【坐禪箴】 ざぜんしん

觀音導利興聖寶林寺にて (注1)

藥山弘道大師が座禅を終えると、それを待っていたある僧が質問します、(注2)

「藥山和尚は黙々として座っていますが、そのとき何を思っているのでしょうか? (注3. 兀兀地思量什麼)。」

師いわく 「なにも思わないその行き着いたところ、を思っているのですよ (注4. 思量箇不思量底)。」

僧が言います 「なにも思わないその行き着いたところは、どうしたら思うことができるのでしょうか? (不思量底如何思量)。」

藥山いわく 「なにも思っていない状態にすればよいのです (注5. 非思量)。」

(注1) 京都深草の興聖寺  (注2) 石頭禅師の弟子で、馬祖禅師に揚眉瞬目のコツをならった話とかが伝わっています (注3) 兀兀地は、地面の上にそびえたった石碑のこと、転じて座禅のときの不動のかたちをあらわすようです (注4) なにも思わない状態を深めていって行き着いた海の底のようなイメージ (注5) これはなにも思っていないのに思っている、というムジュン表現ですが、この言い方で問題ない意識状態があるようです

藥山大師の教えは (道) こんなようなことを明らかにしていて (證して)、その淡々として座るさまを (兀坐) 学ばなくてはなりません (參學すべし)、この静かに座った様子は師匠から正しく学ばないとダメで (注6.兀坐正傳すべし)、その座り方が仏道に伝わっているきわまった真理につながっているのです (注6.兀坐の佛道につたはれる參究なり)。その座って思うやり方は (兀兀地の思量) ひとりしかやっていないものではないけれど、藥山の方法はその一つでもあります (道は其一なり)。いはゆる思わないその底を思うことであり (思量箇不思量底なり)、思うやり方にも伝授するものがあり (注7.思量の皮肉骨髓)、思わないやり方にも伝授すべき方法があります (注7.不思量の皮肉骨髓なるあり)。

(注6) この正伝は座り方のカタチだけでなく、そのフンイキのようなものも含み、それは自分の内なる真理につながっているようです (注7) 皮肉骨髓は、だるま大師が自分の教えを4通りの方法で4人の弟子に伝えた話、この場合はいろいろな説明方法があるという意味でしょうか

僧は言います、なにも思わないその底をどうやって思うことができるのか? (不思量底如何思量)。

まったくなにも思わない底という言いまわしが (不思量底) たとえむかしからあるとしても、さらにこれをどうやって思うのでしょう (如何思量なり)。ただ座っていれば (兀兀地に) 思いはないのでしょうか (思量なからんや)、黙々と座っていれば上達はするけれど (兀兀地の向上) どうしたわけか理解を得ることができません (注8.なにによりてか通ぜざる)。簡単に考えてしまう (注9.賤近) ようなまちがいをあらためれば (愚にあらずは)、ただ座っていることに対して (兀兀地) ただしく疑問を持つ力も身につき (注10.問著する力量あるべし)、その思うやり方もわかるでしょう (注10.思量あるべし)。

(注8) ただ座ってさえいれば、時間とともにだんだんと理解が深まり自動的にそれがわかるというのはあやまりだそうです。 (注9) 凡人貴遠賤近のこと、急がば回れという感じ (注10) 座ることはある目的があって座るのであり、その目的を知れば自動的にどうすればよいかもわかります

大師いわく、思いがないことだよ (非思量)。

いわゆるなにもあたまに浮かばない状態を (非思量) 使用することは冷たくてぼんやりとした感覚 (玲瓏) でもありますが、そのなにも思わない行き着いた底を思うためには (不思量底を思量するには)、かならずなにも考えが浮かばない状態を (非思量) 使うのです。なにも思いが浮かばないとき (非思量に) そこには誰かがいます (注10.たれあり)、その誰かがわたしという自我を大切にまもっているのです (注10.たれ我を保任す)。

ただすわっているときに (兀兀地) たとえ自分という意識があっても (我なりとも)、その思いだけがあるわけではなく (注11. 思量のみにあらず)、座っている様子をよく観察しなくてはいけません (兀兀地を學頭するなり)。座ることがたとえただキチンと座るだけではあっても (兀兀地たとひ兀兀地なりとも)、座っているだけでどうしてその静かに座る境地を思うことができるでしょう? (注12.兀兀地いかでか兀兀地を思量せん)。そうであるならばすなはち、座ることが (兀兀地は) ほとけを知る目安にはならず (注13.佛量にあらず)、法を計る目方のようなものでなく (注13.法量にあらず)、さとるための目分量でもなく (注13.悟量にあらず)、それに出会うためのみちしるべでもないのです (注13.會量にあらざるなり)。

(注10) 無意識のはずなのにまだ自分でない観察する誰かがいるようです。 (注11) もうひとつの意識があり、それが観察をしています (注12) 座っていて頭がからっぽになっただけでは、まだそれを思量したとは言えないようです (注13) 目的地であるほとけまでの行程が定量化されて、目安や分量や距離としてあらわされることはありません。

藥山がこのようにして自分の中の真理に行き着くこと (單傳)、すでにお釈迦さま (釋牟尼佛) から数えた直系で (直下) 三十六代となります。藥山より以前にさかのぼれば (向上をたづぬるに)、三十六代目に釋牟尼佛がいます。こんなように正しく伝わっていて、思わない底を思うやり方ははるか以前からあったのです (注14.すでに思量箇不思量底あり)。

(注14) お釈迦さまより以前からそれはあり、宇宙がおわりその後始末に弥勒菩薩が現れた以降にもそれは存在しつづける、という言い方が禅では好まれています。

そうであるのに、近年あまり考えずにいいかげんな解説をする人たちはこう言っていて (おろかなる杜撰いはく)、「座禅をあれこれと工夫することは、胸や襟がきちんとしたかたちになっていることで、すなわちこの状態がこころの静まる様子となります(注15. 功夫坐禪、得胸襟無事了、便是平穩地也)」 こんな解釈は (見解)、なほひとり学問のもの (小乘の學者) にもおよばず、金持ち庶民をとわず説法するやからよりさらに質が悪いものです (人天乘よりも劣なり)。どうして仏法をきちんと学ぶものといえるでしょう (いかでか學佛法の漢とはいはん)。いまある南宋の国には (見在大宋國) こんなような考えのひとが多く (恁麼の功夫人おほし)、お釈迦さまの道が (祖道) 荒れてしまったのは (荒蕪) かなしむべきことです。

(注15) 胸襟無事禅・行住坐臥禅・還源返本・息慮凝寂、この禅の心得のはじめ4文字のみを取り出して、目に見えるかたちだけの教えとしてお茶を濁すのはよくないことのようです。

