【無情説法】 むじょうせっぽう

説法をするときに説いているその中身というのは (説法於説法するは)、お釈迦様がのちの世に託した、お釈迦さまスタイルのほとけを見るための手順です (佛祖附囑於佛祖の見成公案なり)。このほとけのはたらきを説明することは、説明することがすでにほとけのはたらきになっていて (この説法は法説なり)。命有るものでなく (有情にあらず)、命のないものでもなく (無情にあらず)。意味があるわけでもなく (有爲にあらず)、意味がないわけでもなく (無爲にあらず)。有るとかないとかにはかかわらないので (有爲無爲の因縁にあらず)、順番に起こるはたらきでもありません (從縁起の法にあらず)。

そうであっても、鳥の飛んだ飛跡を歩くことはできないので (鳥道に不行なり)、お釈迦さまが庶民のために与えてくれた手法ということです (佛衆に爲與す)。ほとけの道がすべての姿をあらわすとき (大道十成するとき)、その説明も完成されるでしょう (説法十成す)。秘められたほとけのはたらきが託されるとき (法藏附囑するとき)、その説明のしかたもともに託されます (説法附囑す)。お釈迦さまが花をひねれば (拈華のとき)、そのひねった一点がほとけの説明であり (拈説法あり)。法衣を相承するとき (傳衣のとき)、説明のしかたも伝わります (傳説法あり)。このために、もろもろのほとけや師匠たちは (諸佛諸祖)、おなじように大声で知られる威音王が死んだのちに、無数の威音王があらわれた話よりも以前から、ほとけのはたらきに敬意をあらわしそのほとけの説く声ののようなものに出会ってきたのであり (説法に奉覲しきたり)、もろもろのほとけが現れる前から (諸佛以前より) そのほとけの語るものを実践してきました (説法に本行しきたれるなり)。

ほとけを解説することは (説法は) お釈迦さまの理くつが慣わしになったものとだけ理解してはいけません (佛祖の理しきたるとのみ參學することなかれ)。お釈迦さまもまたそのほとけの声のようなものに理くつを習ってきたのです (佛祖は説法に理せられきたるなり)。この説法はわづかに八萬四千門のほとけの真意をあきらかにする (法蘊を開演する) のみではなく無限に広がる教えを含んでいます (無量無邊門の法蘊あり)。ムカシのエライ坊さんたちの解説を (先佛の説法を) 後の世のえらい坊さんたちが受け売りをしていると (後佛は説法すと) 思ってはいけません (參學することなかれ)。むかしの坊さんの言い方が後の坊さんの言葉になったわけではなく (先佛きたりて後佛なるにあらざるがごとく)、仏の言葉のようなものは以前のものが後に真似されているわけでもありません (説法も先説法を後説法とするにはあらず)。このために、

釋迦牟尼佛道、
如三世佛、
説法之儀式、
我今亦如是、
説無分別法

お釈迦さまは言います、
過去現在未来のほとけは、
こんなやりかたでほとけを説明し、
それは今わたしがやっているようなもので、
こうやって区別や差別のないはたらきを解説するのです。

そうであればすなわち、ほとけと呼ばれる人たちがその声のようなものを使っているかのように (諸佛の説法を使用するがごとく)、ほとけと呼ばれる人たちはじっさいの説法をするのです (諸佛は説法を使用するなり)。ほとけと呼ばれる人たちがその説明のやり方を相承して伝えたように (諸佛の説法を正傳するがごとく)、ほとけと呼ばれる人たちはそのほとけの声のようなものも伝えたのであって (諸佛は説法を正傳するによりて)、おおむかしのほとけから (古佛より) お釈迦さま以前の七仏に正しく伝わり、七仏より今の世に正しく伝わって無情説法があるのです。この無情説法のなかにもろもろのほとけの教えがあり (諸佛あり)、ムカシの多くの師匠たちの言葉があるのです (諸祖あるなり)。わたしが今ここで話している説法は、正しく伝わっていない新しい考え (新條) と思ってはいけません。またムカシから伝わる教えは (古來正傳) 古くなった鳥の巣に鬼が住んでいると決め付けるものでもありません (舊巣の鬼窟と證することなかれ)。

