【佛性】 ぶっせい

お釈迦さまはこう言いました。

すべての人々には、ことごとく仏性というものがそなわっていて、そのものは常にそこにあり、また変化するということもないのです

一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易。


これは、われらが師匠であるお釈迦さまが涅槃経の師子吼品に説かれた教えですが (注1 大師釋尊の師子吼の轉法輪) 、これはまたすべてのほとけやすべての師匠が理解している教えの根本でもあります (一切佛、一切師の頂にん眼睛なり)。これらの人たちがこれを学んできて、きょうの日本が仁治二年で辛丑の歳ですから、すでに二千一百九十年が経ち、正しく相承をされているのも (正嫡) わたしの師匠である天童如淨和尚までわずかに五十代であり、インド (西天) 二十八代は代々そこにつたわり (住持)、その後中国にて (東地) 二十三世に受け継がれ、世の中の変化とともに教えもそこに伝わってきたのです (住持)。そしてその他いろいろなところで説法をしている仏教の師匠たちも (十方の佛祖)、これらの祖師たちとともにいっしょに教えを伝えているのです (住持)。

(注1) 大般涅槃経の師子吼菩薩品に「師子吼とは、決定し・・・(以下上の金色の文章)」となってるらしいです。

お釈迦さまが言うところの (世尊道) すべての人々にことごとく仏性は具わっている (一切衆生、悉有佛性) という言葉が教えるその意味が (宗旨) どんなものかは、「この何者かはそんなようにしてやって来たのです (注2.是什麼物恁麼來) 」と説く教えの中にあります (道轉法輪)。あるときは衆生ともいうそれは、有情ともいひ、群生ともいひ、群類ともよばれます。 ことごとくある (悉有) という言葉は衆生のことでもあり、すべての生きとしいけるもののことでもあります (群有也)。すなはちことごとくあるものが仏性であり (注3 悉有は佛性)。ことごとく有るうちのひとつ (一悉) を衆生と言います。まさにそんなようなものであるときは (正當恁麼時)、衆生の内にも外にもすなはち佛性が悉く有るということです。自分の内側にある (單傳する皮肉骨髓) だけではなく、ダルマ大師がやって見せたように (汝得吾皮肉骨髓) 弟子にそれを受け渡すこともできるようです。

(注2) 「是」という言葉は、佛性を意味しているようです。 (注3) ことごとく有ることは仏性と同じものである、またはことごとく有るものに仏性という名前がついている。

知るべきで、いま佛性にことごとく有る (悉有) とする有は、有無の有ではありません。悉有は佛語であり、佛の舌であり。お釈迦さまの黒目 (佛祖眼睛) であり、禅僧の鼻の穴のようなものです (衲僧鼻孔)。悉有という言葉は、さらにそれ以前のどこか始めから有ったわけではなく (始有)、今あるわけでもなく (本有)、なんとなく有ったわけでもありません (妙有)、ましてきっかけがあって有るわけでも想像してそれが有るということでもないのです (縁有妄有)。こころのあり方や感覚や欲や世界の有り方などには関係がありません (心境性相等)。

そうであればすなわち、衆生にことごとくそなわるこころと世界の関係であり (悉有の依正)、しかしながらそれは人の行いによってもたらされるわけではなく (業増上力にあらず)、想像 (妄縁起) から起こったものでもなく、ほとけのつくるもの (法爾) ですらなく、特別な神通力であらわれるものでもありません (神通修證)。もし衆生に悉く有るものが、人の行い (業増上) やほとけのはたらきなどによって起こる (縁起法爾等) のなら、聖人の解き明かす道 (諸聖の證道) および諸仏のさとりの智慧 (諸佛の菩提) や過去の師匠たちが言う教えのかなめも (佛祖の眼睛)、人の行い (業上力) およびほとけの力によって起こるもの (縁起法爾) となってしまいます。(注4)

ところがそうではないのです。この世界 (盡界) にはどこにも対象物はなく (注5 すべて客塵なし)、心の中に (直下) さらにもうひとつのこころ (第二人) があるわけではなく、こころのなかを掘り下げていけばそこには意識の起こらない場所があり (直截根源人未識) 忙しく立ち働いていた意識がしばらく休んでいるような状態なのです (忙忙業識幾時休)。

(注4) ことごとく有るものは、人の行為や仏や想像力や神通力とは無関係に存在している。 (注5) この世界が尽きるところまで探したとしても、たとえ塵のように小さなものですらそこにはなにも存在することがない、対象概念のないひとつにまとまった世界である。

有はたまたまきっかけがあって起こったものではなく (妄縁起の有にあらず)、世界はそのすみずみまでかつてなにかがしまわれていたことはないのだ (遍界不曾藏のゆゑに) という意味で、世界になにもしまわれていない (遍界不曾藏) ということは、かならずしも逆に世界そのものが存在する (滿界是有) と言うことではありません。また世界のすみずみにまでわたしが存在する (遍界我有) というのも仏教ではない間違った解釈となります (外道の邪見)。

もとから在る有でないのは、昔と今がとなりあって区別がないからであり (注6 亙古亙今)、あるとき始まって起こる (始起) 有でないのは、他のものを受け付けることがないからである (注7 不受一塵)。ひとつひとつ数えられる (條條) 有ではなく、まとめて理解するものであり (合取のゆゑに)。はじまりが無いという事実が有る (無始有) というその有でもなく、それはすでにこのようにしてやって来ていているからで (是什麼物恁麼來)、なにか有るものが起こってそこから始まる (始起有) わけでもないのは、ふだんのこころがそのまま道であるからです (吾常心是道)。まさに知るべきでしょう、ことごとく有るというその中に (悉有中) 衆生が逢い難いものを知る良い方法があるのです (衆生快便難逢)。ことごとく有ることを理解するとはこのようなもので、ことごとく有るというのは (悉有) 体が透けて抜け落ちてしまったようなものなのです (透體脱落)。(注8)

(注6) 昔と今が相互に入れ替わる、または時間の概念がない。 (注7) なにもない世界は、それ以外の要素を受け入れることがないので、始まりという概念がない。 (注8) すべての存在には最低限共通する要素が存在していて、それに悉有という名前がついている。

佛性という言葉を聴くと、仏教を学ぶものの (学者) 多くはお釈迦様と論争した先尼外道のように、我という存在があるかとかん違いしてしまいます (邪計)。そんな様子は、人を観察したことがなく (人にあはず)、自分の本質を見たことがなく (自己にあはず)、師匠の説法が理解できないからで (師をみざるゆゑ)、いたづらに風にゆれる炎の動きにつられてしまう心のはたらきを (注9 風火の動著する心意識) 見て佛性の本質を理解したと (覺知覺了) 思ってしまいます。誰が言ったのでしょうか (たれかいふし)、佛性が知識で了解できると (覺知覺了ありと)。さとりを理解し知るものは (覺者知者) たとへ諸佛であるとはいっても、佛性はやはり知識として理解できるものではないのです (覺知覺了にあらざるなり)。まして諸佛はさとりを知るものである (覺者知者) とする場合の覺知は、仏教でないひとたちの我があるというまちがった解釈をさとりの理解とはせず (なんだちが云云の邪解を覺知とせず)、風に動く炎につられてしまうこころ (風火の動靜を覺知とする) をさとりとすることもありません、ただ二つの面としての (一兩の) ほとけとその元になるもの (佛面祖面) があり、これがさとりを知ることなのです (覺知なり)。

(注9) 長沙景岑和尚と竺尚書が、二つに切断されたみみずについて議論する話、このページ注165、 のあたりにあります。

よくあることで、むかしの年をとって徳があるとされる人たちは (往往に古老先徳)、あるときはインドに行き来し (西天に往還し)、あるいは大衆や国の指導者を導きました (人天を化導する)、漢や唐の時代より今日の南宋 (宋朝) にいたるまで、稲や麻や竹や葦がはびこるように (稻麻竹葦) そんな無数の人たちがいましたが、その多くは炎のゆらめきにつられて動くこころ (風火の動著) を佛性のあらわれたもの (知覺) と思っていたようで、残念なことです (あはれむべし)。これはほとけを学ぶ方法があまり伝わっていないことにより (學道轉疎なる)、いまの誤った理解があるのです (失誤あり)。

いま佛道を遅ればせながら学びはじめようとするならば (晩學初心)、そうは考えず、たとへさとりの本質を学ぶとしても (覺知を學習す)、それは (覺知) こころの動きではなく (動著にあらざるなり)、たとへこころの動きを学んでも (動著を學習すとも)、それは見たまま (動著は恁麼) というわけではありません。もしこころの働きの本質に出会って理解できれば (眞箇の動著を會取する)、それがさとりの本質的な理解と出会ってそれを身に着けるということになるのです (眞箇の覺知覺了を會取すべき)。ほとけの備えている性質はあの世にもこの世にも達しています (佛之與性、達彼達此)。佛性はかならず悉く有るものであり、悉く有ることは佛性でもあるからです。悉く有ることは無数に細かく砕かれたものではなく (百雜碎)、悉く有ることはきれいな一本の鉄といった塊 (一條鐵) でもありません。こぶしを回して平等世界に導くようなもので (注10. 拈拳頭) もちろん大小とてありません。すでに佛性と名ずければ、名のある仏たちと (諸聖) 肩をならべるようなものではないし (齊肩なるべからず)、佛性そのものとさえ肩を並べることはできないのです (注11. 齊肩すべからず)。

(注10) お釈迦さまが迦葉に法を伝えた拈華微笑の話と同じ。(注11) 佛性は名前がない世界のものなので、佛性と名づけた瞬間にもとの言葉でない世界の佛性とはちがうものになってしまいます。

ある一団の人たちはこう思っていて (一類おもはく)、佛性は草木の種子のようであり。法の雨が降って大地が潤いしきりにその種を潤すとき、芽や莖が生長し、枝や葉や花や果実ができ (もすことあり)、果実はさらに種子を内側につくります。このように見て理解するのは、はなはだ平凡な考えであり (凡夫の量)、たとえこのように見て理解したとしても、種子および花や果実は、ともにそれぞれが (條條) 佛性のあらわれ (赤心) であると見極めなくてはいけません (參究すべし)。果実の中には (果裏) 種子があり、種子は見えないけれどそこから根や莖などを生じ、どこかららか集めたわけでもないのに無数の枝や幹が大きな生垣になったりし (枝條大圍)、それは内外を論ずるだけではなく、古今の時を通じて空っぽであったことはないのです (不空なり)。そうであればたとえ平凡な見方におまかせしたとしても (凡夫の見解に一任)、根や莖や枝や葉はみなその同じものの上に生き同じものの上に死に、その同じく悉く有るというものが佛性となるのです。(注12)