またこんな人たちもいて (一類の漢あり)、座禅とあれこれの解説は (坐禪辨道) 修行のはじめでもそれがかなり進んだあとでも (注16.初心晩學) 肝心なものであり (要機なり)、それはかならずしもお釈迦さまの教えではなく (佛祖の行履にあらず)、行もまた禅であり坐もまた禅となり、ことばを語らず静かにうごけばその体を安んじることができ (行亦禪、坐亦禪、語默動靜體安然)、いまこのときにあれこれと考える (ただいまの功夫) ことのみにかかわってはいけないなどと。臨濟の余流と自称するひとびとは (稱ずるともがら)、多くがこの考えをもっています (注17.見解なり)。仏法のただしい真理が (正命) 伝わることがおろそかになっていることによってこんなことになるのです (注17.恁麼道するなり)。どんな意味で初心というのでしょう (なにかこれ初心)、どれくらいまでいけば初心ではないのでしょう (いづれか初心にあらざる)、初心とはどのくらいの段階なのでしょう (注18.初心いづれのところにかおく)。

(注16) 初心者でも熟達したものでも同じように (注17) 行法として座るのみで考えることをしないのはだめです、ただし臨済和尚のしめした言葉の無い感覚は正しい行法であり、道元さんはこの点で意見がちがうようですね (注18) 初心者といえど、かたちだけのまねでほとけを探求しないのは意味がありません

しるべきで、道を学ぶために定まったそれをきわめるやりかたは 、座禅と禅話のいろいろな解説法にあります (坐禪辨道)。そのはたから見た教えは (榜樣の宗旨)、ほとけに成ることをもとめるのではなくほとけの行いをあらわすのであり (注19.作佛をもとめざる行佛あり)。ほとけの行いがあらわれることは (行佛) さらにほとけに成ることではないので (作佛にあらざるがゆゑに)、それが問題のこたえとなります (注19.公案見成なり)。からだにほとけをあらわすのも (身佛) さらにほとけに成るわけではなく (作佛にあらず)、自分をとりまく大きな籠を打ち破り (鶴籠打破すれば) 座ってほとけをあらわせばさらにほとけそのものに成れるわけでなく (坐佛さらに作佛をさへず)、まさにそんなようなとき (正當恁麼のとき)、はるかむかしから (千古萬古)、ともにもとよりほとけに入り魔に入る力があることを知り (注20)、その進退は自由で (進歩退歩)、その身についた智慧は (したしく) 溝にみち谷に (壑) みちるほどの量があるのです。

(注19) 作佛は成仏におなじ、ほとけは人格ではない抽象的な感覚にすぎないので、それを解説するために具体的なほとけの持つ属性を使って説明します (注20) 俗にいうほとけや魔もただの概念であり、その感覚がほとけや魔の中を自由に出入りしています

江西大寂禪師が修行中のころ (注21)、南嶽大慧禪師のもとで学んでいて (注22.參學)、お釈迦さまからつたわるほとけの説法を聞いていらい (密受心印よりこのかた)、つねに座禅をしていました。

南嶽はあるとき大寂が座禅をしているところに行って聞きます、

南嶽 「座禅をしてなにをあらわそうとしているのかな? (坐禪圖箇什麼)」

(注21) 馬祖道一、ほとけの感覚を五感など使って表現するのがうまい人で、弟子に百杖壊海がいます。(注22) 南嶽壊譲、六祖慧能の弟子で、特にこの小石で瓦を磨く話は座禅行法にたいする注意書きとして、定番の話になってます。

この問いはしずかに考えてみるべきで (功夫參學すべし)、そのわけは、座禅よりももっとうまいほとけのあらわし方があるのだろうか (注23.向上にあるべき圖のあるか)、座禅とはまるでちがうほとけのあらわし方が他にもあるのか (注23.格外に圖すべき道のいまだしきか)、それとも座禅をふくめたすべてのやりかたでもほとけをあらわすことはできないのか (注23.すべて圖すべからざるか)。座禅をしているときには (當時坐禪)、どんなものがあらわれるのだろうかなどと (いかなる圖か現成すると問著する)、ことこまかに考えてください (審細に功夫すべし)。

彫りものの龍を愛するより、すすんでほんものの龍を (眞龍) 愛すべきで、彫龍、眞龍ともに雲をつくり雨を降らすちから (能) のあることを学ぶべきです (注24)。遠くにあるものを貴ぶことなく、遠くにあるものを賤しいものとすることもなく、遠くのものに慣熟することが大事で、近くのものを賤しいものとすることなく、近いものを貴ぶこともなく、近くのものに慣熟するべきでしょう (注25)。目で見ることもなく (目をかろくすることなかれ)、目で見ないことでもなく (目をおもくすることなかれ)。耳で聞かないこともなく (耳をおもくすることなかれ)、耳で聞くわけでもない (耳をかろくすることなかれ)、耳と目を使ってそのものをあきらかにするのです(注26. 耳目をして聰明ならしむべし)。

(注23) 圖は図、この場合は修行であらわされるほとけや真理のあらわれた姿といったもの (注24) 彫龍が座禅で、眞龍はほとけのようです。(注25) 注9の凡人貴遠賤近とおなじ、貴遠はほとけ、賤近は座禅となってるようです (注26) 目や耳の感覚に囚われてはいけないけれど、ほとけを理解するためには目と耳を使います 

馬祖がいう (江西いはく)、「ほとけのあらわれた姿をやっているのです (圖作佛)。」

この道をあきらかにしてその真意を理解すべきです (達すべし)。ほとけを作すという意味は (作佛と道取するは)、どんなことなのでしょう。ほとけが自然にあらわれることなのか (作佛せらるるを作佛と道取するか)、ほとけを自分であらわすことなのか (作佛するを作佛と道取するか)、ほとけの一つの面をあらわし (一面出)、ふたつの面をあらわすこと (両面出) なのか (作佛と道取するか)。ほとけがあらわれたすがたは (圖作佛) 脱落であり (注27)、脱落であればほとけがあらわれるのか (注27.圖作佛か)。ほとけが (作佛) たとえすでにあちこちと存在するものであっても (注28.萬般なりとも)、このほとけのあらわれた様子に (圖) こだわって工夫する (葛藤しもてゆく) ことをほとけをあらわしたその姿というのでしょうか (圖作佛と道取するか)。

(注27) 俗物な意識が抜け落ちたときほとけがあらわれます (注28) ほとけはどこにでもいる

しるべきで大寂の考えは (道)、坐禪をすることはほとけがあらわれた姿の表現であり (注27.圖作佛)、坐禪をすればかならずほとけがあらわれた姿になるとするものです (注27.作佛の圖なり)。その姿はほとけをあらわすより前であるべきだし、ほとけをあらわすより後であるべきだし、ほとけをあらわすまさにそんなようなときなのです (作佛の正當恁麼時なるべし)。

そこで問うべきは (且問)、この姿であり (一圖)、ほとけのようすをあれこれと推量して選り分けてみます (注28.いくそばくの作佛を葛藤すとかせん)。このからまったものは (注28.葛藤)、さらにからまったものを呼びだします (注28.葛藤をまつふべし)。このとき、ほとけが尽きて見えなくなってしまえばいろいろな道筋がひっかかってからまり (盡作佛の條條なる葛藤)、それはほとけが尽きて見えなくても考えるきっかけとなり (注29.盡作佛の端的なる)、それぞれをたどっていく道すじとしての姿です (注29.條條の圖なり)。そのほとけのあらわれた姿を避けてはいけません (注29.一圖を廻避すべからず)。

その場所を (注29.一圖) を廻避するときは、無意識の状態に落ちこんでしまいます (注30.喪身失命するなり)。無意識であれば、またその場所をあらためて探さなくてはいけないということです (注30.喪身失命するとき、一圖の葛藤なり)。