大証国師に僧が質問します (大唐國西京光宅寺大證國師、因僧問)、

僧 「無情はいのちがないものなのに説法を理解できるのでしょうか? (無情還解説法否)」
大証 「つねにハッキリと説法していて (常説熾然)、ときどき説法を休んだりすることもないのだよ (説無間歇)」
僧 「わたしはどんな理由でそれを聞くことができないのでしょう? (某甲爲甚麼不聞)」
大証 「おまえが自分で聞こうとしないからだよ (汝自不聞)、それでも他のものがそれを聞こうとするのをジャマすることはできないのだよ (不可妨他聞者也)」
僧 「わかりません (未審)、どんな人が聞くことができるのでしようか? (什麼人得聞)」
大証 「聖人と呼ばれる人たちなら聞けるだろう (諸聖得聞)」
僧 「和尚には聞こえているのですか? (和尚還聞否)」
大証 「わたしは聞かない (我不聞)」
僧 「和尚が聞いてないというのなら (和尚既不聞)、その人でないものが説法を聞いていると、どうやって知ることができるのでしょう? (爭知無情解説法)」
大証 「わたしと名づけられた者の内側ではそれは聞こえず (衣+者我不聞)。わたしがもしそれを聞けばもろもろの聖人と肩を並べることになってしまい (我若聞則齊於諸聖)、おまえはその瞬間にわたしの説法を聞くことができなくなるのですよ (汝即不聞我説法)」
僧 「それではわたしたち俗人にはなにもわからないではないですか (恁麼則衆生無分也)」
大証 「わたしは俗人のみなさんの為に説明しているのであって (我爲衆生説)、もろもろの聖人の為に説明しているわけではありませんよ (不爲諸聖説)」
僧 「俗人にも聞くことができたとしたら、そのアトはどうなるのでしょうか? (衆生聞後如何)」
大証 「即座に俗人ではなくなります (即非衆生)」

無情説法を学ぼうとするものはすべて (參學せん初心晩學)、この大証国師の話をまじめに考えてみるべきです (因縁を直須勤學すべし)。 いつでもその説法が聞こえ、休むことがない (常説熾然、説無間歇) とあり。常はいろいろな時間のそのときであり (諸時の一分時なり)。説無間歇は、その説法の声があらわれているときは (説すでに現出するがごときは)、決まって休みなく聞こえるのです (さだめて無間歇なり)。無情説法の有りかたは (儀)、かならずしも命有るものではないと (有情のごとくにあらんずると) 思って学んではダメです (參學すべからず)。それはふだんの意識で聞こえる音と (有情の音聲および) ふつうの意識で感じられるものにチカくもあるべきなので (有情説法の儀のごとくなるべきがゆゑに)、ふだんの耳に聞こえる音を利用して (有情界の音聲をうばうて)、その意識のない世界の声のようなものに置き換えてしまうのは仏教の考えではありません (無情界の音聲に擬するは佛道にあらず)。その意識のないこころの声は (無情説法は) かならずしもひとかたまりの声のようなものではなく (聲塵なるべからず)、たとえれば、ふだんの意識で聞く説法が声のかたまりというわけでないようなものです (有情の説法それ聲塵にあらざるがごとくなり)。しばらくのあいだ、有情とはなにか、無情とはなにか、あれこれ疑問を持ち (問自問他)、考えてみてください (功夫參學すべし)。

そうであれば、無情説法のあり方は (儀)、どんなものであるのだろうとこと細かに心に留めて考えてみてください。考えの浅い人が (愚人) 思うのは、木々が風にざわめき (樹林の鳴條)、葉が開き花が落ちることを意識のない声 (無情説法) と思ってしまうのは (認ずるは)、仏法を学ぶ人とはいえません。もしそうであるならば、その人でないものの声を知らない人などはいないし (たれか無情説法をしらざらん)、その人でないものの声を聞いてない人もいないでしょう (たれか無情説法をきかざらん)。