(注12) 注8とおなじ、すべてのものに共通ななにものかの上で生きたり死んだりしている。


佛言、欲知佛性義、當觀時節因縁、時節若至、佛性現前。

お釈迦さまは言います、もし佛性の意味を知りたければ、まさにこころの働き (因) がどう起こるか (縁) その瞬間を観察すれば良く、そのこころの働きが起こる瞬間を見つけることができれば (若至)、そのとき佛性は目の前に現れることでしょう。

いま佛性の意味を (義) を知ろうと思った、というなら、それはただ知職だけではなく、行をやろうと思った、明らかにしようと思った (證せん)、説明しようと思った (とかんと) とも、自分を忘れようと思った (わすれんとおもはば) とも言ったりします。これらの、行をする、明らかにする、わすれる、まちがい忘れ、まちがわない (説行證忘錯不錯) などのことも、けっきょくは心の働きとして一瞬にあらわれる (時節の因縁) ものなのです。この心のはたらきを見るためには (この時節の因縁を觀ずるには)、その心の働きを使って見なくてはなりません (時節の因縁をもて觀ずるなり)、坊さんがつかう筆や杖の仏具を立てて (拂子挂杖等) その一瞬を観察します (相觀)。さらに俗人聖人の知恵や (有漏智無漏智)、もとからある智慧はじめから有る智慧なにもない智慧正しい智慧 (本覺始覺無覺正覚) 等をつかっていては見ることができないでしょう(注13. 觀ぜられざる)。

まさに見る (當觀)ということは、見てわかるとか何処を見る (能觀所觀) とかいう話ではなく、ただしく見るとか間違って見るとかの基準にも当てはまらず (正觀邪觀等に準ずべきにあらず)、これがまさに見る (當觀) ということなのです。まさに見るわけですから (當觀なるがゆゑ) 自分が意識して見るわけではなく (不自觀)、他人の目で見るわけでもなく (不他觀)、こころの起こる瞬間であり (時節因縁)、心の起こるそのときをも超えています (超越因縁なり)。それが佛性の本質であり、からだを抜け出した佛性とはこのようなもので (脱體佛性)、それが仏に共通する本質でもあり (佛佛*)、人のこころの本質でもあるのです (性性*)。(注14)

(注13) 仏性はビミョーな感覚を使って知るものであり、リクツではなかなか理解できないということ。(注14) *のぶぶんは漸+耳、という漢字、中国の伝説によると人が死んで亡霊となり、その亡霊がさらに死ぬとこの漸+耳というものになるそうで、魂のエッセンスのようなものでしょうか?

その佛性に出会うまで (時節若至) の道のりを、古今の人たちはだいたいこう思っていて (往往におもはく)、佛性が現前するそのときが来るまで待つことにしましょう (時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり)。こんなふうに修行してゆくと、自然に佛性が目の前に現れるそのときに出会うでしょう (現前の時節にあふ)。まだそのときでないならば (時節いたらざれば)、師の説法を聞いて質問をしたり (參師問法)、考えるすじみちをあれこれ工夫しても (辨道功夫するにも)、それが現れることはないと言います (現前せずといふ)。とそんなように見て取って (恁麼見取して)、いたづらに努力したものを土に還し (紅塵にかへり)、意味も無く雲が人の形に見えるようにかん違いしているのです (むなしく雲漢をまぼる)。こんなような人たちは (かくのごとくのたぐひ)、おそらくは修行も知らず仏教もわからない (天然外道) ようなものたちです (流類)。

いはゆる佛性の真実を知りたいと欲することは (欲知佛性義)、まさに佛性の真実を知ることであるとも言え (當知佛性義)、まさに心のはたらきが起こるその瞬間を見ることは (當觀時節因縁)、まさに心のはたらきが起こるその瞬間を知ることでもあります (當知時節因縁)。いはゆる佛性を知りたいと思うならば、まずは知るべきでしょう、心の起こるそのときが (時節因縁) これなのです。そのときに至る (時節若至) という言葉は、もうすでにそのときに (時節) 至っているのであり、なにをあれこれと疑うこと (疑著すべきところ) があるのでしょう。そのときが来ていることをそのように疑うのであれば (疑著時節さもあらばあれ)、「我れに佛性が來ていること を思い出しなさい(還我佛性來)」という言葉もあります。しるべきでしょう、そのときに至れば (時節若至) という言い方は、一日中自分を空としては過ごさないようなもので (注15 十二時中不空過)、至れば (若至) という言い方は、既に至っているとは言わないようなものです。そのときにいたれば (時節若至)、と言えば佛性はまだ至っていないことになり (不至)。そうであれば、すなはち時節がすでにいたれば、とすればこれは佛性が目の前に現れていることです。あるいはその理屈はおのずからはっきりとしていて (其理自彰)、たいていの場合はときが至っていない (時節の若至せざる) などという時は (時節) いまだかってないのです。佛性が目の前にあらわれていない (現前せざる) 佛性は存在してないのだとも言えます。(注16)

(注15) 仏性は常に現前するけれども、それを意識することなく過ごしている。(注16) 現前する世界を見ていることが、すでに仏性であり、それは認識の問題であることを示唆しているようです。

第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために佛性海をとくにいはく、
山河大地は皆これによってかたちをあらわし、三昧六通はこのことによってそのちからをあらわします。(山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲發現。)

そうであるなら、この山河大地はみな仏性海という名前のものが現われていて、皆それに依って建立するという意味は、それが姿を現したまさにそんな時 (建立せる正當恁麼時)、これを山河大地であると意識していて、それがすでに皆依建立の意味なのです (注16と同じ)、知るべきで、佛性海のしくみとはこんなようなものであり、さらに内や外や中間といったものにも関係なく、そうであれば、山河を見ることはそのまま佛性を見ることでもあり、佛性を見るということは見えない概念を (注17. 驢腮馬觜、ロバのエラと馬のくちばし) 見ることになります。皆それに依るということは全てそれに依っていることであり、それに依っていることが全てであると理解し、さらにそれを理解しないことでもあります (注18. 會取し不會取する)。

三昧六通由茲發現。知るべきで、諸の三昧が起こったりその感覚がやって来るのは (發現來現)、同じように皆佛性に依るものです。六通の感覚がすべてここに依るか依らないかは (由茲不由茲)、ともに皆佛性に依るものです (注19)。六神通はたんに阿含教 (阿笈摩教) にいふ六神通のような神通力ではありません (注20)。六という数は、文殊菩薩の前三三後三三のようなもので六神通波羅蜜と言います(注20)。そうであれば、六神通は無数の草の葉がそれぞれに分かれて目の前にあるのと同じく、お釈迦様の話す仏の存在も同様に明らかである (明明百草頭、明明佛祖意) などと理解してはいけませんが (參究することなかれ)、べつに六通にこだわってしまったとしても (滯累せしむ)、佛性海にすべての川が流れ込むことを妨げるものではありません (注21.朝宗に罫礙する)。

(注17) ロバのエラと馬のくちばしはじっさいにはありえない組み合わせ、現実世界には存在しない抽象概念を想像するためのひとつの比喩表現で、固定観念を壊すために使うようです。 (注18) 仏性を理解することは、なにも理解できない感覚世界に行くことでもあります。(注19) 六通は五感プラス意識や記憶、仏性はその六通のさらにうらがわにいます。 (注20) 神通力はいわゆる超能力で、神足通、天耳通、天眼通、他心通、漏尽通、宿命通なるものが分類されていますが、ここでは仏とは関係ない話として扱われています。 前三三後三三は、碧巌禄三十五則で文殊菩薩が答えた説法を聞く聴衆の数、直前と直後の六通意識にはさまれた 「その間にあるもの」 が説法してる本体です。(注21) 仏性海はこころの海のように感情や記憶のある場所ではなく、認識することの本質、または認識の海とでも表現すればよいかも。


五祖大滿禪師、キ (草かんむり + 単 + 斤) 州黄梅人也。無父而生、童兒得道、乃栽松道者也。初在州西山栽松、遇四出遊。告道者、吾欲傳法與汝、汝已年邁、若待汝再來、吾尚遲汝。

五祖大満禅師は、キ州黄梅の人であり、父のいない子として生れ、童児であったころにすでに仏道のなにかを知っていて、すなわち栽松道者という人 (の生まれ変わり) だったようです。初めはキ州の西山というところに住んでいて松を育てていたところ、四祖禅師の旅の途中に出会います (出遊に遇ふ)。四祖が栽松道者に告げるには、わたしはあなたに法を伝えたいと (傳法) 思うけれど、あなたはすでに年を取り過ぎているので (年邁)、もしあなたがふたたびこの世に生まれ変わってくるときを待つことができれば (再來を待たば)、私はなおあなたに法をつたえるときを遅らせましょう (汝を遲つべし)。

師諾。遂往周氏家女托生。因抛濁港中。神物護持、七日不損、因收養矣。至七歳爲童兒、於黄梅路上逢四大醫禪師。

師はこれを承諾し、遂に周という名前の家の女に託されてその子供として生まれます (托生す)。(当時のしきたりとして) 小さな入り江の中に投げこんでみると (濁港の中に抛つ)<、神仏のご加護があったようで (神物護持して) 七日間の間無事でした (損せず)、そんなわけでこの家で育てられ、七歳の童児になったある日、黄梅路上でまたまた四祖大医禅師に出逢うことになります。

祖見師、雖是小兒、骨相奇秀、異乎常童。

四祖が師を見て言うには、これは小児といえども、骨相が変わっていて優れており (奇秀)、ふつうの子供ではなさそうだ (常の童に異なり)。)

祖見問曰、汝何姓。
師答曰、姓即有、不是常姓。
祖曰、是何姓。
師答曰、是佛性。
祖曰、汝無佛性。
師答曰、佛性空故、所以言無。

四祖 「おまえは、なんという名前かな? 」
師は答える 「名前はありますが、それはふつうの名前ではありません」
四祖 「それはなんという名前かな? 」
師は答える 「それは仏性と言います」
四祖 「おまえに仏性はないと思うが? 」
師は答える 「仏性は空っぽであるから、そのために無とも言われます」

識其法器、俾爲侍者、後付正法眼藏。居黄梅東山、大振玄風。

四祖はその子供が仏法を理解する資質を持っていることを知り (其の法器なるを識つて)、自分の侍者としてそばにおき、後にその教えの真髄を伝えます (正法眼藏を付す)。その後黄梅にある東山に居を構え、大いに禅の教えを盛んにしました (玄風を振ふ)。