(注27) この 「圖」 はほとけがあらわれたときの空気感のようなもの (注28) 「圖」を手がかりにして芋づる式に掘り出します (注29) ほとけ世界からつづく道すじの端っことして「圖」がわずかに見えています (注30) 気絶すること、無意識は目的地としてのほとけではないようです

南嶽はそのとき瓦のかけら (一磚) をとりあげ、それを石の上にあてて研ぎだします。 大寂は (それを見ていて) ついに質問して言います、師匠はなにをされているのですか? (作什麼)。

まことに、だれがこれを瓦を磨いていないと見るのでしょう (磨磚とみざらん)、だれがこれをかわらを磨いていると見るのでしょう (これを磨磚とみん)。そうであっても、このかわらを磨くことは (磨磚) このように、なにをしているのか? (作什麼) と質問されることでしょう。そのなにをしているのか? (作什麼) という感じは、かならず瓦を磨くことになります。いまいる場所とほとけ世界が (此土他界) 異なる場所であると言っても、瓦を磨くことはいまだに尽きない教えを含んでいることを知るべきです (注31. やまざる宗旨あるべし)。自分の理解したものをこれが自分の結論とは決めないで (自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず)、日常のあらゆる生活の中にも (萬般の作業に) 習い覚える教えがあると理解するのです (參學すべき宗旨あることを一定するなり)。

知るべきで、ほとけを見てもほとけを知らないし、理解することもないように (會せざるがごとく)、水を見ても知らないし、山を見ても知らないことなのです。眼の前に法があり、さらにそこへ行く通路がないはずなどと早合点するのは (注32.倉卒なるは)、ほとけを学んでいるとは言えません (佛學にあらざるなり)。

(注31) 俗物自我をトレーニングしても鏡としてのほとけにはなれませんが、でもあれこれとやってみることが大事です  (注32) ほとけはいないし、そこへ行く道もない、という言い方を否定しているようです 

南嶽は言います、「磨いて鏡にするんだよ (磨作鏡) 」

この言っている意味を(道旨)、あきらかにすべきです。この瓦を磨いて鏡にしようとする行為には (磨作鏡)、それなりの道理がかならずあります。ほとけを見ることとそれをあらわすためのヒントであり (注33. 見成の公案あり)、あらかじめ決まった道すじではありません (注33. 設なるべからず)。瓦 (磚) はたとへかわらであっても、鏡はたとへ鏡であっても、磨くことの道理をきわめつくすために (力究するに)、いくつもの道しるべが (注34. 許多の榜樣) あることを知るべきでしょう。古鏡も明鏡も、磨くことから鏡をあらわす (注35. 作鏡) ことを得るわけで、もし諸鏡が磨くことによってあらわれる (きたる) と知らなければ、お釈迦さまの意図がなにかわからないし (佛祖の道得なし)、お釈迦さまが口をひらくこともないし (佛祖の開口なし)、お釈迦さまのあらわした空気感のようなものを (佛祖の出氣) 見聞きしていないことになります。

(注33) 瓦を磨きつづけることがヒントのようです (注34) 瓦で磨くたとえは、座禅以外にもいろいろなやりかたがあることを示唆しています (注35) 磨いてもほとけはあらわれないけれど、努力しつづけることが必要です

大寂は言います 「たとえ磨いたとしても鏡に成ることは得られないと思いますが? (磨豈得成鏡耶) 」

じっさい瓦で石を磨くのはただのやくざ者みたいなもので (まことに磨磚の鐵漢なる)、他にいくらちから自慢を誇ろうとも (力量をからざれども)、瓦を磨くことは鏡になることではなく (成鏡にあらず)、たとえ鏡になったとしても、それは透明でなくてはいけません (注36. すみやかなるべし)。

(注36) 澄みやか、としました、このページ下にある天童宏智 (わんち) 禪師の坐禪箴を参照してください

南嶽は言います、座禅をすれば、どうしてほとけをあらわすことができるのかな? (坐禪豈得作佛耶)。

(南嶽は) ハッキリとわかっているようで (あきらかにしりぬ)、坐禪はほとけがあらわれる (作佛) ことを待っているわけではなく (まつにあらざる道理あり)、ほとけがあらわれることと座禅には直接の関係がないという意図が見え隠れしています (作佛の坐禪にかかはれざる宗旨かくれず)。

大寂は言います、「(それならば) どうやって是をあらわすのでしょう? (如何是) 」

その言い方は (いまの道取)、まるで南嶽の言い方のようでもあり (ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども)、二人ともに、どうやって是をあらわすのか? と質問しているようです (那頭の是をも問著するなり)。たとへば、親しい友がその親しい友に出会ったときのようなものです (相見する時節をしるべし)。わたしにとって親しい友であるのはかれにとっても親しい友ということです。どうやって? (如何) とか、表現できないそのものは (是)、どうやらこの瞬間にあらわれたようです (注37. すなはち一時の出現なり)。

(注37) あたまの中が 「なんで ? ? ? 」となった状態のときあらわれます

南嶽はいいます、牛車に乗っている人のようなもので、もし車が止まってしまったら、車を打つのが是 (注38) か? 牛を打つのが是 (注38) か? (如人駕車、車若不行、打車是、打牛是)。

(注38) 「是」 はもちろんほとけのこと、牛も十牛図の牛にかけてあって誘導ヒントになっているところに注目しましょう

しばらく (のあいだ)、車若不行と言うものについて、どんなものであるのか是車行とは、どんなものであるのか是車不行とは (について考えます)。たとへば、水の流れは車行なのでしょうか? 水の流れない (不流) は車行なのでしょうか? 流れることは水が動かない (不行) と言うべきで、水が動く (行) というのは流れることではないと考えることもできます (あらざるもあるべきなり)。(注39)

(注39) 車行 = ほとけ意識があらわれた状態
車不行 = 俗物一般人の意識
水流 = 変化する世界
水不流 = 変化を意識することができない

※水流 = 車不行、水不流 = 車行


そうであれば、車若不行の道を考え理解するためには (參究せんには)、車が止まることについて考え (不行ありとも參ずべし)、車が止まらないことをも考え (不行なしとも參ずべし)、それは時とともにあるものです (注39. 時なるべきがゆゑに)。もし車が止まってしまったなら (若不行の道)、車が止まったとだけ理解するべきではありません (注40. ひとへに不行と道取せるにあらず)。車を打てばほとけであり (注40. 打車是)、牛を打てばほとけであり (注40. 打牛是といふ)、車を打つこともあり、牛を打つこともあるべきでしょう。車を打つことと牛を打つことは同じでしょうか (注40.ひとしかるべきか)、同じでないのでしょうか (注40.ひとしからざるべきか)。世間には車を打つやり方 (打車の法) はなく、凡夫にも車を打つやりかた (打車の法) がありませんが、佛道には車を打つやりかた (打車の法) があることを知れば、それが考えるためのポイントになります (注41-a. 參學の眼目なり)。

(注39) 修行のレベルやその日のお天気のようなTPOによって使いわけます (注40) 黙照禅と看話禅に限らず、あらゆる行法に価値や可能性を見出せばよいようです (注41-a) 非常識や固定観念の打破といったものを利用します