少しの間自分の内側に注意を向けてみるのです (しばらく廻光すべし)。無情界には草木樹林があるのかないのか、意識のない世界と意識の有る世界が交わっている場所があるのかないのか (無情界は有情界にまじはれりやいなや)。そうであるのを、草木や瓦礫を無情と思ってしまうのは行き届いているとは言えず (不遍學なり)。意識がないからといって (無情を認じて) 草木や瓦礫がそうであるとするのも十分に考えたとは言えません (不參飽なり)。たとえいま人間が目の前にある (所見の) 草木などをこれだと思い込んで (認じて) 無情であると決めつけたとしても (擬せんと)、草木などもまたカンタンに考えられるものでない部分があり (凡慮のはかるところにあらず)、その理由はどんなものであるかといえば、天上世界や人間世界の樹林ははるかに異なるものであり (殊異あり)、中國あたりに生える草木も (邊地の所生) 一様ではないし、海岸にはえていたり (海裏) 山間にある草木もみなおなじものではありません。まして空を覆うような樹木もあるし、雲を隠すほどの樹木もあります。風にゆれる火などのなかには、ゆらめくような無数の樹があり (所生長の百草萬樹)、まるで命があるように動いていたり (おほよそ有情と學しつべきあり)、それでも命がないのもまたたしかなことです (無情と認ぜられざるあり)。草や木が人やけもののように動いてみえることもあります。有情と無情のさかいはいまだハッキリとはしていません。まして仙人が術を使ってあらわす樹や石や花や果実や湯や水といったたぐいは (いはんや仙家の樹石花果湯水等)、見た目はもっともらしいけれど (みるに疑著およばずとも)、手に取ろうとすると消えてしまいます (脱著せんにかたからざらんや)。ただわずかにこのわたしたちの神の国だけの (神州一國の) 草木を見、日本の国だけの (一州の) 草木をあれこれ調べてみたとしても (慣習して)、無限の世界やこの世界が尽きた場所も (萬方盡界) こんな様子であると決め付けて想像してはいけません (擬議商量することなかれ)。

大証国師の言っている、もろもろの聖人が聞くことができる (國師道、諸聖得聞)。という意味は、無情説法の行われているところでは (會下には)、もろもろの聖人もその場所に立ってそれを聞いているのであり (諸聖立地聽するなり)、それら聖人と人でないものにはともに (諸聖と無情と)、聞いている状態があらわれ (聞を現成し)、説法そのものもあらわれるのです (説を現成せしむ)。人ではないものは (無情) すでに諸の聖人のために説法をしているのです。それは聖人なのだろうか、凡人なのだろうか。あるいは無情説法の様子 (儀) を明らかにし終わったならば (あきらめをはりなば)、聖人たちが聞いたものは (諸聖の所聞) かくこのようなものであると体感することができます (體達すべし)。すでに体の感覚で理解する (體達する) ことができたなら、聖者の感じたものを (境界を) 推理して知ることもできるでしょう (はかりしるべし)。さらに凡人を超え聖人をも越えたその薄暗い道にある (超凡越聖の通宵路の) 修行のやり方をまなぶのです (行履を參學すべし)。

国師は言います、わたしは聞かない (我不聞)。 この言い方もカンタンにわかったと思ってはいけません (道も容易會なりと擬することなかれ)。凡人でも聖人でもなければ聞かないのか (超凡越聖にして不聞なりや)。凡や聖といった思い込みを打ち壊したから聞かないのか (擘破凡聖巣窟のゆゑに不聞なりや)。いろいろ工夫しながら (恁麼功夫して)、理解できるようにしてください (道取を現成せしむべし)。

国師は言います、内側にいるわたしという者は聞きません (衣+者我不聞)。わたしがもしそれを聞けばその瞬間に (我若聞則)、多くの聖人たちと肩を並べてしまうからです (齊於諸聖)。 この言い方は (擧似)、これはひとつの言葉に二つの意味というわけではなく (一道兩道にあらず)。自分のなかのわたしは (衣+者我) 凡と聖のどちらでもなく、自分のなかのわたしは (衣+者我) お釈迦さま (佛祖) なのでしょうか。お釈迦さまは凡聖ともに超越するために (佛祖は超凡越聖するゆゑに)、多くの聖人とはまたすこし違うところがあるのです (諸聖の所聞には一齊ならざるべし)。

国師の言う、あなたは即座にわたしの説法が聞こえなくなります (汝即不聞我説法) という理くつの言わんとするところをよく整理して (理道を修理して)、諸佛諸聖の言うほとけの概念を扱ってください (菩提を料理すべきなり)。その教えるところは (宗旨は)、いはゆる人でないものの語る声は、もろもろの聖人が聞くことを得て、国師の話は、そこにいた僧に聞くことができます (無情説法、諸聖得聞。國師説法、這僧得聞)。この意味のいろいろを (道理を)、学び考える材料とし (參學功夫の) 長い時間を使ってみてください (日深月久とすべし)。 そこでまた国師に質問 (問著) したいものです、俗人が聞いた後はともかく (衆生聞後はとはず)、俗人がまさにその説法を聞いているときはどうでしょう?  と。(衆生正當聞説法時、如何)。