そうであればすなわち、師 (五祖) の理解をあれこれと想像すれば (道取を參究するに)、四祖がいう、おまえの名前は? (汝何性)、というぶぶんが大事であり (宗旨)。むかしは何という名前の国に住む (何國人) 人なのか、なんという名字の名前を名乗るのか (何姓の姓あり) などという聞き方もあって、あなたはほんとうはどんな名前なのですか? という趣旨になります (爲するなり)。たとへば吾は亦是の如し、だとか汝は亦是の如しと理解するようなものです。(注22)

(注22) 何 (どんな) の一文字は、 「仏とはどんなものか? 」 という質問とイコールのようで、例にある、どの国、どんな名前、は常識レベルで答るわけではなく、無や空がどんなものかを説明できればよく、如是と同じ意味で定番の質問みたいですね。

五祖いはく、姓即有、不是常姓。

五祖が言いたいのは、有ることが即座に名前となるのは一般的な姓名のことでなく、常姓は有ることすなわち (即有) と同じものではありません(注23)。

四祖が言う是何姓は、何は常に是 (無やほとけ) を意味し、そのほとけを表す是がどうやって来たのか (何しきたれり) という問いで、それが是というものの名前を問うことの意味です (これ姓なり)。何だかわからないのは是の性質によるもので、是を理解するのは (是ならしむるは) 何という表現の効能でもあります。そのものの名前は是であり (姓は是也)、何だかわからない状態 (何也) でもあります。これをよもぎ湯に入れ (蒿湯にも點ず)、茶の湯にも入れ (點ず)、日常食べる茶漬け飯のようにありふれたものと考えると良いでしょう (家常の茶飯ともするなり)。(注24)

(注23) 仏性は悉く有るものだから、有るという性質がその名前となる。(注24) 仏性は達磨のいう不職の状態になったときの、なにもわからない意識があらわすいろいろなものを総称しているようで、「是」という表現は不職や無や空と同じものになるようです。

五祖いはく、是佛性。

五祖の言う意図は (宗旨)、「是」というのは仏性と同じものであるということ。わからない状態 (何) のゆえに仏を表現することができ、是はどんな名前か? と聞かれたときに現れるもので (何姓のみに究取しきたらんや)、是がすでに是とは言わないとき (不是) 仏性が現れています。そうであればすなわち「是」とは 「どんな? 」 という質問でもあり (注25.何なり)、仏であるとも言えるけれど、それは意識の中に身体やこころがなくなった時にやって来て (脱落しきたり)、あらゆるものの向こう側まで透かして見ることができれば (透脱しきたるに)、かならずその名前に行き着くことになります (姓なり)。その姓はとりあえずは (すなはち) 親の周という名前であるけれど、父の名を受け継いだわけでなく、祖先からもうけつがず、母方にも似ていない (母氏に相似ならず)、ちょっと肩を並べて横目でのぞき見ている感じでしょうか (注26. 傍觀に齊肩ならんや)。

(注25) どんな? と聞いたときのなにも頭に浮かばない状態が「是」。(注26) 仏性は感覚としての側面もあるので、論理ではなく比喩としてそれを表現しようとしています。

四祖いはく、汝無佛性。

いはゆるその意図は (道取)、汝は特定の誰かということではなくて、とりあえず目の前のお前に問いかけるけれど (汝に一任すれども)、仏性はそもそも無である (無佛性) という意味なのです (開演するなり)。

知るべきであり、学ぶべきであり、いまはいかなるこころの状態であって (時節にして) 無佛性となるのか。仏と同じ考えにいたれば (佛頭にして) 無佛性なのか、もっと仏を深く理解できれば (佛向上にして) 無佛性なのか。七つの感覚を内に閉じ込める必要はないけれど (七通を逼塞することなかれ)、逆に八方から入ってくる情報にこころをとらわれてはいけません (八達を摸することなかれ)。無佛性は一瞬だけあたまがぼんやりとした状態 (一時の三昧) として身につける (修する) こともあり、佛性はほとけが何かわかったとき (成佛) 無佛性となるのか、佛性がなにかと関心を持ったときに (發心) 無佛性となるのかと、あれこれ自問すべきであり (問取)、理解を深めるべきです (道取)。露柱の立つ季節まで自問すればよいし、その露柱にもあれこれ質問すればよく、さらには仏性そのものにもいろいろと聞いてみてください (佛性をしても問取せしむべし)。

そうであればすなわち、無佛性の教えは (道)、時をはるかに超えて四祖大医禅師の方丈 (祖室) より聞こえてくるものです。それは五祖につたわり (黄梅に見聞し)、趙州和尚の話によって広く知られることになり (流通し)、為山和尚によって解説されます (大為に擧揚す)。無佛性のおしえは、かならずやよく見極めなくてはいけない問題で (精進すべし)、おろそかにはしないでください。無佛性そのものは後を辿ることがむずかしい (たどりぬべし) とはいへ、どんな? という基本の言葉があり (何なる標準あり)、おまえという意識の起こる場所もあり (汝なる時節あり)、きっかけとなる是という抽象的な表現もあり (是なる投機あり)、周というそのものの仮の名もあり (同生あり)、それらを使って直接感じ取ることができるのです (直趣なり)。

五祖いはく、佛性空故、所以言無。

五祖ははっきりとわかっているようで (あきらかに道取す)、空は無とはちがう言葉です。佛性が空という性質を持つことを理解するのに (道取するに)、半斤とはいはず、八両ともいはず (注27)、無という言葉を使います (言取するなり)。空という性質を理解すれば (空なるゆゑに)空という言葉にはならず、無の性質を理解したときも (無なるゆゑに) 無という言葉を使いません、仏性が空の性質を持つために (佛性空なるゆゑ) あえて無と呼ぶのです。(注28)

そうであれば、意識の中にある無の断片は空を理解するためのしるしとなり (道取する標榜なり)、空は無を理解するための技術といったものです (道取する力量なり)。よく言われている空は (いはゆるの空は)、色即是空の意味する空ではなく、色即是空というのは、現象世界が変化して (色を強爲して) 空になるわけでなく、空が無数に分裂して現象世界を作り出すわけでもありません (わかちて色を作家せるにあらず)。空がそのまま変化しない空のことで (空即是空の空なるべし)。空即是空の空というものは、うら表のない一体の世界をあらわしています (空裏一片石なり)。そんなことですなはち、佛性が無であり、佛性が空であり、佛性は有る、などと四祖と五祖は問答のやりとりしているようです (問取道取す) (注29)。

(注27) 半斤と八両はともに目方の単位で、半斤 = 八両 = 300g、同じ内容だけどちがった言葉を使う例。(注28) 空をあらわすのに空という言葉を使うと、意識がそこで固定されてしまうので、かわりに無という別の言葉を使えば、意識を対象物から分断できるという、意識コントロールのテクニックです。(注29) こころが世界を作り出す、という色即是空の解釈は間違いだそうで、空はつねに一体世界の感覚として存在しているという意味。


震旦第六曹谿山大鑑禪師が (注30)、そのむかし (そのかみ) 黄梅山にいる五祖のもとで修行をはじめたころの話 (參ぜしはじめ)、

(注30) 六祖慧能、当時かなり禅僧も多かった黄梅山の五祖弘忍のもとに伝手を頼ってその修行に入ります。

五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。
六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。
六祖いはく、作佛をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無佛性、いかにしてか作佛せん。

五祖 「おまえはどこから来たのか? 」
六祖 「嶺南からきました」
五 「わざわざやって来てなにを求めているのか? 」
六 「ほとけを現したいのです」
五 「嶺南から来たものは無仏性である、どうやってほとけを現すのか? 」

この嶺南人無佛性と言っている意味は、嶺南人には佛性が無いということではなく、逆に嶺南人には佛性が有るという意味でもなく、嶺南人は 「無佛性」 というものであるという意味です。どんなようにほとけを現すかは (いかにしてか作佛せんといふは)、どんなほとけを期待しているのか? という意味でもあります (いかなる作佛をか期するといふなり)。(注31)

(注31) 無佛性は、ひとかたまりで三文字の熟語だそうで、作佛は、これもまた 「ほとけとはどんなものか? 」 という質問に通じています。

おおざっぱに見ても (おほよそ) 佛性の道理を明らかにした先人はすくなく (先達)。阿含教や経典解釈の学者といった人々 (諸の阿笈摩教および經論師) にはわかりずらいようです (しるべきにあらず)。これはお釈迦さまの弟子にのみ (佛祖の兒孫のみ) こころの中でだけ伝わっているもので (單傳)、佛性の道理は、佛性は成佛より先に身につく (具足せる) ものではなく、成佛したそのあとに身につくものです。佛性はかならず成佛と同時にやって来るものであり (同參)。この道理はよくよく考えつくし工夫しなくてはいけませんし (參究功夫)、二十年三十年とやってみると良いでしょう (功夫參學すべし)。十人の聖人や三人の賢者が明らかにするようなものでもなく (注32)。衆生有佛性、衆生無佛性と理解する (道取する)、この道理のことなのです (注33)。

成仏して初めて身につく教えであると (成佛以來に具足する法なりと) そのように考えて学ぶことはまさに的を得ています (參學する正的なり)。このように学ばないのは、仏法でないと言ってもよいでしょうし、このように学ばないのであれば、仏法があへて今日にまで伝わることもなかったでしょう。もしこの道理を明らかにできないのなら (あきらめざるには)、成仏がなにかを明らかにすることもできず (あきらめず)、それがなにかを見聞きしていないことになります。こうしたわけで、五祖はなおわかりづらい教えを解説するために (他道するに)、嶺南人無佛性という表現を使うのです (爲道するなり)。

ほとけを見てその教えを聞く始めに (見佛聞法の最初に)、聞くのも理解するのもむずかしいのが (難得難聞なるは)、この衆生無佛性という言葉の意味です。あるいは知識により、あるいは経文により (或從知識、或從經卷するに)、それを聞いて喜んでいるのは衆生無佛性というものなのです (注34)。一切衆生無佛性というものを、見たり聞いたり知識として認識したことがないというのは (見聞覺知に參せざる)、仏性がいまだ認識されないものだからです (いまだ見聞覺知せざるなり) (注35)。六祖がひたすらほとけをあらわそうと願うのに (もはら作佛をもとむるに)、五祖が上手に六祖を導いて作仏させようとすれば、これ以外の理解はなく (他の道取なし)、もっとよくてうまいやり方もないのです (善巧なし)。ただ嶺南人無佛性という言葉があるだけです。知るべきで、無佛性という言葉を聞いて理解することが (道取聞取)、ほとけを明らかにする近道なのだということを (作佛の直道なりといふことを)。そうであれば、無佛性というものが理解されるまさにそんなような時 (正當恁麼時) それがすなはちほとけを現出させることなのです (作佛なり)。無佛性をいまだ見聞きせず、理解もしないのは (道取せざる)、いまだほとけが現れていないということです (作佛せざるなり)。