たとえ車を打つ方法があることを学んだとはいえ、牛を打つことと同じく優れた方法というわけではなく (一等なるべからず)、こと細かに (審細) 功夫をすべきです。牛を打つやりかたがたとえ世の常であっても、佛道の打牛はさらにたずね考えつづけるべきです (參學)。水牛を打牛するのか、鉄の牛を打牛するのか、泥でできた牛を打牛するのか、鞭そのものを打つべきなのか、世界が尽きた場所を (盡界) 打つべきなのか、こころの尽きた場所を (盡心) 打つべきなのか、骨に食い込むほど打つ (打併髓) べきなのか、頭をこぶしで殴るようなものなのか (拳頭打)。またはこぶしでこぶしを殴るべきか (拳打拳)、牛で牛を打つこともあるでしょう (注41-b. 牛打牛)。

(注41-b) 既成概念をブッ壊すために快調にとばしているところです

大寂に答えがなかった部分を (無對なる)、ただやり過ごしてはいけません (いたづらに蹉過すべからず)。ケン玉の玉をひきもどすようでもあり (抛引玉あり)、振り返ってみたら顔が変わっていたようでもあり (囘頭換面あり)。この反応がない状態はそれ以上読み取る内容がないものなのです (注42. 無對さらに奪すべからず)。

(注42) この無反応の 「・・・」 がほとけですが、さすがに道元さんは目ざといですね

南嶽はまた示して言います、あなたが座禅をまなぶのは、座った形のほとけを学ぶためです (汝學坐禪、爲學坐佛)。

この理解を考えきわめて (道取を參究)、まさに師匠の教えのポイントを (祖宗の要機) 聞いて理解すべきです (辨取)。いはゆる座禅を学ぶことの (學坐禪) 行き着く先が (端的) どんなものか知らなかったのに、それが座った姿のほとけであると (學坐佛) と知ります。正しく相承をされた代々の弟子 (正嫡の兒孫) でない場合は、どうして座禅を学ぶことが座った形のほとけを学ぶこと (學坐禪の學坐佛) なのかを読み取ります (道取せん)。まことにしるべきで、初心座禅は最初の座禅であり、最初の座禅は最初の座った形の仏となります (注43)。

(注43) ふだんの日常にもほとけはあらわれますが、意識してやって見ることが大事で、初めてなら、座った大仏さまの像とも少し違うものであるのがわかるでしょう、という感じかな?

座禅の意味を理解して (道取) 言うには、もし座禅を学ぶなら、禅が (ただ単に) 座ったり横になったりというものではないとわかるでしょう (注44. 若學坐禪、禪非坐臥)。 いま言うところは、座禅は座禅であり、座ったり横になったりだけとは意味が少し違い (注44. 坐臥にあらず)。座ったり横になったりではない (注44. 坐臥にあらず) もともとあるものは (注45. 單傳するよりこのかた)、無限をあらわす座ったり横になったりでそれは自分の本体なのです (それは自己なり)。どうして良く知っているとか知らないとか言うのか (注46. なんぞ親疎の命脈をたづねん)、どうして迷いと悟りを論ずるのか、だれが智慧の遮断された状態 (注47. 智斷) を求めているのでしょう。

(注44) 座禅はカタチだけのものではありません (注45) すべての人の内側にすでに存在する、という形で仏は伝わっています (注46) ほとけがなにかわかれば、それはだれでも良く知っているものです (注47) 智慧の遮断を求めているのもほとけです

南嶽は言います、もし座ったかたちのほとけを学ぶなら、ほとけが定まったかたちを持たないことを知るでしょう (若學坐佛、佛非定相)。

いはゆる理解できたということを理解するとは (注48. 道取を道取せん) このようなことです。座ったほとけの像が一体二体とある様子は (注49. 坐佛の一佛二佛)、かたちのないものをイメージとしてあらわしたものであり (注49. 非定相を莊嚴とせる)。いまほとけに定まったかたちがない (佛非定相) と理解することが、ほとけのかたちを理解することなのです (注50. 佛相を道取)。

(注48) 注4の不思量底を思量する、と似たパターンで、かたちのないものを認識したことを認識している、という状態 (注49) 仏像や修行者がすわっている様子は、抽象感覚世界のほとけを具体化して見せたものです (注50) かたちがなくてもそれを理解することはできます

かたちの定まらないほとけであるために (非定相佛)、座ったかたちを見せることが避けられないのであり (注51. 坐佛さらに廻避しがたきなり)、そうであればすなはち、かたちのないほとけをあらわしたイメージであるために (佛非定相の莊嚴なるゆゑに)、もし座禅を学ぶなら (若學坐禪) それは座ったかたちのほとけなのです (注52. すなはち坐佛なり)。

だれがとどまることのないほとけの世界で (無住法におきて)、ほとけではないと見たり (ほとけにあらずと取捨し)、ほとけであると見たりするのでしょう (ほとけなりと取捨せん)。見ることよりさきに見る感覚を落とすことで (注53. 取捨さきより脱落せるによりて) 座ったかたちのほとけになります (坐佛)。

(注51) かたちはないけど、とりあえず人に教えるために具象化されたものを使います (注52) 座禅があらわすのはほとけの一側面で、ほかにももっといろいろな面があります (注53) ほとけを見ようとあれこれ詮索しなければ、そのとき座ったかたちのほとけがあらわれます

南嶽は言います、あなたがもし座ったかたちのほとけであるなら、これはほとけを殺している状態なのです (汝若坐佛、即是殺佛)。

いはゆるさらに座ったかたちのほとけ (坐佛) を考えてみれば (參究)、ほとけを殺すことができる利点があります (注54. 殺佛の功徳)。すわったかたちのほとけであるまさにそんなような時はほとけを殺しているのです (坐佛の正當恁麼時は殺佛なり)。ほとけを殺しているそのふんいきのようなものは (注55. 殺佛の相好光明)、探してみればかならず座ったかたちのほとけに行き着くはずです (注56. たづねんとするにかならず坐佛なるべし)。

殺すという言葉は、たとへ一般の人が (凡夫) 使うものとおなじように見えても、ただ単に一般人とおなじ意味で (ひとへに凡夫と同ず) 使うべきではありません。また座ったかたちのほとけがほとけを殺すことについては (坐佛の殺佛)、どんな形の段階があるのか(注57. 有什麼形段)考えてください (參究)。ほとけの功徳がすでにほとけを殺していることを提示しているし (殺佛なるを拈擧)、わたしたちが言う人を殺したり人をいまだ殺していない (注58.殺人未殺人) などについても考えてください (參學すべし)。

(注54) 殺佛はほとけが意識されない状態、自分がほとけであればほとけは見えなくなります (注55) 空気感のようなものとしてあらわれます (注56) 熟練すれば座っていなくてもそれが出せますが、初心者向きとしては座禅を重視するのがよいようです (注57) 十牛図のようなステップがあるようです (注58) 殺佛におなじ、意識の中に人がいない、意識の中に人がいまだいなくなってはいない