洞山禅師が雲巖和尚に質問します (高祖洞山悟本大師、參曩祖雲巖大和尚問曰)、

洞山 「その命を持っていないものの説法はどんな人が聞くことを得るのでしょう? (無情説法什麼人得聞)」
雲巖 「命でないものの説法は、命でないものが聞けるでしょう (無情説法、無情得聞)」
洞山 「和尚はそれを聞いていますか? (和尚聞否)」
雲巖 「わたしがもしそれを聞けば、あなたは即座にわたしの話を聞くことができなくなります (我若聞、汝即不得聞吾説法也)」
洞山 「もしそうであるなら、即座にわたしも和尚の説法を聞くことやめましょう (若恁麼、即某甲不聞和尚説法)」
雲巖 「わたしが説法してもあなたには聞こえないというのは (我説汝尚不聞)、その命のないものの声についてどんな様子であると言いたいのでしょうか? (何況無情説法也)」
洞山は雲巌に詩を書いて示します (高乃述偈呈曩曰)、

也太奇、也太奇、
無情説法不思議。
若將耳聽終難會、
眼處聞聲方得知。

珍しくもあり、ミョーなものであり、
ひとでないものが話す声は不思議なものです。
それをもし耳で聞こうとすれば、結局は理解することが難しく、
目玉でその声を聞いてみればこと細かに知ることができるかもしれません。

いま洞山禅師の言う (高祖道の) 無情説法はどんな人が聞けるのか (什麼人得聞) という理くつは (道理)、よく一つを理解することでより多くのものを理解できる (一生多生) やりかたをこと細かに考えてみてください (功夫を審細にすべし)。いわゆるこの問いの意味は (問著)、さらにほとけをあらわす工夫のようなものをそなえているべきで (道著の功徳を具すべし)。そのやり方にもいろいろなものがあり (道著の皮肉骨髓あり)、お釈迦さまが迦葉に伝えた以心伝心というやり方だけではありませんが、以心伝心はいろいろな人がよく知っている話でもあります (初心晩學の辨肯なり)。法衣を相承して正しく伝え (衣を擧して正傳し)、ほとけのはたらきをひねって見せながら伝えるゼンマイのようなはたらきでもあり (法を拈じて正傳する關捩子あり)。いまの人は、どうして長い秋の期間を通してとことん考えてみるようなことをしないのでしょう (いかでか三秋四月の功夫に究竟することあらん)。洞山禅師は (高祖) かつて大證国師の言った、無情説法は緒の聖人が聞くことを得る、の教えを見聞して知っていたはずですが、いままたさらにどんな人が聞けるのか? (無情説法什麼人得聞) と質問しています (問著あり)。これは大證国師の言うとおりなのでしょうか (肯大證道なりとやせん)、そうではないのでしょうか (不肯大證道なりとやせん)。質問なのでしょうか (問著なりとやせん)、もうわかっているのでしょうか (道著なりとやせん)。もし大證国師の言うとおりなら、どうやって無情説法の様子を知ることができるのでしょう? (索不肯大證爭得恁麼道)。

雲巖和尚の言った、無情説法は無情が聞くことを得る。 この考え方を受け継いで (血脈を正傳して)、からだもこころ抜け落ちた状態を探すための手助けとするべきです (身心脱落の參學あるべし)。いわゆる無情説法は、無情のものが聞けるということは、ほとけが説法し、それをほとけが自分で聞いている状態です (緒佛説法、緒佛得聞の性相なるべし)。無情説法を聞くために集まった聴衆とは (聽取せん衆會)、たとへ命あるものでもそうでなくても (有情無情なりとも)、たとへ凡夫でも賢聖でも、これらはすべてこころの無いようなものに (無情に) なるのです。この様子を説明することによって (性相によりて)、古今につたわる説法などの真偽を批判すればよいでしょう。たとえインドからやってきたとしても (西天より將來すとも)、正しく伝わった (正傳) まことの師でないのならば、それに頼ってはいけません。たとえ千年萬年もの間伝わったものを学んでいたとしても (聯綿なりとも)、きちんと相承を受けていなければ伝わったものは理解しづらいのです (嫡嫡相承にあらずは嗣續しがたし)。いま正しくつたわったものは (正傳) すでに中国の地まで届き広まっているところです (東土に通達せり)、ホンモノか偽者かによって仏世界への道が開いているか塞がっているかという判断もわかりやすくなっています (眞僞の通塞わきまへやすからん)。たとへ俗人が説法をすれば俗人がそれを聞く (衆生説法、衆生得聞) という解釈を聞いたとしても (道取を聽取しても)、ほとけの真意を汲み取れるようにするべきです (緒佛緒祖の骨髓を稟受しつべし)。雲巌和尚のことばを聞いて理解し (雲巖曩祖の道を聞取し)、大証国師の言い方を聴いて理解し (大證國師の道を聽取して)、まさに与えたり奪ったりすれば (與奪せば)、聖人たちが知っている (緒聖得聞の道取する) 聖人というのはこころのはたらきが消え去った状態でもあるはずです (緒聖は無情なるべし)。いのちではないものが聞けると理解する無情は (無情得聞と道取する無情は) 聖人たちのことです (緒聖なるべし)。無情が説明するものは無情であり (無情所説無情なり)、無情が語ることばは無情そのものであるために (無情説法即無情なるがゆゑに)、そうであればそのことが、無情の語ることばであり (無情説法なり)、声のようなものでありながらこころのはたらきをもたないことなのです (説法無情なり)。