(注32) 中国儒教の書物に定義されているようなあたまのリクツで理解する文章ではなく、感覚を選り分けながら探す感性の領域に属しています。(注33) 有佛性と無佛性は、ともにひとかたまりの三文字熟語で、反語ではなくまったく同じ意味を示す同義語のようです。(注34) 知識や感覚のうらがわにいる認識する主体としての、一切衆生無佛性。(注35) 仏性は五感六通による認識のおよばない、感覚や感性の領域に存在します。

六祖いはく、人には南北が有るけれど、佛性に南北はありません。

この言い方に注意をして (道取を擧して)、その言葉の本質をあれこれ考えてください (句裏を功夫すべし)。南北の言葉は、まさに赤ん坊の心を思い出しているようです (注36.赤心に照顧すべし)。六祖が道を得たこの言葉に意味があり (句に宗旨あり)。いはゆる人はほとけを体現できるけれど (作佛すとも)、佛性はほとけをあらわすことがない (作佛すべからず) というもうひとつの真理もあり (一隅の搆得あり)。六祖はこれを知っていてそう言ったのでしょうか。

(注36) 一般に言う赤心ではなく、赤ん坊の意識状態のこと、禅でよく引用されるのは他に臨終の人の気分として、末後の句という表現があります。

四祖五祖が示した無仏性を得るやり方は (道取する無佛性の道得)、はるか昔に、仏性がそれ自身ではほとけをあらわすことがないという問題に対して (旦+寸礙の力量ある一隅をうけて)、迦葉やお釈迦さまのようなほとけを理解する人たちは (迦葉佛および釋迦牟尼佛等の諸佛は)、ほとけを現出させそれを伝えるために (作佛し轉法するに)、仏性にはことごとく有る、という特性があることに目をつけました (悉有佛性と道取する力量あるなり)。ことごとく有るという意味の有は (悉有の有)、どうして無を並べるような人たちに受け継がれなかったのでしょうか (なんぞ無無の無に嗣法せざらん)。そうであれば、無佛性の言葉ははるかに時をさかのぼって四祖五祖の方丈 (祖室) より聞こえてくるものです。

このとき、(もしあなたが) 六祖その人ならば、この無佛性の語をあれこれと功夫すべきであり、有る無しという意味での無はしばらく置いておき、どんなものであろうかこの仏性は? と自問すべきで (問取すべし)、なにものなのかこの仏性は? と探してみてください。いまの世の中の人たちも、仏性と聞けば、どんなものかこの仏性は? と疑問を持つことをせず (問取せず)、仏性が有るのか無いのか等の意味 (義) を言っているようで、これは早とちりというものです (倉卒なり)。そうであれば、無を並べたがる人たちは (無の無は)、無佛性の無にその意味をまなぶべきでしょう。

六祖の理解する (道取する) 人有南北、佛性無南北の教えは (道)、(自分の意識の中を) 時間をかけてなんどもかき集めて漉しとるように探すべきで (ひさしく再三撈、手へんに鹿)、まさに魚を取る漁師のような腕前が必要になるでしょう (注37.撈波子に力量あるべきなり)。六祖の理解する (道取) 人有南北佛性無南北の教えは (道)、こころを静め、ちょっとつきはなしながらあらゆる角度から考えてみてください (しづかに拈放すべし)。あまり深く考えない人たちはこう思っていて (おろかなるやからおもはくは)、人間には現実のさまたげが多々あるので (質礙すれば) 南北があるけれど、佛性は自由自在なので (融にして) 南北を意識しないのだと (注38.論におよばずと)、六祖は理解しているのだろうか? と推理するのは (道取せりけるかと推度するは)、意味もわからなければ、頭も悪いし知識もないようなものです (無分の愚蒙なるべし)。こんなまちがった考えはすぐに捨てて (邪解を抛却)、すぐにこの教えを学ぶことに取り組んでください (直須勤學)。

(注37) 老婆子と漁撈にかかっていて、こころの中に網を放ってその仏性なるものをすくいとる老獪な名人、そんなイメージでしょうか。(注38) 自由と自由でないにかかわらず南北は存在してなくて、さらには自由と自由でないの区別も存在しない、抽象概念というよりはそんな場所が意識の中にじっさいに存在するようですね。

六祖示門人行昌云、無常者即佛性也、有常者即善惡一切諸法分別心也。

六祖が門人である行昌に示して言うには、常なるものがないという世界はそこが仏性であり、常なるものが有るならばそこには善悪やすべての現実世界や分別心といったものが存在します。

いはゆる六祖が説法する (道の) 無常は、バラモン外道や師匠につかず一人で修行するひとびとにはわかりずらいもののようで (外道二乘等の測度にあらず)、二乗外道といったひとたちに理解され伝わっているものは (鼻祖鼻末)、それが無常という同じ言葉であっても、かれらが行き着くところまで極めたものではないようです (窮盡すべからざるなり)。そんな事情ですが、無常がみずから常でない有り方を説法し (説著) 常ならない行をおこない (行著)、常ならないものを明らかにするのは (證著)、みなこれ無常のはたらきです (注39)、いま、自分の目の前に現れるものを見てほとけの世界に入るものは、すなわち自分の前にほとけをあらわし、即座に自分自身にほとけがあらわれ、しかも説法を始めていることになり(注40.今以現自身得度者、即現自身而爲説法) このことを仏性といいます。さらにはそれが、あるときは長い時間法身があらわれ (或現長法身)、あるときはその時間が短いときもあり (或現短法身) そんなようなあり方をします。永遠に聖なるもの (常聖) はじつは無常であり、永遠に凡であっても (常凡) またこれも無常となります、凡や聖が永遠にあるものと考えると (常凡聖ならんは)、それは仏性とはなれてしまうのです (注41.佛性なるべからず)。それは考えの浅いまちがった意見で (小量の愚見なるべし)、型にはまった考えだとも言えます (測度の管見なるべし)。ほとけは少しだけの身体を持ち (注42.佛者小量身也)、その性質は少しだけ姿をあらわすのです (注42.性者小量作也)。こうしたわけで六祖はこう説明します (道取)、無常を理解することがそのまま仏性をあらわすのであると (注43.無常者佛性也)。

(注39) 無常というものが世界を現し、それを動かし、変化するさまを演出している、時間とともに変化する意識のことでしょうか? (注40) 「現自身」は、自分のいる場所にほとけがあらわれ、それを見ている状態が仏性となる。(注41) 変化するかしないかについて、仏性はそれに囚われない場所にいる。(注42) 仏性は、すこしだけ人の意識を利用し、すこしだけ現実世界に姿をあらわします。(注43) この場合の無常はなにかに囚われていないことを意味するようで、認識が途切れたときに仏性があらわれるという意味。

常なるものというのは転じないものであり (常者未轉なり)。転じないというのは (未轉)、たとえそれが意識して出てきても (注44.能斷と變ずとも)、たとへそれがある場所であったとしても (注44.所斷と化すれども)、かならずしもそれが行き来した痕跡を残さないので (注45.去來の蹤跡にかかはれず)、そのために常なるものなのです。

(注44) 能斷・所斷は、認識を意図的に切る・認識が途切れた場所がある、とすればよいかも。(注45) 時間の前後を行き来しない。

そうであれば、草木や禅宗の寺に見かけるような (草木叢林) 無常というものは、これがすなはち仏性であり。人や物や身や心の無常なる様子は、これも仏性と言います。国土山河の無常なる様子も (注46)、これも仏性があらわすものです。さとりと呼ばれるものも (阿耨多羅三藐三菩提) 仏性でありそのために無常でもあります、智慧や浄土のような概念も (大般涅槃) 結局は無常であり、そのために仏性となるのです (注47)。もろもろのひとりで修行する人たちのせまい解釈や (二乘の小見) 経典注釈を信奉する学者の人々は (經論師の三藏等)、この六祖の道をもっと驚き疑い怖れ畏むべきで、もし驚き疑わないようでは、それは仏教ではない魔物や外道の教えといったたぐいでしょう (魔外の類なり)。

(注46) このページの仏性海にある、 山河大地皆依建立、のこと、認識することが世界を存在させるという意味で、その根源の認識とはどんなものか? という質問でもあります。(注47) 無常を見ることが仏性となる例のいろいろ、なにかを意識して囚われた瞬間に無常ではなくなります。

第十四龍樹尊者、梵云那伽閼刺樹那。唐云龍樹亦龍勝、亦云龍猛。西天竺國人也。至南天竺國。彼國之人、多信業。尊者爲妙法。聞者逓相謂曰、人有業、世間第一。徒言佛性、誰能覩之。

お釈迦さまから数えて第十四番目の祖師となる龍樹尊者は、インドでは 那伽閼刺樹那 (ナーガルジュナ) といわれ、中国においては (唐には) 龍樹または龍勝と言い、また龍猛とも呼ばれています。はじめは西インドの人であり、その後インド南の地方にやってきます。その国の人たちは、多くが幸せを実現するための生活法というものを (福業) 信じていて、龍樹は (尊者)、この人たちのために現実とはすこし離れた不思議な説法をします。これを聞く者が人づてに広まって (逓相に謂つて) そして言うには、人が幸せを求めるためには世の中のことが第一です。いたづらに仏性などといっても、だれかそれを見たものがいるのでしょうか?