もし座っているかたちをやっているだけならば、その理解には至らないでしょう (注59. 若執坐相、非達其理)。

いはゆるこの座ったようすをあらわすことの意味は (執坐相)、その座った様子を意識しないで (注60. 坐相を捨し)、その座った様子を感じているということなのです (注60. 坐相を觸する)。この道理は、すでに座ってほとけがあらわれていれば (坐佛する) 、座ったかたちをとらないほとけ (注61.不執坐相なること) は得られないのであり、。座ったかたちをとらないほとけ (注61.不執坐相) であることが得られないために、その座った様子は (執坐相) たとへ冷たくボンヤリとしていても (玲瓏)、その理解に達することはないのです (非達其理)。そんなような工夫を脱落身心といいます。

いまだかつて座ったことがないものにはこの道があるはずもなく、棒で打ち座るその時にあり (打坐時)、打ち座るその人にあり (打坐人)、打ち座るそのほとけにあり (打坐佛)、学び座るそのほとけにあり (學坐佛)。ふつうの人が座ったり寝たりするような座るというものは (ただ人の坐臥)、この打ち座るほとけなるものではなく (注62.打坐佛なるにあらず)。人が座ることはおのずからほとけが座っている仏座のかたちに似ているとはいえ (注62.人坐のおのづから坐佛佛坐に相似なりといへども)、人がほとけをあらわすこともあり (人作佛)、ほとけをあらわすことができる人がいるようなものです (作佛人あるがごとし)。

ほとけをあらわす人がいるといっても (作佛人ありといへども)、すべての人はほとけがあらわれた状態にはなく (注63. 一切人は作佛にあらず)、ほとけはすべての人とは違うものです (ほとけは一切人にあらず)。すべてのほとけがすべての人だけあるというわけではないので (注64. 一切佛は一切人のみにあらざるがゆゑに)、人がかならずほとけというわけではなく、ほとけがかならず人というわけでもありません。ほとけの座ったすがたとはこのようなものです (注65.坐佛もかくのごとし)。

(注59) 執坐相は座ったかたちを維持している状態、ほとけの空気感はまだ出ていないようですね (注60) 判断をしないでただ感じている (注61) 座っていないときにもあらわれるのがホントのほとけのようです (注62) 一般人がやってる人坐はほとけのオーラが出ていない点で坐佛佛坐とは違います (注63) すべての人の目の前にほとけはいるが、トレーニングしないと見えるようにならない (注64) 人だけでなく、この世のありとあらゆるものにほとけが存在している (注65) ほとけはただの感覚であり、座った姿に限定されるものではないということ

南嶽と馬祖 (江西) は師匠もすぐれているけれど、弟子もそれにおとらない素質があり (師勝資強)、こんなような話なのです (かくのごとし)。座ったほとけのかたちがほとけをあらわしている一例で (坐佛の作佛を證する)、馬祖 (江西) がこれにあたります。ほとけをあらわすために (作佛) 座ったほとけのかたち (坐佛) をしめすわけで、南嶽がこれにあたります。南嶽の教えには (會) そんなような (恁麼の) 功夫があり (注66)、藥山の教えには (會) なにものかがやって来る (注67. 向來) という理解が (道取) あります。

(注66) 座ったかたちからほとけを推理する (注67) なにも考えていない不思量底という場所からやって来ます

しるべきで、多くのほとけや祖師たちを理解するきっかけとなるのは (注68. 佛佛祖祖の要機とせるは)、これはすわったほとけのかたち (坐佛) であるということで、すでにほとけや祖師を理解できている (注68. 佛佛祖祖) というなら、このきっかけ (要機) を使用していて、まだ実現していないのは (いまだしき) 夢のようでありいま現在を意識できない状態 (注69. 夢也未見在) のみとなります。

おおよそ西のインドから東のこの日本まで (注70. 西天東地) 仏法が伝わるということは、かならず座ったほとけのかたち (坐佛) が伝わるもので、それが必要なきっかけで (要機) あるからです。仏法が伝わらないのであれば座禅も伝わらず、嫡嫡と相承されつづけるのはこの座禅の教えや考え方 (注71. 宗旨) のみです。

この教えとやり方が (宗旨) いまだ一人つづに伝わらないのは (注71. 單傳せざる) ほとけも祖師も理解できていないからで (佛祖にあらざる)、この座禅の法をすでに理解できたなら (一法あきらめざれば) 世界のすべてもすでに理解できているし (萬法あきらめざるなり)、世界のあらゆる出来事もすでに理解できているのです (萬行あきらめざる)。いろいろな個別の仕組みを (法法) 理解できるということは目が良く見える (明眼) というわけではなく、道を理解した (得道) ことでもありません (注72)、どうして仏に新しいと古いの違いがあるのでしょう (いかでか佛の今古ならん)。ここをもってほとけや祖師を理解することが (佛祖) かならず座禅を利用して理解を伝える (注73. 坐禪を單傳) ことと一つに決まっているのです (一定すべし)。

(注68) すべてのほとけや祖師たちは、同じほとけ感覚を共有しています (注69) ボンヤリ感のこと、対象物を認識できない状態 (注70) 西天東地はインドから中国まで、ただし道元さんはいま日本でこれを書いています (注71) ほとけは個人の持ち物なので、伝えられるのはほとけを知る方法だけです (注72) ほとけは単一の感覚ですが、いろんな個別表現を集めてもそれをズバリあらわすことはできません (注73) ほとけはすべての人の内側にあり、それを見る方法としては座禅のなかに必要なものがすべて揃っています

ほとけの光明に照らされる (照臨せらるる) というのは、この座禅をあれこれかんがえることであり (坐禪を功夫參究)。理解のあさい人たちは、ほとけの光明をかんちがいして、日月の光明のようだとか、かがり火のかがやき (珠火の光耀) のようであると思ったりします。日月のかがやきは (光耀)、わずかに六道輪廻の様子 (注74. 業相) にかたよっているようで、さらにほとけの光明に比べられるものではありません。ほとけの光明というのは、一つの言葉の意味をよくよくかんがえ (注75. 一句を受持聽聞)、ひとつのはたらきを保ちそれを護り (注76. 一法を保任護持)、座禅のなかに本来伝わるものがあるのです (坐禪を單傳)。光明に照らされる状態までおよばなければ、この保つはたらきもなく (保任なし)、この受け取る感覚もないのです (信受なきなり)。

(注74) ほとけの光明は五感や知識や判断を利用しない、感覚のようなものです (注75) 言葉の意味の真意、または真理を理解する (注76) ほとけの感覚を維持しつづけること

そうであればすなはち、むかしから伝わっている (古來なり) といへども、座禅を座るだけでない本来の意味として知る人は少なく (注77. 坐禪を坐禪なりとしれるすくなし)、いま現在ある南宋の (大宋國) の諸山に、格式のある寺で (甲刹) 住職をつとめるものも (主人とあるもの)、座禅の意味を知らないし、学ばない人が多く、それを明らかに理解して知っている人もいますが、数はすくないのです。諸寺にはもとより座禅のしきたりが (坐禪の時節) さだまっていて、住持と修行の僧 (諸僧) がともに座禅することを日常としており (本分の事とせり)、学びたいものがくれば座禅をすすめます(學者を勸誘するにも坐禪をすすむ)。