洞山禅師は言います、もしそうであるならば (高祖道の若恁麼)、とりあえずわたしは和尚の説法を聞かないことにします (則某甲不聞和尚説法也)。 いま聞くところの、もしそうなら、というのは (若恁麼)、無情説法は無情のものが聞くことを得るという意味を明らかにするものです (宗旨を擧拈するなり)。無情説法、無情得聞ということばの理くつによって、わたしは和尚の説法を聞かない (某甲不聞、和尚説法也) となるわけです。洞山禅師は (高祖) このとき、無情説法の一端に触れた (席末を接する) のみでなく、無情説法の声に応じてひとかたまりの空気があらわれそのまま天を突くいきおいのようです (爲無情説法の志氣あらはれて衝天するなり)。ただ無情説法を感じる (體達する) のみでなく無情説法を聞くことと聞かないことの違いを感覚で理解します (聞不聞を體究せり)。さらに一歩すすんでふだんの説法が聞こえたり聞こえなかったりすることの (有情説法の説不説)、あり方についても感じとってください (已説今説當説にも體達せしなり)。さらに聞こえたり聞こえなかったりする説法の、これは有情だろうか、これは無情であろうかという区別をハッキリとさせ終わります (道理あきらめをはりぬ)。

おおよそ意識の中の声を聞くやりかたは (聞法は)、ただ耳の感覚や音を意識すること (耳根耳識) だけでなく (境界のみにあらず)、父や母といった認識が生まれる以前の赤んぽの状態 (父母未生已前)、大音声で知られた威音王が死後に無数の威音王に分裂してあらわれた話の起こる前 (威音以前)、または時間の尽きてしまったばしょ (乃至盡未來際)、時間がまだ尽きていない場所 (無盡未來際) それらに行き着くまでの努力や気持ち (擧力擧心)、感じることを学びほとけのあり方を学ぶつもりでその声を聞きます (擧體擧道をもて聞法するなり)。感じたアトに頭でその声を整理するやりかたもあります (身先心後の聞法あるなり)。これらのやりかたは (聞法)、ともにメリットがあります (得益あり)。すべてを認識しないのなら (心識に縁ぜざれば) その声を聞いても何のためにもならないでしょう (聞法の益あらず) と言ってはいけません。こころとからだが消え去ったとき (心滅身沒のもの)、その声を聞くやり方に良さがあることを知るべきです (聞法得益すべし)。こころとからだが無ければ (無心無身のもの)、その声を聞くことにも利益があらわれます (聞法得益すべし)。わかった人たちは (緒佛諸祖)、かならずこのような経過を経て (時節を經歴)、ほとけをあらわし (作佛)、人に教えることができるようになるのです (成祖するなり)。ほとけのはたらきを身体で感じる接点は (法力の身心に接する)、平凡な考えを使ってどうやって感じることができるのでしょう (凡慮いかにしてか覺知しつくさん)。からだとこころの領域を (身心の際限)、自分でハッキリとさせることはできません (みづからあきらめつくすことをえざるなり)。その声を聞くところの良さは (聞法功徳の)、からだの中の田んぼにハスの種をまくようなものまで (身心の田地に下種する)、腐ってしまうようなものではありません (くつる時節あらず)。最後は時間とともに成長し、かならず花がさき実がなることでしょう (果成必然なるものなり)。

