし目印がハッキリとわかれば、余計な考える手間もかからないでしょう。混乱もなくなり、眉毛を書くように(丸い)鉢に取っ手を描きます。その平穏はどのようにして得るのでしょうか?

円覚経に言います。どんな時にもあたまの中で想像することはなく、いろいろ想像している心のときもまた息を止めるわけではありません。想像しているときにすでに知っている知識を利用しないし、知っている知識などなく語るべき真実もありません。

頌云、
巍巍堂堂、磊磊落落。
鬧處刺頭、隱處下脚。
脚下線斷我自由、
鼻端泥盡君休。
莫動著、
千年故紙中合藥。

詩文に言います。
巨大な山々がつらなり、大きな石がごろごろと落ちてきます。
騒がしいところではイライラし、静かな場所で足を下ろして休みます。
足元にある境目の線を切り開けば自分が自由になり、
鼻のあたまに泥が付いていればあなたという存在は休んで消えてしまいます。
動くものに気をとられてはいけません。
千年経っても紙包みのなかの調合された薬はまだあるのです。

(まりはうすの一言) 知識を使わない意識の状態があるようです。



第四十六則 【徳山學畢】 とくさんがくひつ

みなのものに示して言います。どこまで行っても短い草さえ生えていず、清らかな場所がわからず迷います。どの方角にも雲の欠けらすらなく、晴れ渡った空にあなたはゴマかされるでしょう。目印としてのくさびを取り去れば(目印のないことが)目印となるけれど、頭の上に空があり、それが徐々に動くことをさまたげることはできません。脳みそのうしろを木槌で殴りつけ、すこし違う説明を見てみましょう。

徳山円明大師が、みなのものに示して言います。

徳山 「その行きついたところでは、消え去ってしまい、そのときは、すでに三世緒仏の口が壁に掛けてあるようなもの。さらにもう一人のダレかがいいて、かっかっ! と大笑いします。もしこの人を知ることができれば、ここでの勉強も終わりとなります 」

頌云、
收、把斷襟喉。
風磨雲拭、水冷天秋。
錦鱗莫謂無滋味、
釣盡滄浪月一鉤。

詩文に言います。
ぐっと襟をつかみ、喉をしぼってそれを取り出します。
風が空を磨き、そのあとを雲が拭えば、さわやかな秋の空となり、
金ピカの魚には味も栄養もない、などと言わないでください。
釣りというのは、蒼天の月の下で一本の釣り針をたらすことに尽きるのです。

(まりはうすの一言) 呵呵大笑って最近はあまり聞かない言葉です。



第四十七則 【趙州柏樹】 じょうしゅうはくじゅ

みなのものに示して言います。庭先にあるびゃくしんの木、竿の上で風にひるがえる旗。一輪の花は果てしなく広がる春の風景を伝え、一滴のしずくが大海の水を想像させます。生きている古仏に聞けば、ふだんの常識からはかけ離れた答えが返ってきて、言葉も思いもどこかに抜け落ちてしまいます。

僧が趙州和尚に質問します。

僧 「だるま大師が中国に伝えようとした真意とは、どんなものなのでしょう? 」
趙州 「庭にあるびゃくしんの木だよ 」

頌云、
岸眉横雪、河目含秋。
海口鼓浪、航舌駕流。
撥亂之手、太平之籌、 老趙州老趙州。 撹撹叢林卒未休、 徒費工夫也造車合轍。 本無伎倆也塞壑填溝。

頌に云く、
岸辺に雪を横たえたような眉、河に秋の風景を映しこんだようなみずみずしい眼。
海の波の音のように口ははっきりした声でしゃべり、流れに乗った船のように舌も滑らかです。
楽器のばちさばきのように動く手、穏やかな様子のなかのはかりごと。
趙州老人、趙州老人。
禅寺をかき回しつづけて、それは今も休むことがなく、
無駄にあれこれ考えることは、わだちから車が出てくるようなもの。
もともと技術など必要ないのに、(無駄に努力して) 谷をふさぎ溝を埋めるのです。

(まりはうすの一言) 中国びゃくしんは、ゴッホの糸杉と同じです。



第四十八則 【摩經不二】 まきょうふに

みなのものに示して言います。ふしぎなはたらきはどこにでも行き渡っていますが、下手くそならその場所を手に入れることはできず、なにものにも邪魔されない弁舌の才覚があっても、口を開くことが有れば、その時を手に入れることはありません。龍牙和尚の手のない人がこぶしを突き出すようなことであり、夾山和尚の教える舌がなくしゃべれない人の言葉を理解することです。仕事の途中でぼんやりしてしまったとき、そこにはどんな人がいるのでしょう?

維摩詰が文殊菩薩に質問します。
維摩 「ふたつに分かれていない教えとは(不二法門)、どんなものなのでしょう? 」

文殊 「わたしが思うのはこんなことで、すべてのこころのはたらきの中で、言葉も無いし説明も無く、示すものも無ければ、理解できるものもありません。あらゆる問答を離れること、このために二つにわかれていない教えに入ることができるのです 」

ここで文殊は維摩詰と同じ質問をします。
「わたしたちそれぞれが説明をするとすれば、あなたの説明はどのようになるのでしょう?  たとえばこのわたしが二つに分かれていない教えに入るとすれば・・ 」