尊者曰、汝欲見佛性、先須除我慢。

あなたが仏性を見たいと思うのであれば、まずまっさきに自分という思いを取り除かなくてはいけません。(注50)

それらの人は言う (彼人曰) 「仏性は大きいのだろうか、それとも小さいのだろうか (大耶小耶) 」
龍樹はいう 「仏性は大きくなく小さくもなく (非大非小)、広くもなく狭くもなく (非廣非狹)、幸せもないしそれに見合う報酬もなく (無福無報)、死や生といったものすらないのです (不死不生)。

その場にいた人々は龍樹の話が優れていてもっともだと思い、ことごとくいままでの考えを改めてしまいます (彼聞理勝、悉廻初心)。

龍樹はまたこのときのその座っている姿が、なにものにも囚われていない自由な様子で (尊者復於座上現自在身)、それは満月の輪のようでもありますが、この場所にいたすべての聴衆は (一切衆會)、ただその龍樹の説法を聞くのみで (唯聞法音)、龍樹の様子をみてはいません (不覩師相)。

集まった聴衆のなかに (於彼衆中)、お金持ちの息子である迦那提婆というものがいて、そこにいた人たちに質問します (有長者子迦那提婆、謂衆會曰) 「龍樹尊者の様子を見ましたか? (識此相否)。」

その人たちが言うには (衆會曰) 「それについていま我らは (而今我等)、目は見ていないし (目所未見)、耳は聞いていないし (耳無所聞)、こころはなにも意識しないし (心無所識)、からだはどこにも存在しない (身無所住)。」と答えます (注51)

提婆がいう 「この龍樹尊者がいま見せているものは (此是尊者)、仏性というものの様子をあらわして、それをもって我らに示しているのです (現佛性相、以示我等)。なにをもってこれを知るのかといえば (何以知之)、それは形のない仏性の世界に浸っている様子はその外側に満月のように静かな形であらわれるからです (蓋以無相三昧形如滿月)。仏性の意味は (佛性之義) なにもこころにわだかまりがなく、実態のない光が明るく輝いているようなものです (廓然虚明)。(注52)

(注50) 我慢の原意は、自分という思いに強くとらわれること。(注51) 龍樹の説法を受け売りしているだけで、肝心の本人の様子を観察している人はいないようです。(注52) この項目は龍樹が自分でほとけが見える意識状態を保ち、そのときの外見でほとけがどんなものか伝えようとしています。このとき空気が読めて龍樹の外見の様子からほとけを読み取ったのは迦那提婆だけであるという話。

提婆がいい終わると龍樹の満月相がすぐに消えて (言訖輪相即隱)、龍樹はまた座りなおして偈を説いて言います (復居本座、而説偈言)、

身現圓月相、
以表諸佛體、
説法無其形、
用辯非聲色。

からだ全体に満月の形をあらわし
これをもってもろもろのほとけの身体を表現する
ほとけの説法そのものには形が無いので
現実の説法もふだんの言葉とはまた意味がちがうのです

知るべきで、ほとけの説法はふだん使う言葉の意味どおりではなく (眞箇の用辯は聲色の即現にあらず)、ほとけの説法はその形すらありません (眞箇の説法は無其形なり)。龍樹尊者は円月相を使いかつて広い範囲の仏性を説法しましたが、それは数え切れないほどの広大な量を含んでいるので (不可數量なり)、いまはとりあえずそのいちぶぶんだけを簡単に説明します (一隅を略擧するなり)。

汝欲見佛性、先須除我慢。

この説法の意図する教えは (爲説の宗旨)、おろそかにせず注目すべきです (すごさず辨肯すべし)。見るという言葉はじっさいにできないわけではなく (なきにあらず)、その仏性を見ることはこれは自分という思いに囚われないことであり (除我慢なり)、我が示すものもひとつではなく (注53)、その囚われる対象もいろいろです (注53.慢も多般なり)、その対象に囚われない方法もまたいろいろです (注54.除法また萬差なるべし)。そうであっても、これらはみな仏性を見ることであり (見佛性なり)。迦那提婆のように目で見てその感じをつかむやり方を見習うべきでしょう (注55.眼見目覩にならふべし)。

仏性が大きくも小さくもないという意味は (佛性非大非小等の道取)、世の常の一般の庶民やひとりで修行する人たちにはなかなか身につかないようで (凡夫二乘に例著することなかれ)、決まりきった (偏枯に) 仏性は広大無辺なものと思いがちで (注56.佛性は廣大ならん) 、こういう間違った考えを持ちたがるようです (邪念をたくはへきたるなり)。大ではなく小でもないまさにそんなようなときを理解するのが (正當恁麼時の道取) むずかしい理由は (けい礙せられん道理)、いまわたしが説明したように考えてください (聽取するがごとく思量すべきなり)。考えることによってその説明の意味もわかるということです (思量なる聽取を使得するがゆゑに)。

(注53) 我以外にも、うれしい・楽しい・しあわせ・気持ちいい・おいしい・美しい・きたない・・・などの感覚や、記憶が作り出す無数のイメージなどがあります。(注54) このページでも五祖が言う、何?、是、や六祖のいう無常を見るやりかたなどが紹介されています。(注55) 空気を読む、とか雰囲気をつかむ。(注56) 神秘的なものというよりは、実践的なメンタル・トレーニングの要素が強いです。

しばらくはこの龍樹尊者の説法する四行詩文を鑑賞してみるとよいでしょう (道著する偈を聞取すべし)、いはゆる身に円月相をあらわすことは (身現圓月相)、それをもってほとけの本体をあらわしていることになります (以表諸佛體なり)。すでにほとけの身体を表現することをもって自分自身にそれをあらわして見せているわけで、(諸佛體を以表しきたれる身現なるがゆゑに) この状態に円月相という名前がついています (圓月相なり)。そうであれば、仏性に長短があるのかとか、四角や丸があるのかとかその他一切のもろもろの疑問は (一切の長短方圓)、この龍樹の身体にあらわされたものに学ぶべきです (身現に學習すべし)。この身体とそこにあらわれたものの関係に興味を持たないことは (注57.身と現とに轉疎なるは)、円月相が理解できないだけではなく (圓月相にくらきのみにあらず)、あなたにほとけの本体があらわれていないことにもなります (諸佛體にあらざるなり)。

(注57)  ビミョーな感覚に興味を持たない人は、あまり仏教向きではないかもしれません。

よくわかっていない人はこう思うようで (愚者おもはく)、龍樹尊者がかりにほとけの神通力を利用して摩訶不思議なありさまを現じてみせることを (化身を現ぜるを) 円月相と呼ぶのだ、とカン違いするのは (圓月相といふとおもふは)、仏道がうまく受け継がれていないそんな一群の人たちのあやまった考えです (佛道を相承せざる黨類の邪念なり)。どんな場所でもどんな時でも (いづれのところのいづれのときか)、自分のからだのほかにそれがあらわれることはありません (非身の他現ならん)。まさにしるべきで、このとき龍樹尊者は自分の座にすわっていただけなのです (高座せるのみなり)。身にあらわれたことの意味は (身現の儀は)、いまの世のほとんどの人が (たれ人も) ただ座っているのと同じ有様でそれがあらわれたということです (注58.坐せるがごとくありしなり)。

(注58) 仏性やほとけを見ている意識状態の人は、ふつうの俗人の目から見ればただ座っているだけですが、これを迦那提婆のようなある程度の心得がある人が見ると、「いま、ほとけの世界に入っていますね」 と読み取れて、そのときに見えるおだやかな様子が仏像の背後にある光輪のように感じるらしいです。

いまあるこの身体に (この身)、ここに円月相があらわれるのであり (圓月相現)。そのからだにあらわれたものは (身現) 四角とまるの区別がなく (方圓にあらず)、有と無の区別もなく (有無にあらず)、隠れているわけでもはっきりとあらわれているわけでもなく (隱顯にあらず)、八万四千に細かくわかれたそのどのこころでもなく (八萬四千蘊にあらず)、ただからだにあらわれたものというだけです (身現なり)。これを円月相と言いますが (圓月相といふ)、この円月相の中で仏性なるものはどこにあるのかと言えば (這裏是甚麼處在)、こまかくここがと言うこともできるし、大ざっぱに全体がそうであるとも言える月なのです (注59.説細説、鹿が三つの字、月)。

(注59) 仏性はいろいろな特性を持つけれど、それ全体をひとかたまりのものとして感じとることもできます。

このからだにあらわすそのものは (身現は)、まずなにをおいても自分という思いを除くことですから (先須除我慢なるがゆゑに)、そのときは龍樹という人ではなく、無名のほとけの本体となります (諸佛體なり)。こんなやり方で表現するために (以表するがゆゑに) ほとけのからだの真実を見通すこともでき (諸佛體を透脱す)、そのために、ほとけという思いに囚われることもありません (注60.佛邊にかかはれず)。仏性が満月のかたちををまねて (滿月を形如) その仮の光をあらわしていても (注61.虚明ありとも)、だからといって実際の座ったすがたに意味がないわけではありません (注62.圓月相を排列するにあらず)。言ってみればいろんなかたちの説法も (用辯) それは日常の言葉やしぐさとは意味がちがい (聲色にあらず)、からだにあらわれるという意味も俗物な目で観察したふつうのからだとは違い (身現も色身にあらず)、こころが存在する世界にはいないのです (蘊處界にあらず)。ふだんのこころの有る世界と (蘊處界) 一見似ているとはいえそれがあらわれていることで (一似なりといへども以表なり)、ほとけのからだが表現されるのです (諸佛體)。これはこころがはたらく仕組みから抜け出すことであり (脱法蘊)、それ自体はかたちがありません (無其形)。そのかたちもなく (無其形) さらにはすべての固定されたものがない意識にひたっているとき (無相三昧) それがあらわれます (身現)。

(注60) 自分がいまほとけを見ていることを意識すると、ほとけがいなくなってしまう。(注61) 透明感のある空気のようなもの。(注62) 俗物的な目で観察してもそれなりに価値はある。

その場にいた聴衆は (一衆) いま龍樹のあらわす圓月相をはるかに見ていて (望見)、見ていても見えていない状態ですが (目所未見)、その状態がこころのはたらくしくみから抜け出るきっかけとなるのであり (注63.脱法蘊の轉機)、その龍樹のからだにほとけがあらわれる状態は (現自在身) ふつうの言葉や外見の様子とはすこしちがうものなのです (非聲色)。円月相が即座にかくれ即座にあらわれるのは (即隱、即現)、意識のなかで仏性が (輪相) 行きつ戻りつしているようです (注64.進歩退歩)。またその座において仏性を表現したからだがあらわれる (復於座上現自在身) まさにそんなとき (正當恁麼時)、そこに集まったすべての人々は (一切衆會)、ただ説法の言葉を聞いているだけで (唯聞法音)、師がほとけをあらわしてみせたその相を見ることも感じることもなかったようです (不覩師相)。

(注63) 意識して外見をみていればほとけはあらわれないし、その外見を見ていないぼんやりとした意識の状態になれば逆にほとけがあらわれます。(注64) 内面でほとけを見ていれば外面に円月相があらわれ、ほとけを見るのをやめて俗物世界の意識にもどれば外の円月相も消え去ります。

龍樹の法の後継者である (尊者の嫡嗣) 迦那提婆尊者ですが、あきらかに滿月相を理解し (識此)、圓月相を理解し (識此)、からだにあらわれる様子を理解し (身現を識此)、仏性を理解し (佛性を識此)、ほとけのからだを理解しています (諸佛體を識此)。龍樹の教えを聞きに来た聴衆の数が多いといえども (入室瀉の衆たとひおほしといへども)、提婆と比べられるほどの人はいません (齊肩ならざるべし)。提婆は龍樹の説法を半分解説している尊者であり (半座の尊なり)、ここに来た聴衆を導く力量のある師匠でもあり (衆會の導師なり)、龍樹の考えの一部はほぼ理解しているようです (全座の分座なり)。その教えの核心でもある法をまさに受け継いで (正法眼藏無上大法を正傳せること)、法華経にある霊鷲山の法会で、お釈迦さまの法を受け継いだ摩訶迦葉尊者にも匹敵する弟子筆頭の力量ある人でもあります (座元なりしがごとし)。