よくわかっていない人が思うのは (愚人おもはくは)、たとへその声のようなものをいつも聞く努力をしたとしても (聞法おこたらずとも)、とくに理解に進歩があるわけではなく (解路に進歩なく)、かくべつ覚えられるものもないとなれば (記持に不敢ならんは)、その利益がなにもないことになってしまう。この世のものの身体と心を使い (人天の身心を擧して)、おおくの知識を身につけたほうが (博記多聞)、これこそ大事なことであると (至要)。即座に覚えたものを忘れてしまい (忘記し)、その場所から離れても呆然としているだけならば (退席に茫然とあらん)、どこに利益があるのだろうと思い、勉強してもなんの手柄にもならないと言うのは (なにの學功かあらんといふは)、正師に逢わず、自分の内側の人を (その人を) 見ないからです。正しく伝わった相承を受けていないものを (正傳の面授あらざるを)、正師ではないとも言い、それをわかった人たちが正しく伝えてきたようすが (佛佛正傳しきたれる) 正師といわれるものです。おろかな人たちの言う (愚人のいふ) こころにはっきりと意識され覚えていて (心識に記持せられて)、いつまでも忘れないものに対しては、こころの声を聞くうまいやりかたとして (聞法の功)、しばらくの間こころの意識には (心識にも) そのはたらきにフタをしてその認識にもフタをするのです (蓋心蓋識する時節なり)。

このまさにそんなようなときは (正當恁麼時)、からだにフタをし、さらにすみずみまでまでフタをし (蓋身蓋身先)、こころにフタをし、さらに隅々にまでフタをします (蓋心蓋心先)、こころにフタをすれば (蓋心後)、フタのもとになるもの、そのつながりかた、あらわれかた、隠されたもの、様子や性質やカタチやチカラ (蓋因縁報業相性體力)、フタをしたほとけたちフタをした師匠たち (蓋佛蓋祖)、フタそのものやそれ以外のもの (蓋自他)、フタの利点をいろんなやりかたでつたえる方法があり (蓋皮肉骨髓等の功徳あり)。フタそのものが説法をはじめ (蓋言説)、フタそのものが座ったり寝たりするという良い状態があらわれ (蓋坐臥等の功徳現成して)、その糸が天に通じるようなものなのです (彌綸彌天なるなり)。

じっさいにもこのようなものであるほとけの声を聞く方法の効き目は (まことにかくのごとくある聞法の功徳)、カンタンに知ることはできないけれど、お釈迦さまの大きな理解に出会って (佛祖の大會に會し)、その伝わったものを考えてみれば (皮肉骨髓を參究せん)、ほとけの説法の効き目があらわれないということはなく (説法の功力ひかざる時節あらず)、声を聞くやりかたのもつはたらきに影響されないこともないはずです (聞法の法力かうぶらしめざるところあるべからず)。こんなようにして時間のリズムを感じながら (時節劫波を頓漸ならしめて)、結果としてあらわれたものを見ることになります (現成をみるなり)。前に書いた知識自慢のようなものも (かの多聞博記も)、あながち捨て去るものではないけれど、その一部のみがたいせつなはたらきを意味するものである、ということではありません (一隅をのみ要機とするにはあらざるなり)。勉強するときには (參學) これを知るべきで、洞山禅師は (高祖) このことを身体で感じているのです (體達)。

雲巖和尚の言っている (曩祖道)、わたしの説法を聞かないというなら、無情説法とはどんなものなのか? (我説法汝尚不聞、何況無情説法也)。 これは洞山が (高祖) 即座にわかりさらにわかった証としての言葉を表そうとしているのであり (たちまちに證上になほ證契を證しもてゆく現成を)、雲巖和尚はここで手のうちを明かし (曩祖ちなみに開襟して)、師匠として、洞山が理解したことを認めたということです (父祖の骨髓を印證するなり)。 おまえがそれでもわたしの説法を聞かないのなら (なんぢなほ我説に不聞なり)、これは俗人のレベルにはないということです (凡流の然にあらず)。無情のものが語る説法を聞くにはたとえたくさんのきっかけがあったとしても (萬端なりとも)、なにかを思ってしまってはいけないと明らかにします (爲慮あるべからずと證明するなり)。このときに受け継がれたもの (嗣續)、まことに秘められた要点です。凡人や聖人の考えは (境界)、カンタンに推理できるようなものではありません。

洞山禅師がこのとき詩をあらわして (偈を理して) 雲巖和尚に見せて言ったのは (呈するにいはく)、無情説法不思議、也太奇、也太奇という言葉であり。 このとおりであれば、無情と無情説法は、ともに考えることが難しいもののようで (思議すべきことかたし)。言っている無情は、どんなものなのでしょう? 凡人でも聖人でもなく、生きているわけでもなく生きていないわけでもない (情無情にあらず) と考えるべきです (參學すべし)。凡と聖や情と無情の区別は、説明することができず (説不説)、ともに考えてわかる領域を少しハミ出しているようです (思議の境界およびぬべし)。いま不思議なものでありただただ特別なものである (太奇、太奇) ならば、凡夫や賢者聖人の智慧やこころのはたらきも (心識)、及ぶことができません。神さまや人間にとって数をかぞえたり目方をはかることのできないものなのです (天衆人間の籌量にかかはるにあらざるべし)。