そうであっても、このことを知っている住職 (住持人) はまれなのであり、このために、古来より近代にいたるまで、座禅の来歴をしるした老僧もひとりふたりいますし (坐禪銘を記せる老宿一兩位あり)、座禅のしきたりを選んだ老僧もひとりふたりいて (坐禪儀を撰せる老宿一兩位あり)、座禅の方針をしるした老僧もひとりふたり (坐禪箴を記せる老宿一兩位) いるなかに、座禅の来歴などは (坐禪銘)、ともにとるべきところがなく、座禅のしきたりは (坐禪儀)、いまだその真意がはっきりとはしません (行履にくらし)。座禅本来の意味を (坐禪を) 知らないし、座禅のなかでほとけを伝えられない (坐禪を單傳せざる) ひとたち (ともがら) の記せるところです。景徳傳燈録にある坐禪箴、および嘉泰普燈録にあるところの坐禪銘などがそうで、あはれむべきなのは、あちこちの禅寺を遍歴して (十方の叢林に經歴して) 一生を過ごしたといえども、座ってみることに工夫がなかったことです (注78. 一坐の功夫あらざることを)。

打ちすわることはすでにあなたではなく、工夫とはいま以上に自分を見ていないことです (注79. 功夫さらにおのれと相見せざる)。これは座禅で自分のからだやこころを切り離せないからで (おのれが身心をきらふにあらず)、ただしく一つだけの方法を (眞箇の功夫) 目指すことなく、あわてて勘違いしてしまうからなのです (注80. 倉卒に迷醉)。かれらが修行した成果というのは (所集は)、ただ知識を捨てこころの源に帰るという言葉をまねただけであり (注82. 還源返本の様子)、いたづらに呼吸ばかりを気づかって静寂に行き着かないやり方で (注83. 息慮凝寂の經營なり)、禅の四段階にわたる区分以前のものであり (注84. 觀練薫修の階級におよばず)、菩薩修行におけるやや高度な見地にも行き着いていないし (注85. 十地等覺の見解におよばず)、どうやってそれぞれのほとけを見るやり方を伝えるのでしょう (佛佛祖祖の坐禪を單傳せん)。南宋の記述にはまちがいがあり (宋朝の録者あやまりて録せるなり)、最近のものはあまり見る価値がないでしょう (晩學すててみるべからず)。

(注77) 外見のかたちやそのときの気分のほかに座禅にはどんな効用があるのか知らない (注78) ・・・ (注79) 自分を見ていない、または自分がダレかわからない (注80) 自我やこころを観察するのはまちがいで、自我でもこころでもないものを観察します (注82) 十牛図九番目にある返本還源、自我を捨てて意識の源に行き着きます (注84) 天台智大師が摩訶止観で説いた観禅・練禅・薫禅・修禅の四分類  (注85) 菩薩行の最終三段階は、十地・等覺・妙覺

座禅の指針は (坐禪箴)、大宋國慶元府太白名山天童景徳寺における宏智 (わんち) 禪師正覺和尚の撰したもののみがお釈迦さまの教えを伝えていて (佛祖なり)、座禅の方針であり (坐禪箴)、道を得るためにはこれが良いでしょう (道得是)。ひとり法界の表裏に良く通じていて (光明なり)、古今のお釈迦さまの教えを伝えている人たちには共通のものです (古今の佛祖に佛祖なり)。以前のほとけや後のほとけはこのやり方に教えられ導かれていき (前佛後佛この箴に箴せられもてゆき)、いまの師匠も昔の師匠もこのやり方でほとけをあらわします (今祖古祖この箴より現成するなり)。その坐禪箴というものは、すなはちこれなのです (注86)。

(注86) すべてのほとけや、ほとけをあらわすすべての師匠は、宏智禪師と同じこの感覚を持っているという意味、↓下につづく坐禪箴はシンプルでわかりやすいなかなかの名文ですね



坐禪箴 敕謚宏智禪師正覺撰

佛佛要機、祖祖機要。
(注87. いろいろなほとけがそのはたらき備えていて、注88. 多くの祖師たちはそのはたらきを必要なものとしています)

不觸事而知、不對縁而照。
(注89. もの事にとらわれることなくそれを知ることができ、注90. それを認識せずに観察することもできます)

不觸事而知、其知自微。
(もの事にとらわれずに知ったとしても、それはおのずからかすかな知識のようなものとなります)

不對縁而照、其照自妙。
(また認識することなしに観察できたとしても、その観察もまた言葉ではあらわせないビミョーなものとなるでしょう)

其知自微、曾無分別之思。
(その知り得たものがおのずから微かなものであるのは、注91. かつて分別という思いをしたことがないからです)

其照自妙、曾無毫忽之兆。
(注92. その観察はおのずからビミョーであるけれど、かつてわずかでもボンヤリとした兆しがないハッキリとした様子であり)

曾無分別之思、其知無偶而奇。
(注93. かつて分別という思いをしたことがないのは、その知り得たものが四隅に固定されたものではなく中間のあいまいさを持っているからで)

曾無毫忽之兆、其照無取而了。
(注94. かつて少しもボンヤリとした気配すらないのは、その観察がそれ以上得るものがない行き着いた場所だからです)

水清徹底兮、魚行遲遲。
(注95. 水底まで見通せるような澄んだ水の中を、魚がゆっくりと泳ぎます)

空闊莫涯兮、鳥飛杳杳。
(注95. 空はひろくて果てしがなく、鳥はゆったりと飛んで行きます)


(注87) ほとけであればかならずあらわれるはたらき (注88) 祖師たちはほとけを説明するためにそのはたらきを使います (注89) むしろ囚われないときにこそ、それがあらわれます (注90) 見たり聞いたりの対象を意識せずにぼんやりと感じていること、「ありのまま」 はコレです (注91) 脳の判断領域は使いません (注92) 覚醒した感性領域というようなもの (注93) 言葉のない領域なので固定できません (注94) 省エネモードのようなシンプルな意識です (注95) 宏智禪師は達人なのでこの感覚が見えていて、「明鏡」 の言葉を変えた表現とも言えそうですね

いはゆる座禅を使いこなすため (坐禪箴) の箴の字は、自由自在に使いこなせる (注96. 大用現前) ことであり、意識が上昇したかたちであり (注97. 聲色向上威儀)、父や母を意識する以前の状態であり (注98. 父母未生前の節目)。お釈迦さまの言葉を信じることであり (注99. 莫謗佛祖好)、まだ気を失っていない状態であり (注100. 未免喪身失命)、頭が三尺で首がみじかく二寸しかないようなものです (注101. 頭長三尺頚短二寸)。

(注96) なにものにも縛られない自由が手に入ります (注97) 意識の上澄みのようなもの (注98) 赤ん坊が世界を認識している状態 (注99) もともとの信心の意味は、「ほとけの存在を確信する 」 だったようですね (注100) 無意識の一歩手前で、まだ通常意識が一部残っています (注101) ・・・

佛佛要機

おおくのほとけは (佛佛) かならずほとけのあらわれたいろいろな様子を (佛佛) 必要なはたらきとし (注102. 要機)、その必要なはたらきをじっさいにあらわすこと (要機現成)、これが座禅です。