龍樹がまだ仏教に帰依する以前 (未廻心のさき)、バラモン外道の法を信奉していたときの弟子は多かったようですが、みなそのもとを離れてしまい (謝遣しきたれり)。龍樹がすでお釈迦さまの流れをくむ相承を受け継いだときは (佛祖となれりしときは)、ただひとりこの提婆を法を託す後継者として (附法の正嫡)、ほとけの法の核心を伝えました (大法眼藏を正傳す)。これがこの上ない仏道の (無上佛道) つたわりかたなのです (注單傳なり)。

そうであるのに、こそこそとうそをつく悪い考えのものたちは (僭僞の邪群)、自分勝手に自称して (ままに自稱すらく)、われらも龍樹大士のあとつぎであるといい (法嗣なり)、もっともらしい書物をつくり自分たちこそ正しいのだと主張しますが (論をつくり義をあつむる)、ほとんどは龍樹が残した言葉の受け売りのようで (おほく龍樹の手をかれり)、龍樹があらわした著作 (造) ではないようで、むかし龍樹が外道の教えとともに捨ててしまった弟子や信者たちが (すてられし群徒の)、庶民や世間を混乱させているのです (人天を惑亂するなり)。

仏弟子ならばひとすぢに、提婆の伝えるところでなければ (所傳にあらざらんは)、龍樹の教えではない (道にあらず) と知るべきでしょう。こうすれば正しい信仰を得ることができます (正信得及なり)。ところが、にせの書であると (僞なり) と知りながらそれをありがたがる (稟受) ものも多くて、ほとけの智慧をおとしめる人たちのおろかさは (謗大般若の衆生の愚蒙)、あはれみかなしむべきでしょう。(注65)

(注65) 昔もいまもおなじで、インチキな仏教教団がはばを利かせている、と道元さんは嘆いています。

迦那提婆尊者はたまたま見た、龍樹尊者のからだにあらわれたものを指して、その場にいた人々に告げていはく、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虚明。(注66.意味は注46あたりの訳文参照)

(注66) ほとけがあらわれると独特の透明な空気感や、なにかほっとするようなやすらぎ感といった、そんなあれこれがあらわれるようです。

いま天下にいるあらゆる人々や (天上人間)、無数に存在するほとけの世界に存在する (大千法界に流布せる) 仏法を見聞して時のながれの中にいる者たちは (前後の皮袋)、だれか理解したのでしょうか (道取せる)、からだにあらわれたその空気のようなものが仏性であることを (身現相は佛性なりと)。無数にある世界のなかでは (大千界には) ただ提婆尊者のみがこれを理解しているのです (注67.道取せるなり)。それ以外のものはただ (餘者はただ)、仏性は眼で見たり耳で聞いたり心で意識する等ではないとそこまでの理解で (道取するなり)、龍樹のからだにあらわれたものが仏性とは知らないので (身現は佛性なりとしらざるゆゑに) それを理解することもできません (道取せざるなり)。これは龍樹が教えを出し惜しみしているからではなく (祖師のをしむにあらざれども)、こころや感覚としての眼や耳がふさがれてそのために見聞きすることができないのです。意識がいまだ起こらないのなら (身識いまだおこらずして)、分別や認識することもできず (了別することあたはざるなり)、そんなこころに何も思わないとき (無相三昧) その外見の形が満月のようであるのを遠くから見て (望見) 礼拝することは、目で見るというよりは雰囲気を感じるようなものです (注68.目未所覩)。仏性は (佛性之義)、こだわりがなく虚空よりこの世を照らしている光なのです (廓然虚明なり)。

(注67) 道元さんもこの龍樹の身現を完ぺきに理解して、その解説をしているように思われます。(注68) 空気を読みなさい、ということに尽きるのでしょうか。

そうであればからだにあらわれ説法をする仏性は (身現の説佛性)、虚空からあらわれる精神の光であり (虚明)、なにものにも囚われることのない状態であり (廓然)。仏性がからだにあらわれ説法することは (説佛性の身現)、もろもろのほとけのからだが表現されているのです (以表諸佛體)。どこかのとくべつな一つ二つの仏様が (いづれの一佛二佛か)、このおもてにあらわれたものを (以表) をほとけのからだとしてあらわすわけでなく (佛體せざらん)、ほとけのからだというのは内にあるものがからだの表面にあらわれたものとすればよく (佛體は身現なり)、そのあらわれた感覚のようなものが (身現なる) 仏性と呼ばれます。世界とこころを構成するあらゆる要素 (注69.四大五蘊) と理解しそのとき出会うほとけや過去の師匠のあれこれも (道取し會取する佛量祖量も)、もとはからだにあらわれるものが作り出したもので (かへりて身現の造次なり)、すでにほとけのからだと名づけ (諸佛體といふ)、通常のこころの世界から見ると (蘊處界) こんな話になります(注70)。言われている一切の功徳というものは、この功徳のことで、ほとけのくどくはこのからだにあらわれたものを究めつくし (身現を究盡)、ひとかたまりにまとめたようなありかたです (注71.嚢括)。すべてを意識せず囚われることもない (一切無量無邊) その功徳の現実世界と行き来できるのは、この身現というものが作り出す効果なのです (一造次)。

(注69) 四大は地水火風、五蘊は色受想行識、この四文字で世界とこころのすべてをあらわします。(注70) 囚われないこころが作り出すもの。(注71) 現実的な成功をもたらす不思議なご利益や超能力などではなく、きずついたこころを修復する癒しや、ムダを省いた実践主義のような形であらわれ、問題解決に力を発揮するようです。

そうであるのに、龍樹と提婆の師弟 (師資) より後は、インド中国日本のいろんな場所と、あらゆる時代で (三國の諸方にある前代後代)、自分の信じるほとけを学ぶ人たちは (ままに佛學する人物)、いまだ龍樹と提婆のようには理解せず (道取せず)、どれほどの翻訳者や注釈師が (いくばくの經師論師等)、お釈迦さまの教えをかん違いしてしまったのでしょう (佛祖の道を蹉過する)。南宋でも (大宋國) むかしからこの教えのもとになるもの (因) を表現しようとするのに (畫せん)、からだに画き、こころに画き、空に画き、壁に画くことができず (身に畫し心に畫し、空に畫し、壁に畫することあたはず)、ただ筆を使った文章で表現するだけで (いたづらに筆頭に畫するに)、説法の座にしずかに座り (法座上に) 鏡のような円のかたちを見せることで (如鏡なる一輪相を圖して)、いま龍樹の身現円月相としています (注72)。

すでに数百年の霜の季節や華が開き落ちる時期をすごしていて、なんどもこれを見て目やに (人眼の金屑) もたまったでしょうに、この解釈がまちがいだと指摘する人はいません。なさけないことで (あはれむべし)、すべてがこのおかしなかん違い (萬事の蹉、足へんの蛇) なのはこんな状況です。もし身現円月相が一輪相なりと理解しているのならば (會取)、それこそほんとの餅を描いた絵が一枚ということです (眞箇の畫餠一枚)。バカにしているというか (弄他せん)、笑って笑いすぎて殺されてしまうところです (注73.笑也笑殺人)。かなしむべきというか、南宋の (大宋一國) 在家出家は、どの人を見ても (いづれの一箇も)、龍樹のことばを聞かず知らず、提婆の道を理解せず (通ぜず) 見ないのです。まして身現をわかっているなどとはとても言えず (親切ならんや)、円月をわからず (注74.くらし)、満月が欠けているようなものです (虧闕)。これは学びかたが足りないのであり (稽古のおろそか)、もとの意味にもっと注意をはらうべきであり (慕古いたらざる)。いにしえのほとけでもあたらしい仏でも (古佛新佛)、さらには目の前にあらわれたそれに出会い (眞箇の身現にあうて)、俗物理解としての描いた餅を味わってはいけません (注75.畫餠を賞翫することなかれ)。

(注72) 座にすわったカタチだけ龍樹を真似たとしても、中身がわかっていなくては駄目です。(注73) あまりにもでたらめな説法がまかり通っているので、道元さんも呆れてしまいます。(注74) よくわかってないの昧いと、月の光が暗いと、二つにかかっている。(注75) かたちではなくて、その場にほとけの空気のようなものが出てこなくてはいけません。

しるべきで、身現円月相の相をあらわすためには (畫せん)、その説法をするためにすわったすがたの上に (法座上) 身現相があらわれなくてはならず、まゆを上げまばたきするときもまっすぐに見なくてはだめで (揚眉瞬目それ端直)、だるまの教えのすべてを理解するには (皮肉骨髓正法眼藏)、かならず長い間座ってください (兀坐すべき)。迦葉尊者の破顔微笑の意味がつたわるはずで (注76)、それはほとけがあらわれお釈迦さまがあらわれることでもあります (作佛作祖)。このすわったすがたが (畫) いまだ月相にならないときは、そのようなかたちがあらわれず (形如なし)、ほとけの説法もなされず、説法の声も聞こえないし (聲色なし)、その空気のようなものもつたわりません (用辯なきなり)。もし身現をもとめるならば、円月相をあらわして座ればよく (圖すべし)。円月相を表現したい場合も (圖せば)、円月相をおもてにあらわして座ればよいでしょう (注77.圖すべし)、それは身現が円月相と同じものであるからです。円月相をかたちとしてあらわしたいならば (畫せんとき)、満月相として座ればよく (圖すべし)、それは満月のかたち (相) を現わすべきものです (注78)。

そんなことなのに、身現を画かず (畫せず)、円月を画かず (畫せず)、満月相を画かず (畫せず)、ほとけのからだを表現せず (佛體を圖せず)、そのものをおもてにあらわすこともせず (以表を體せず)、説法をあらわさず (圖せず)、いたづらに餅を画いた絵が一枚あるだけでは (畫餠一枚を圖す)、いったいなにを表現するつもりなのか? ということになり (用作什麼)、この論点にすぐに気ずき (急著眼看)、だれかこれを問題ない状態に修復する人というのはいないようです (直至如今飽不飢ならん)。月は円形で、円はそのほとけを見ている意識がからだにあらわれた状態なので (身現なり)、円をまなぶのに一枚錢の丸い形のようなものと学んではだめで、絵に描かれた一枚の餠のように形だけ真似しても駄目なのです (注79.相似することなかれ)。からだにあらわれるのは完ぺきな月であり (身相圓月身)、満月のような形でもあります (形如滿月形)。一枚錢や一枚餠のような理解をしている人は、円の意味をもっと習い学ぶべきでしょう。