維摩は黙っているだけです。

頌云、
曼殊問疾老毘耶、
不二門開看作家。
表粹中誰賞鑒、
忘前失後莫咨嗟。
區區投璞兮楚庭士、
報珠兮隋城斷蛇。
休點破、絶瑕。
俗氣渾無却較些。

詩文に言います。
天界に咲く白い花のような玉である文殊がインドの病気の老人に質問をします。
二つに分かれていない教えの門が開けば、そこには一門を起こすほどの人を見ることでしよう。
曇りひとつない鏡の中で、それを楽しむのは誰でしょう?
以前のことを忘れ、後のことを考えられなくても、ため息をつかないでください。
楚の成王は何度も家臣の子玉の意見を放置して、結局は反逆に会い。
大蛇を退治したときの宝玉は隋の国を滅ぼします。
印をつけてダメにすることをやめれば、玉のキズもなくなるはず、
ふだんの気分がなにも無いことと混じり合うと、逆にびみょーな比較をするようになるものです。

(まりはうすの一言) 維摩老人はご臨終のようです。



第四十九則 【洞山供眞】 とうさんくしん

みなのものに示して言います。描いてもそれには成らず、書いたとしても表現することはできません。普化和尚は一斤の升をすぐにひっくり返して見せ、龍牙和尚は半身になって見せるだけ。結局どんな人がこの何かを体に刻みつているのでしょう?

洞山和尚が雲巖和尚の思い出をその真意を交えて語っていて、昔話をあれこれとして見せたとき、ある僧が質問をします。

僧 「雲巖和尚が、仏とはまさにこれだよ、と言った意味はどんなものなのでしょう? 」
洞山 「わたしはその頃、先代師匠の言った意味をなんども間違えて理解していました 」
僧 「よくわからないのですが、雲厳和尚は(実際に)有るものを知ると言ったのでしょうか、または無いことを知るのでしょうか? 」

洞山 「もし(実際に)有るものを知らないのならば、どうやってそのようなものを言葉で説明できるのでしょう? もし(実際に)有るものを知っているならば、どうやってその言葉を納得するのでしょう? 」

頌云、
爭解恁麼道、五更鷄唱家林曉。
爭肯恁麼道、千年鶴與雲松老。
寶鑑澄明驗正偏、
玉機轉側看兼到。
門風大振兮規歩綿綿、
父子變通兮聲光浩浩。

詩文に言います。
それをどうやって説明するかといえば、明け方に鶏が鳴いて、家が並ぶ向うに暁が見えるようなもの。
それをどうやって納得するかといえば、千年生きるという鶴が雲や松の木とともにだんだんと老いるようなこと。
宝の鏡は澄み切っていて、真ん中か、片寄っているかをチェックします。
玉が転がるはたらきをそばで見ていると、それが行き着いた場所であることに気が付くかもしれません。
一門の教えの風は大いににぎわって、規則正しく代々つづきます。
父から子へ変化しながら受け継がれ、その声も光も広々としているのです。

(まりはうすの一言) 空っぽの茶碗にはごはんが入っていません。



第五十則 【雪峰甚麼】 せっぽうじんも

みなのものに示して言います。臨終のときの感覚は、(逃げ出すための)牢屋のカギをはじめから持っているようなもので、巖頭和尚お得意のキャッチフレーズでもあります。上を向けば親でもある師匠の言葉を納得せず、下を向けば弟子に教えを譲ることもありません。これは幹の途中に節目があらわれるようなことであり、それぞれが別々のからくり仕掛けを持っている、とも言えるのです。

雪峰和尚が庵に住んでいた時、二人の僧がやって来て雪峰に礼拝します。雪峰は二人がやって来るのを見ると、手で庵の門を押して、ポンと飛び出して言います。

雪峰 「これはなんだろう? 」
僧もまた言います 「これはなんだろう? 」

雪峰は頭を低くしてそのまま庵に帰ってしまいました。
この僧は後に巖頭和尚のところにやって来て、厳頭和尚が質問します。

厳頭 「どこから来たの? 」
僧 「嶺南から来ました 」
厳頭 「雪峰のところには立ち寄ったかな? 」
僧 「行きました 」
厳頭 「なにか言ってたか? 」

そこで僧は雪峰との出来事を説明します。
厳頭 「他にはなにか言ってないか? 」
僧 「それ以外の言葉はなくて、頭を低くして庵に帰ってしまいました 」
厳頭 「ああ、その時ほかのやり方ではなく、臨終のときのあの感じを使えば、天下の人々はこの雪峰老人をもうどうすることもできなかっただろうに 」噫當時不向他道末後句 若向伊道。天下人不奈雪老何

この僧は、夏の終わりになって、再びこの話をして質問します。
厳頭 「なぜもっと早く聞かないのだ? 」
僧 「いまだにうまく理解できませんでした 」

厳頭 「雪峰はわたしと同門の教えからはじまったけれど、同じ教えに死ぬことはないのだ、臨終のその感じというのを知りたければ、ほら、これだよ、これ 」

頌云、
切磋琢磨、變態訛。
葛陂化龍之杖、
陶家居蟄之梭。
同條生兮有數、
同條死兮無多。
末後句只這是、
風舟載月浮秋水。

詩文に言います。
切っては磨き、叩いて磨けば、あいまいさも形を変えます。
仙人にもらった杖で故郷の葛陂に帰り、それを投げ捨てれば龍に変わります。
陶淵明が隠遁生活で愛用した弦のない琴のようなものであり、
同じ幹から生えれば藪となり、
同じ幹に死ねば、多くの枝も無くなってしまいます。
死ぬ前の最後の言葉というのは、ただコレコレであり、
風の舟が月を乗せて秋の水面に浮んでいるようなものです。

(まりはうすの一言) 厳頭和尚は自分を指さして 「コレだよコレ」 と言ってるみたい。






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