耳で聞くと結局ムズかしくなってしまうという言い方は (若將耳聽終難會)、たとえ神の持っている耳であっても (天耳なりとも)、たとへその時その場所で仏の声に耳をかたむけたとしても (彌界彌時の法耳なりとも)、まさに耳を使い注意を集中したとすれば (將耳聽を擬するには)、けっきょくはわかることがないでしょう (終難會なり)。かべに耳があり (壁上耳)、棒の先っぽに耳がついていたとしても、無情説法を理解することはないでしょう。それはボンヤリとした砂塵のような声ではないからです (聲塵にあらざるがゆゑに)。耳で聞く音は (若將耳聽) ないわけではありませんが、無限に長い時間をその努力につぎ込んだとしても (百千劫の功夫をつひやすとも)、けっきょくはわからないでしょう (終難會)。すでにはっきりとした音や声色といったものとはべつの (聲色のほかの) ある種の感覚であり (一道の威儀なり)、凡と聖のような意味の入り混じった様子ではないのです (ほとりの巣窟にあらず)。

目で声を聞けばすみずみまで知ることを得ます (眼處聞聲方得知)。 この言い方を (道取を)、人々が (箇箇) 思うには、いま人が目で見ている (眼の所見する) 草木花鳥の行き来する様子を、目で聞く声であると (眼處の聞聲) 言うのだと思うでしょう。この解釈は (見處は)、かなりちがっていて、まったく仏法ではありません。仏法にはこのように説明する理くつはないのです (道理なし)。 洞山禅師の言っている (高祖道) 目で聞く声を (眼處聞聲) 学ぶためには、無情のかたる説法に耳をかたむけるという部分 (聞無情説法聲のところ)、これがその目のある場所なのです (眼處なり)。無情説法が現れてその声のようなものの聞こえるところ、これがその目の有る場所です (眼處なり)。目の有る場所をさらに広く探してみてください (眼處さらにひろく參究すべし)。目で聞く声は耳で聞く声とは同じものであるはずという先入観のため (眼處の聞聲は耳處の聞聲にひとしかるべきがゆゑに)、目で聞く声と耳で聞く声が同じでないことになってしまうのです (眼處の聞聲は耳處の聞聲にひとしからざるなり)。目玉の奥に音を聞く耳があると考えてはダメです (眼處に耳根ありと參學すべからず)。目と耳が一体であるとしてもダメで (眼耳と參學すべからず)、目玉の奥から声が聞こえてくるとするのもまちがった考えとなります (眼裏聲現と參學すべからず)。

むかしの人は言います (古云)、周囲の八方とさらに天と地も消え去った世界は、これは坊さんが見るほとけの一つ目なのです (盡十方界是沙門一隻眼)。 この目玉でほとけの声をきけば (眼處に聞聲せば)、洞山禅師の言う (高祖道の) 目で声を聞くこと (眼處聞聲) であろうかとあれこれ考えてはいけません (擬議商量すべからず)。たとえ古人が言う、盡十方界一隻眼という言葉を学んでも、盡十方はこれは一つ目のうちのたった一つのものであり (壹隻眼なり)。さらに千本の手の先には目があり、千の正しくほとけを見ている目があり (正法眼あり)。千の耳にも目があり、千の舌先にも目がついていて、千の心にもそれぞれの目があり、千のこころを貫く目があり (通心眼)、千の身体を貫く目があり (千通身眼)。千本の棒の先にも目があり (棒頭眼)、千の身体にもすみずみまで目があり (身先眼)、千のこころにもすみずみまで目があり (心先眼)。千人の死体のなかには死んだ目があり、千人の生きている人の中には生きている目があり (活中活眼)。千もの自分の目があり (自眼)、千もの他人の目があります (他眼あり)。千の目の中にまた目があり (眼頭眼あり)、千もの学ぼうとするめがあり (參學眼)。千もの縦の目があり (豎眼)、千もの横になった目があります (横眼)。 そんな様子であれば、目が消えたことを世界が尽きたことであると学んでも (盡眼を盡界と學すとも)、なほその目玉の場所には行き着いておらず (眼處に體究あらず)、ただ無情説法が聞けるという意味を目玉の場所に探すことを急いでやってみてください (聞無情説法を眼處に參究せんことを急務すべし)。いま洞山禅師の言う意味は (高祖道の宗旨は)、耳のある場所は無情説法に出会うことがむずかしく (耳處は無法に難會なり)、目玉でこそ声を聞くことができるというものです (眼處は聞聲す)。さらに全身がひとつになって声を聞くこともあり (通身處の聞聲あり)、からだのいたるところで声が聞こえます (遍身處の聞聲あり)。たとえ目でその声を聞くことを体得していなくても (眼處聞聲を體究せずとも)、無情説法は無情が聞くことを得るという意味を体感すべきです (體達すべし)、そして抜け落ちるべきものであり (脱落すべし)、この道理がつたわっているために経験することができるのです。