(注76) 揚眉瞬目は眉毛をつりあげてまばたきすること、揚眉瞬目自体はまるで別の意味を持っているので、円月相とは関係ないように思われます。(注77) 円月相はかたちではなく、内面でほとけを見ている人の外見上の様子です。(注78) 満月相は座るときの具体的な姿勢や外見のかたちとして、円月相と区別しているようです。(注79) 絵に画いた餅は食べられないので、かたちだけ真似た円月相にもほとけの効力はありません。


わたくし道元は、修行であちこちを旅していたそのころ (雲遊のそのかみ)、南宋の国にまで行き (大宋國にいたる)、嘉定十六年癸未 (1223年) 秋のころ、はじめて阿育王山廣利禪寺というところを訪れました。西側の廊下の壁の間にインドから中国にいたる (西天東地) 三十三人の祖師さんたちが画かれているのが見えます (變相を畫せるをみる)。このときはあまりよくみなかったのですが (領覽なし)。のちに寶慶元年乙酉の年、ちょうど夏休みのころに (夏安居のなかに)、また訪れてみると、西蜀からきている成桂という接待役の和尚と (知客) 廊下を歩きながら、わたしはこの和尚に (知客) 聞いてみました。これはなにをあらわした画なのですか? (這箇是什麼變相)。

和尚は (知客) いはく、龍樹のからだに現れた円月相ですよ (身現圓月相)。このように説明する (道取) 顔色に特に意図はなく (鼻孔なし)、言葉にもそれ以上の含みはないようです (聲裏に語句なし)。 わたしが、まさにこれは一枚の絵に画いた餅のようですね (眞箇是一枚畫餠相似) と言うと、それを聞いて知客は、大笑いするけれど笑顔に他意はなく (笑裏無刀)、絵に画いた餅ということに反論する様子もべつにありません (破畫餠不得)。 そのまま和尚と (知客) とわたしと、舍利殿や六つのとくべつに眺めの良いところなどを (殊勝地等) 回っている間も、あれこれと話題をするけれど (數番擧揚すれども)、かくべつ疑問が出るわけでもないので (疑著するにもおよばず)、おのづから話かけた (下語する) 僧侶も、おほくはこのことに意見がないようです (注82.都不是なり)。

(注82) 南宋当時のじっさいの寺でもこんな様子だそうで、真理やほとけといったものに興味を持つよりも、職業や仕事としての仏教僧侶のほうが大事といった感じはつたわってきます。

わたしはこう言います、寺の住職に聞いてみたいのですが? (堂頭にとふてみん)。ときにその住職は (堂頭) 大光和尚というひとです。 知客が、格別意見はないと思うし (他無鼻孔)、答えもえられないでしょう (對不得)。どうしたら知ることができるのでしょう? (如何得知) などと言うので、そのために住職には (光老に) 聞きませんでした。こんなようなことですけども (恁麼道取すれども)、知客の成桂和尚 (桂兄) もそれを理解していないようだし (會すべからず)、そこで話しを聞いていたものたちも (聞説する皮袋も) わかってはいないようです (道取せるなし)。その前後に行きかった坊さんたちも (粥飯頭) これを見てどうということもなく (みるにあやしまず)、あらためて立ち止まってみることもないようで、これは、画くことができない法は、それを絵にあらわすことができないということです (畫することうべからざらん法はすべて畫せざるべし)。もし画くならその見た通りに画かなくてはなりません (畫すべくは端直に畫すべし)。そんなことですから、ほんものの身現の円月相なるものが、かつて絵に画かれたことはないようです (畫せるなきなり)。

おほよそ仏性というのは、いまある知識や思い込みにこだわることによって (慮知念覺ならんと見解することさめざるによりて)、有仏性の道にも、無仏性の道にも、行き着く手がかりを (通達の端) 失くしてしまうのです。それを理解しなさいと教えることもまれなようで 、しるべきは、この仏性に興味をもたないことは (疎怠) 感覚を使ってそれを知ることがないからであり (癈せる)。あちこちの住職や僧侶たちは (諸方の粥飯頭)、まったく仏性といふ教えを (道得)、一生口にしないで済ますものもいるようです。あるいはこう言います、仏典を読むだけの人たちが (聽教のともがら) 仏性を談じたり、參禪する雲水禅僧 (雲衲) は仏性について語らないものだ。こんなような連中は、まさに動物程度の考えしか持たず (眞箇是畜生なり)、なんという魔者の一党 (魔黨) なのでしょうか、われらのほとけや如來の道に紛れこんでそれを汚そうとしているようなもので、経典を聞くだけで仏道なのか (聽教といふことの佛道にあるか)、なにも語らず參禪するだけが仏道であるのか、いまだそれらの聽教參禪が、仏道にはありえないことと知るべきです (注83)。

(注83) 道元師匠はだいぶお怒りのようですが、そもそも仏性を語れなくては仏教ではないはずなのに、なにも語らない禅者、経典の受け売りだけの学者たち、仏性というものにまったく興味をもたない僧侶たち、そんなひとたちが仏教をおとしめるのだとおっしゃっているようです。


杭州鹽官縣齊安國師は、馬祖禅師門下の尊宿です。あるとき衆に示して言うには、

一切衆生有佛性。

いはゆる一切衆生の言葉は、すみやかにあれこれと考えてみてください (參究)。一切衆生の言い方は、それぞれの経緯や考えこころや環境が (業道依正) ひとつではなく、その状態も (見) まちまちで、ほとけに無関心な凡夫や仏教でない外道、修行のやりかたで三乘や五乘などなど、いろいろな人が (おのおのなる) います。

いま佛道にいふ一切衆生は、こころを持つもの (有心者) すべてを衆生とし、それは心のなかに (是衆生) 衆生を存在させる本質があり、こころを持たないもの (無心者)、 それもおなじく衆生と決めていて、衆生は心の本質 (是心) と同じものだからなのです (注84)。

(注84) 注20とおなじ、こころの本体である「是」がこころをあらわし衆生を存在させ、さらにはこころを持たないはずの草木や石ころにもこころの本体としてのそれがある、と定義するようです。

そうすると、心はみなこれが衆生となり、衆生はみなこれ有佛性です。草木國土はこれが心となり、心があらわれればそれは衆生となり、衆生があらわれるとき有佛性となります。日月星辰これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有佛性なり。斎安国師の理解する (道取) 有佛性とは、そのようなものです (注85)。

(注85) こころは衆生をあらわし、衆生があらわれた状態が有仏性である。この場合のこころは草木日月のように認識される側にも存在しています。

もしこのようでないならば、仏道にいわれている (道取) 有佛性ではありません。いま斎安国師の言う教えは (道取する宗旨)、一切衆生有佛性のみなり。さらに衆生でなければ、有佛性でもなくなるということになります。ちょっと国師に質問してみるべきでしょう、すべての仏が有佛性であるのかまたはそうでないのか (注86.一切諸佛有佛性也無)。このように聞いて (問取)、ためしてみるべきです (試驗)。一切衆生佛性といはず、一切衆生、有佛性といふと学ぶべきです (参學)。有佛性の有と言う字は、まさに脱落した状態を示していて、脱落は一本の鉄棒であり (一條鐵)、それは (一條鐵は) 鳥が飛ぶ軌跡のようなものです (注87.鳥道)。そうであれば、一切衆生有衆生とも言え (注88)、これその道理は、衆生のありかたを見透す (説透) のみにあらず、佛性のありかたをも見透す (説透) ものです。

(注86) 一切諸佛はほとけであるから仏性があるのはあたりまえ、とするのかまたは、一切諸佛に限らずありとあらゆるものが 「有仏性」であるとするのか、どちらを答えるかに興味があるようです。(注87) 真理につづく一本道のようなイメージ。(注88) すべての衆生のこころのなかから見ると、世界のすみずみにまで衆生が存在するという意味で、認識するこころが宇宙を満たしているとでも訳せばよいかと。

斎安国師がたとへ真理を理解しながら (會得) その理解を (道得) 受け継いでいなかったように見えても (承當せずとも)、その中身がないわけではなく (注89.承當の期なきにあらず)、いま説明されたものは (今日の道得)、むだに内容のない教えというわけでもないでしょう (いたづらに宗旨なきにあらず)。また自己にそなわった真理は (具する道理)、いまだかならずしもみづから会得していないけれど、世界とこころのあれこれである四大五蘊 (四大五陰) もあり、だるまの教えである皮肉骨髓もあり。そんなように真理の理解も (道取)、一生かけて理解 (道取) することもあり、理解 (道取) にかかわるいろいろな生きざま (生生) のようなものもあります。

(注89) またまた文句を言いかけて、やや軌道修正中のようです、道元さんもわりと怒りっぽいところがある人のようで面白いですね。


大為山大圓禪師(注90)、あるとき衆にしめしていはく、

一切衆生無佛性。(注91)

(注90) さんずいに為の字、為山霊祐。 弟子に仰山や香厳といった才気あふれる人たちがいたり、百丈和尚のもとで台所番をつとめたりしたようです。(注91) この場合は仏性がないというわけではなく、その本質が無であるという、ちょっとまわりくどい表現です。

これを聞いていた大衆や指導する立場のものの中に (人天のなかに)、面白がる風潮もあり (よろこぶ大機あり)、びっくりして疑問を呈すものもなくはありません (驚疑のたぐひなきにあらず)。お釈迦さまの説法は (釋尊説道) 一切衆生悉有佛性であり、大為の道は一切衆生無佛性なのです。有と無の言葉の理くつは、まるでちがったものなので (はるかにことなるべし)、大為は本当にわかっているのかと (道得の當不)、みんな疑っているようです。そうではあるけれども、一切衆生無佛性のほうが仏道を説明するのに優れているとも思え (長なり)。鹽官斉安国師が示した有佛性の教えは (道)、たとひ古佛とともに一隻の手をいだすににたりとも (注93)、なほこれ一本の杖に二人の人がすがっているようなものです (注94.一條柱杖兩人舁なるべし)。

(注93) 達磨大師の弟子である二祖慧可が、片手を切って差し出した話、この場合はやや一般レベルに話が落ちているという批判のようです。(注94) お釈迦さまのネタの使いまわしで新鮮さがない。