(注102) ほとけという感覚にくっついている属性のようなもの、たとえば天下人舌頭座断 (言葉が出なくなる感覚)、などもそのひとつ

祖祖機要

むかしの師匠はこれについて言葉がありません (注103. 先師無此語)。この言葉のない道理こそが多数の祖師たちの意図 (祖祖) なのです。法がつたわり法衣もつたわります (法傳衣傳)。おおよそ振り向けば顔が変わっていたようなその顔であり (注104. 囘頭換面の面面)、これが多くのほとけに必要とされるはたらきです (佛佛要機なり)。顔を変えるところを見せてから首をまわすいろいろな頭であるのは (注105. 換面囘頭の頭頭)、これが祖師がそのはたらきを必要とするところなのです (祖祖機要なり)。

(注103) 言葉で表現できない感覚のようなもの (注104) ほとけを表現するたびに違った言葉になってしまうこと (注105) 逆にほとけをあらわす別々の違った言葉を並べて、抽象的なほとけ感覚を推理するヒントとします

不觸事而知

知るという字は知識がわかるわけではなく (覺知にあらず)、少しだけ意味がわかるということです (覺知は小量なり)。完ぺきに知っている (了知) という知でもなく、完全にわかったというのは作り上げた概念であり (了知は造作なり)、このようであるがゆえに、知というのは対象に触れることがないのであり (不觸事なり)、対象に触れないことが知という字であり (注106. 不觸事は知なり)、特定の知識とかん違いすべきではなく (遍知と度量すべからず)、自然にわかるものと狭く考えてはいけません (自知と局量すべからず)。その対象に触らないというのは (不觸事といふは)、はっきりとした頭のときにやって来ればはっきりとした頭で対応し (注107. 明頭來明頭打)、ぼんやりとした頭のときにやって来ればぼんやりとした頭で対応することで (注107. 暗頭來暗頭打なり)、若い娘が座っていて皮がむけてしまったようなことです (注108. 坐破孃生皮なり)。

(注106) 見たり聞いたりしていても、そのものに興味がなくて内容を把握していないような状態、とすればちかいです (注107) 臨済和尚の同僚であった普化和尚の辻説法、ハッキリした頭でもボンヤリした頭でもほとけは見えるよ、という意味 (注108) お尻の皮がむけるほど長い時間の座禅をすればわかります

不對縁而照

この照の字はふつうに見て理解したこと (照了) の照ではなく、霊感のようなもので見る (靈照) わけでもなく、認識しないこと (注109. 不對縁) を照とします。見ていても認識することがない状態があり (注109. 照の縁と化せざる)、これを照としているためです。対することがないのは (不對)、どの場所にもなにもないことであり (注110. 遍界不曾藏)、世界がこわれてもなにも顔を出さないことであり (注110. 破界不出頭)。微かなものであり、良くできたものであり (妙)、理性と智慧が互いに交流しているところなのです (注111. 囘互不囘互)。

(注109) 認識することなしに観察する、これもややムジュン表現です (注110) どんな時にもどんな場所にもなにも存在していないという感覚 (注111) ごくごくわずかではあるけれど、理性がまだ存在しているこころの中のとある場所です

其知自微、曾無分別之思

思うことが知ることであるためには (注112. 思の知なる)、かならずしもあれこれ考える必要はありません (他力をからず)。その知ることというのはかたちであり (注112. 其知は形なり)、形は目の前にある山河でもあります。この山河は微かであり、この微かなものはとてもよくできていて (妙なり)、使ってみれば活き活きとしています (使用するに活なり)。龍の絵柄を彫るのには (龍を作するに)、登竜門の内外どちらでもよく (注113. 禹門の内外にかかはれず)、いまの一つの知というものをわづかに使用するためは、世界の尽きた場所にある風景をよく観察し (注114. 盡界山河を拈來し)、その観察する力も尽きれば (注115. 盡力) 知があらわれます (注116. 知するなり)。目の前のなじみある風景を見てもこの知がなければ (山河の親切にわが知なくは)、知ったといっても半分も理解することはできないでしょう (一知半解あるべからず)。分別思量を取り去ることは出来ない (おそく來到する) となげくべきではなく、すでに分別をしているもとになるいろいろなほとけは (注117. 已曾分別なる佛佛)、目の前にやって来ているのです (現成しきたれり)。かつて分別しなかったことがあるからすでに分別しているのであり (注118. 曾無は已曾なり)、すでに分別していることは (已曾) ほとけがあらわれていることでもあるのです (現成なり)。そうであればすなはち、かつて分別が無かったことは (曾無分別)、誰一人として逢わなかった、とそんなようなものなのです (注119. 不逢一人)。

(注112) かたちとはイメージのことであり、「思の知なる 」はそのイメージを感じること (注113) 龍が登竜門をくぐる必要は無く、その門がどんなものかわかれば通り抜けることができます (注114) 世界も山河も意識することなくただ見ているだけの状態 (注115) 観察していることを意識しなくなってもまだ見ている (注116) 仏性と呼ばれるほとけの本体が見えた状態 (注117) 分別の仕分けもそれを初めに呼び出す部分はほとけのしごとです (注118) 分別の始まりとはなにか? (注119) 洞山和尚がしめした、不行鳥道の鳥道ぶぶんについての解説、だれも歩いていないのでだれにも逢わない道

其照自妙、曾無毫忽之兆

わずかにボンヤリするということは (注120. 毫忽) 世界が尽きた場所のことです (注121. 盡界)。そうであるとすれば、自ずからビミョーによくできているものであり (妙なり)、自ずからはっきりとしたものです (照なり)。このために、いまだやって来ていないようにも見え (注122. 將來せざるがごとし)、目を使わないということではなく (注122. 目をあやしむことなかれ)、耳からの情報を信じてはいけないというようなもので (注122. 耳を信ずべからず)、明らかな教えの言葉の外に真意を読み取り (直須旨外明宗)、言葉の中にある規則にとらわれないことは (莫向言中取則)、これも照のひとつです (注123. 照なり)。このために四隅という固定された場所がなく (注124. 無偶なり)、このためになにも得るものがないのです (注125. 無取なり)。これを場所の定まらないあいまいなものである (注124. 奇なり) と納得しつつ (住持しきたり)、行き着いた場所であると (了なり) してその状態を保っているとするならば (保任しきたるに)、わたしは却って疑いを持つことでしょう (注126. 我却疑著)。

(注120) だるま大師の言う不識で、なにもわからない意識状態のこと (注121) 世界も意識しなければ尽きてなくなったのと同じこと (注122) 隠し絵のようなもので、目の前の風景や五感以外の感覚のなかにそれは紛れ込んでいます (注123) 言葉の意味には固定されない (注124) 固定するためには言葉が必要なので、言葉を使わないものであることがわかります (注125) 知識として得るものがない感覚世界のものです (注126) 正しい理解であっても、それが言葉で固定されるかぎりは、ほんものの理解とは言えません