わたしの修行した天童山に伝わるむかしの師匠の言葉があり (先師天童山の古佛道)、夕顔や藤のようなつる草はまたもとにもどって夕顔にからみつくのです (胡蘆藤種纏胡蘆)。 これは雲巖和尚の (曩祖の) 正しいほとけの目が伝わったもので (正眼のつたはれ)、その真意が (骨髓の) 伝わっている説法にはこころがありません (無情なり)。すべてのほとけの声にはこころというものがないために (一切説法無情なる道理によりて) 無情説法と呼ばれるのです、いはゆるふだんやっている説法のもとになるよりどころであり (典故なり)。無情は無情のために説法をするのです、無情はどんなはたらきをするのだろう? と大きな声に出して言ってみます (喚什麼作無情)。知るべきで、無情説法を聞くものはまさにこれなのです (聽無情説法者是なり)。説法とはどんなはたらきをするのでろう? とこれも声に出して言ってみます (喚什麼作説法)。知るべきで、自分がダレがわからないこと、これが無情というものの正体なのです (不知吾無情者是なり)。

投子和尚に僧が質問します (舒州投子山慈濟大師[翠微禅師のあとを継ぎ、俗名は大同。明覺和尚が投子はまさにいにしえのほとけであると言ったそうです]因僧問)

僧 「無情説法とはどんなものでしょうか? (如何是無情説法)」
投子 「口をキラってはいけませんよ (莫惡口)」

いまこの投子の言わんと (道取) するところ、まさしくこれがむかしのほとけが見たそのはたらきの様子というものです (古佛の法謨)、教えの初めにあるイメージといったものでもあります (祖宗の治象なり)。無情が説法をしたり逆に無情に説法するなどの言い方は、みな口をキラわないということなのです (おほよそ莫惡口なり)。知るべきで、無情説法は、お釈迦さまのすべての教えが (佛祖の總章) これなのです。臨済和尚や徳山和尚を信奉する人たちにはわかっていないようですが (臨濟徳山のともがらしるべからず)、ひとりお釈迦さまの言葉だけを (佛祖なるのみ) 探して考えてみてください (參究す)。

正法眼藏無情説法第四十六

このとき、寛元年号のはじめの年で水の弟うさぎ1243年十月二日に、越前吉田にある吉峰古寺でみなのものに示します (爾時元元年癸卯十月二日在越州吉田縣吉峰古寺示衆)、
おなじくみずのとうさぎの年の十月十五日に弟子のえじょうが書き写しました (同癸卯十月十五日書寫之 懷弉)



(まりはうすの読書感想文) これ道元さんの解説がちょっと長すぎるカンジしますけど、問答の内容そのものはシンプルで、ほとけと呼ばれるものを 「意識のなかにあるすべての認識をしゃ断した状態」 と定義すれば、

(ほとけモード/無情説法)
話すことも聞くこともできない

(俗人モード/有情説法)
話すことも聞くこともできる

となって、このon/offスイッチの切り替えについて語ってるだけの話、色即是空とおんなじですが、こちらの問答は、しゃべれるかしゃべれないか、聞けるか聞けないか、というポイントについてのみ解説してます。

道元さんの長い話はさらにもう少し突っ込んだ話ですが、ムダに長いだけという印象もするので、ここは飛ばしておいて・・・

最後にあるお得意の捨てゼリフ、臨済徳山のともがら・・、は道元さんの最もよくない欠点なわけですよねー。

これは口をキラう悪口は臨済和尚の十八番、言葉の無い感覚でもある 「天下人舌頭坐断」 と同じ意味なので、反対語である莫悪口は臨済和尚のメイン説法とは意見がちがっているように見えますが、投子和尚の莫悪口はよくよく意味を考えると有情説法が主語になっていて、結局は臨済和尚とおなじこと、まとめてみると、こんなん。。

(無情説法)
悪口、天下人舌頭坐断、言葉が出ない感覚

(有情説法)
莫悪口、ペラペラしゃべれる状態