水清徹底兮、魚行遲遲

水清というのは、空を眺めれば (空にかかれる水) 澄んでいても水底が見えず (清水に不徹底)。いうまでもなくうつわの中の世界が澄み切っている様子で (器界に泓澄)、水という言葉であっても水のことを言っているわけでなく (水の水にあらず)、行き着いた果てのところに岸はなく (邊際に涯岸なき)、これを底まで通す水といいます (注127. 徹底の水とす)。魚がもしこの水を行こうとしても行けないことはないけれど、行くことはどれだけの距離を (いく萬程) 進んだとしても測ることはできないし、進退きわまることもないし (不窮なり)。目安にする岸辺もなく (はかる岸なし)、上に空が浮かんでいるわけでもなく (うかむ空なし)、沈む底がないために深さを測るものもいません (測度するたれなし)。深さを言わないのは (測度を論ぜん) 徹底の清水のみです。坐禪の功徳は、この魚が行くようなもので、千里万里のような距離を (千程萬程)、たれか想像するのでしょう (卜度せん)。底まで徹る (徹底) 行程は、たとえて言えば (擧體) 鳥が道を行かないようなものでしょう (注128. 不行鳥道)。

(注127) あたまの中だけにあるイメージとしての水 (注128) じっさいに道がなくても、鳥はまっすぐ行くことができる

空闊莫涯兮、鳥飛杳杳

限りの無い空というのは (注129. 空闊)、天にかかってはいません。じっさいに天にかかっている空は限りない空ではなく (闊空にあらず)。いはんやそこらへんに普通にある空はこの限りない空ではなく (闊空)。隠れたりあらわれたり (隱顯) 表裏がなく、これを限りない空 (闊空) と言います。鳥がもしこの空を飛ぶとすればそれは空を飛ぶはたらきのようなのもので (注130. 飛空の一法)。飛ぶはたらきのなかでは (飛空の行履)、距離を測るべきではなく、飛ぶはたらきは世界の尽きた場所にあり (注131. 飛空は盡界)、世界の尽きた場所を飛んでいるために測れないのです (注131. 盡界飛空なるがゆゑに)。この飛という字は、どれだけのぼんやりとした (注132. いくそばく) 感覚であるかは知らないけれども、占い師のあてもののようでない理解をすれば (卜度のほかの道取を道取)、はるか遠くにゆったりと (注133. 杳杳) という理解をします (道取)。すべからく足元の道すじを取り去ったことであり (注134. 直須足下無絲去)。空の飛去るとき、鳥も飛び去ります。鳥が飛び去れば、空もまた飛び去るのです。飛び去ることを考えつづけて理解したいいかたでは (參究する道取)、ただこの場所にいるだけです (注135. 只在這裏)。これはきちんと座ったかたちのやり方であり (兀兀地の箴)、どれだけの距離であっても (いく萬程) ただこの場所にいて (只在這裏) あれこれと言っているだけなのです (注136. きほひいふ)。

(注129) これもイメージとしての空 (注130) 空を飛ぶ、ということの基本要素、この場合ならなにもない場所をまっすぐにすすむこと (注131) 世界が存在しない場所を飛んでいる (注132) 幾十漠か? (注133) ちょっと気が遠くなるような感じ (注134) 洞山和尚が人行鳥道を聞かれ、鳥道は不逢一人、行は足下無絲去と答えた話、これはイメージとしての目に見えない道も取り去りなさいというカンジ (注135) ただこの場所に座っていて、世界の尽きた場所を感じています (注136) 競ひ言ふ?



宏智禪師の坐禪箴はこのようなものです。歴代の年老いた高僧のなかに (諸代の老宿)、いまだいまのごとくの坐禪箴はなく、あちこちで修行する人たちも (諸方の臭皮袋)、もしこの坐禪箴のごとく理解できなければ (道取せしめんに)、一生やさらにその二回分 (一生二生) のちからをつくしたとしても理解すること (道取せん) は得られないでしょう。いま諸方にこのようなものはみえず、ひとりこのやり方 (箴) のみあるのです。

先師が上堂された時、つねに (尋常に) 言われていたのが、宏智禅師はいにしえのほとけであり (古佛)、自分をそのように言うことはまったくなかったけれど (自餘の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき)、禅師を知る人に見る目があれば (知人の眼目あらんとき)、お釈迦さまの声を聞いたことでしょうし (注137. 佛祖をも知音すべき)、真に知ることは (まことにしりぬ)、洞山和尚にもお釈迦さまと同じ理解があったということです (注138. 佛祖あることを)。

(注137) 宏智禅師はお釈迦さまと同じ理解を共有している (注138) 宏智禅師の師匠すじにあたる洞山和尚も、やはりお釈迦さまの理解を正しく伝えています



いま宏智禪師より後八十余年たち、かの坐禪箴を見て、この坐禪箴を撰しました。いまは仁治三年壬寅三月十八日です。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を計算すれば (算數するに)、わづかに八十五年です。いまわたしが撰する座禅の指針というのは (坐禪箴)、このようなものです。

坐禪箴

佛佛要機、祖祖機要。
(注138. 多くのほとけがあらわすはたらきは、多くの祖師がそれを利用します)

不思量而現、不囘互而成。
(なにも思わなければそれは現れ、理性の途切れたところに生じます)

不思量而現、其現自親。
(なにも思わないときそれが現れ、注139. その現れたものはじつは良く知っていたものなのです)

不囘互而成、其成自證。
(理性のなくなった場所に生じたのなら、注140. その生じたものが自分でそれがなにかを明らかにし)

其現自親、曾無染汚。
(そのあらわれたものが良く知っているものであれば、かつて汚れたことがないのもわかり)

其成自證、曾無正偏。
(その生じたものが自分でその意味を明らかにするなら、かつて真ん中でも片寄っていたこともなかったのがわかり)

曾無染汚之親、其親無委而落。
(かつて汚れたことのないその良く知っているものは、その良く知っているものを何も無い感覚におまかせすると腑に落ちたようにわかります)

曾無正偏之證、其證無圖而功夫。
(かつて真ん中も片寄りもないことがあきらかになれば、その明らかになったものをなにもないイメージとしてあれこれ功夫をします)

水清徹地兮、魚行似魚。
(注141. 水は清く澄み切っていて、魚が泳いでいてもそれは魚に似たものであり)

空闊透天兮、鳥飛如鳥。
(注141. そらは限りなく透き通っていて、鳥が飛んでいるけれどそれは鳥のようなものなのです)

(注138) ほとけは抽象感覚であり言葉では説明できないので、そのほとけがあらわすいろいろな性質を利用してほとけがなにかを説明します (注139) 日常的なふつうの意識のなかにも断片的にあらわれています (注140) もしほとけがあらわれれば、それは人に聞かなくてもすぐにわかります (注141) やや説明しすぎなので、これは宏智禪師があらわした美しいイメージで感覚的に理解するほうが良さそうです



宏智禪師の坐禪箴、それは道がいまだ是がなにかはわからない人であっても (未是)、さらにこんな理解をするとよいでしょう (道取すべき)。ほとんどのお釈迦さまの流れを汲む人たちは (佛祖の兒孫)、かならず座禅をもっとも大切なものとしてこれに取り組んでいるので (坐禪を一大事なりと參學すべし)、これが内なるほとけを正しく伝えている目印となります (注142. 單傳の正印)。

(注142) ほとけは伝わらず、すべての人の内側に備わっているほとけという感覚を見るためのトレーニング方法だけが伝わっています



正法眼藏坐禪箴第十二
建長壬子拾勒 (1252年に記します)






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