いま大為はそうでなく、一本の杖をふたりの人が両側から呑み込んでしまったようなもので (注95.一條柱杖呑兩人なるべし)。まして斉安國師は馬祖禅師の弟子であり、大為は馬祖の孫弟子にあたります。そうであるけれど、孫弟子は (法孫)、馬祖の教え (師翁の道) をよりよく理解し、馬祖の直弟子たちは (法子)、師匠の教えに (師父の道) やや理解が浅いようです (年少なり)。いま大為の語る教えの理解は (道の理致)、一切衆生無佛性をその答えとし (理致とせり)、いまだ家の敷地の外にある広大な場所だなどとは言わず (注96.曠然繩墨外)、それは家の屋根裏においてある経典であり (注97.自家屋裏の經典)、このように受け継いで理解するべきものです (受持あり)。

(注95) 一本の杖を真理にみたてて、それをお釈迦さまと大為が両側から飲み込んでいるイメージ、道元さんは大為がお釈迦さまと同じ理解であると言ってます。(注96) 自分の家の敷地の外側のことなのでよくわからないし、説明もできない。(注97) 真理をよく理解して、自分のものとしているから、屋根裏にある書物のようにいつでも解説できる。

さらに見習うべきで (摸すべし)、一切衆生はどんなわけで佛性にならないのか、佛性であるとしないのか、もし佛性があるとすれば、これは魔物の仲間ということで (魔黨なるべし)、魔物の描かれた絵を一枚持ってきて (魔子一枚を將來して)、それを一切衆生にかさねあわせようとしているのです。佛性これ佛性なれば、衆生これ衆生なり (注98)。衆生ははじめから (もとより) 仏性の意味を理解している (具足) わけでなく、たとへそれを理解しようと (具) もとめても、仏性ははじめてやってきたというわけでない教えです (注99.宗旨)。張公が酒を飲むと李公が酔ってしまう (注100.張公喫酒李公醉) といふことはなく、もし自然に仏性があるといえば、さらに衆生はなく。すでに衆生があると思えば、それは結局仏性ではなくなってしまいます (注101)。

(注98) これ、は無とおなじものなので、佛性無佛性、衆生無衆生としても意味は同じ。(注99) お釈迦さまが説いたからこの世にほとけがあらわれたわけでなく、お釈迦さまが説く以前からほとけは存在していて、それはまたすべての時代にいつでも存在しているものである。(注100) お釈迦さまがほとけを説けば、衆生も自動的にほとけの功徳にあずかれる、というたとえ話。(注101) 衆生も仏性も意識しないときに、仏性があらわれる。

こうしたわけで百丈禅師は言います (注102)、

説衆生有佛性、亦謗佛法僧。説衆生無佛性、亦謗佛法僧。

衆生に佛性が有ると説くことは佛法僧を批判することになり、衆生に佛性が無いと説くのもまた佛法僧を批判するものです。

そうであればすなわち、有佛性と言っても無佛性と言っても、ともに批判悪口 (謗) となり。ただし批判 (謗) となると言っても、それは理解していないということではありません (注103.道取せざるべきにはあらず)。

ここであなたに質問で (且問汝) 大為と百丈の話をしばらく聞いてみてください。批判の意味は (謗) すなはち説法するなといっているわけではなく、仏性は説明されたのか (説得) それともいまだ説かれていないのか。たとえば説明されていれば (説得せば)、その理解がさまたげられたのか (説著をけい礙せん)。説明されれば同時に聞いて理解もされるでしょう (説著あらば聞著と同參なるべし)。また百丈が大為に向かって言ったことは、一切衆生無佛性はたとへその真意を理解したとしても (道得)、一切佛性無衆生とはいはず、一切佛性無佛性といはず (注104)、まして一切諸佛無佛性はまだ夢を見ていない状態なのです (注105.夢也未見在)。ためしに考えてみてください (試擧看)。

(注102) 百丈懐海、馬祖禅師の弟子で、大為の師匠でも有り、炉の残り火で大為にさとりを教え、その後風水師の予言にしたがい、大為を為山に派遣して成功させます。(注103) 通常の仏法僧をうやまう意識が、仏性を知るさまたげになる。(注104) 佛性は無の特性を持つものだから、一切佛性無・・とすると無の表現が重複してしまう。(注105) 仏性は寝ていても夢を見ていないようなあいまいな意識の状態のなかにあり、そのとき一切諸佛も仏性が無であることを知るだろう、という皮肉表現になってます。

百丈山大智禪師示衆云、佛是最上乘、是上上智。是佛道立此人、是佛有佛性、是導師。是使得無所礙風、是無礙慧。於後能使得因果、福智自由。是作車運載因果。處於生不被生之所留、處於死不被死之所礙、處於五陰如門開。不被五陰礙、去住自由、出入無難。若能恁麼、不論階梯勝劣、乃至蟻子之身、但能恁麼、盡是淨妙國土、不可思議。

百丈山大智禅師が衆にしめしていわく、ほとけは是れ最も上質の乗り物であり、是れ上の上でもある智慧です。是れ仏道をこころざすのは此が人です、是れほとけは有仏性というものを備えていて、是れ人々を導く師でもあります。是れを使うのに場所はなく風を妨げることができます、是れは妨げられることのない智慧でもあります。これを知った後は能く因果を使いこなし、こころの福や智慧を得て自由になります。是れは車の役目をして因果を載せ運びます。生きている場所にいても生きていることに留められません、死の場所にいても死にさまたげられることもなく、人のこころのはたらきにあってその門を開け放したようなもので、そのこころにも妨げられず、その去来やとどまることは自由にして、こころの出入もかんたんであり。もしうまくたとえるならば、はしごの段階や勝劣などを議論することはなく、また蟻の子の身体であっても、もしうまく表現できれば、ことごとくこれは妙なる浄土になってしまい、不可思議なものです。

これがすなはち百丈の道のある場所であり (道處)。いはゆるこころは (五蘊)、いまの壊れることのない身体であり (注110.不壞身)。いまの作り出される効果は (造次) はこころの門を開くことであり、こころのはたらきにさまたげられることもなく (不被五陰礙)。生を使いこなすけれど (使得) 生にとどめられることはなく、死を使いこなすけれども (使得) 死に邪魔されず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。すでに仏性の在るところであり、こころを動かし (動著) それから離れてしまうことは (注111.厭却) 仏教でない教えのようなもので。目の前の (現前) あれこれについて思うことは (注112.衆縁と認ずる) それを使っていても風をさまたげることができません (使得無礙風)。これが最上な乗り物 (乘) としての是佛であり。この是佛の在るところが、すなはちふしぎな浄土 (注113.淨妙國土) というものなのです。

(注110) 世界をつらぬく認識の根源。(注111) こころが囚われるとそのものから離れてしまう。(注112) 目の前のものにとらわれてもいけません。(注113) 是、を意識することができればそこに浄土が出現する。


黄檗南泉在茶堂内坐。南泉問黄檗、定慧等學、明見佛性。此理如何。
黄檗云、十二時中不依倚一物始得。
南泉云く、莫便是長老見處麼。
黄檗曰く、不敢。
南泉云、漿水錢且致、草鞋錢什麼人還。
黄檗便休。

黄檗 (注115) が南泉 (注116) の茶堂のなかで座禅をしていると、南泉が黄檗に問います、定と智慧を等しく學べば、明らかに佛性を見る。此の理くつをどう思うか?

黄檗がいう 「一日中どんなものにも囚われずにいれば、そのものの始まりを得ることができますよ。」

南泉いわく 「すぐに答えを返すのはよいが、そんな言い古された (長老のような) 話を返してはいかんな。」(注117)

黄檗いわく 「それは考えが足りませんでした。」

南泉がいう 「お粥を買った銭は (お腹がいっぱいになって) すぐこちらにやって来るけれど、わらじを買った銭はそれがすり減ってどこか見えない人のところに還ってしまう。」(注118)

黄檗は礼拝して下がります。

(注115) 黄檗は髭だらけで、権力者も平気でなぐったりする荒っぽい坊さんです、臨斎和尚の師匠としても有名ですが、臨斎さんはこの黄檗の荒っぽさをうまく受け継いでいるような感じですね。(注116) 南泉斬猫の話で有名、趙州和尚とのひょひょうとしたやりとりはなかなか楽しいです。(注117) 禅が他人の言葉の受け売りを嫌うのは、それでは本人が理解しているのかどうかわからないから、という理由なので、道元さんが斎安国師を批判し大為をホメちぎるのにもそんなワケがあるようです。(注118) 南泉和尚はこのフレーズが言いたくてわざわざ黄檗に質問したようです、修行という銭がわかる形でかえってきたり (慧)、どこかわからない場所に行ってしまったりするようです (定)。

いはゆる定と智慧を等しく学ぶことの意味は (定慧等學の宗旨)、定を学ぶことは智慧を学ぶことを邪魔しないので (定學の慧學をさへざれば)、等しく学ぶところに仏性を明らかにする理くつがあるわけではなく (明見佛性)、仏性が明らかに見えたあとならば (明見佛性のところに)、定と慧を等しく学ぶことの意味も (學) あるでしょう。そこでこの理くつをどう思う? (此理如何) と質問 (道取) するわけで、たとへば、明見佛性というのはだれかがこんな行動をとった (所作) ことと同じですよと理解 (道取) してもかまいません。仏性は学ぶことと等しく (佛性等學)、仏性を明らかに見ること (明見佛性)、この理くつはどんなものに似ていますか? (注119.此理如何) と質問することも (道取) みちを得るための方法なのです (道得なり)。

(注119) いわゆる禅話と呼ばれるこんにゃく問答のかずかずは、ここに説明されたような 「似たもの探しゲーム」 であることがわかりますね。

黄檗が言う一日中なにものにも囚われない (十二時中不依倚一物) の意図は (宗旨)、一日中のうち (十二時中) たとへすべての時間そこで座禅していたとしても (十二時中に處在せりとも)、その間こころがなにものにも囚われないことです (不依倚)。なにものにもとらわれないこと (不依倚一物)、これはすべての時間に対してもそうであるので (十二時なるがゆゑに) そうであるなら仏性があらわれています (佛性明見なり)。このすべての時間としての (十二時中) というのは、いつの時間が来たとか意識はされず (いづれの時節到來なりとかせん)、どこの場所かとかも意識されません (いづれの國土なりとかせん)。いま言っている十二時は、人間の時間の十二時なのか、それともどこか別の場所にある (他那裏) 十二時なのか、雪が降ってなにも見えなくなった世界からやってきた十二時なのか (白銀世界の十二時のしばらくきたれるか)。たとへこの場所 (此土) であるとも、たとへ別の世界であっても (他界)、囚われないことが大切なので (不依倚)、すでに十二時中という不思議な時間の中にあれば、それは囚われていないことになるのです (注120.不依倚)。

(注120) 時間と場所がともに存在しない世界観について、繰り返し説明されています。

莫便是長老見處麼と言う意味は、これを理解した見解である (見處) とは言わないようなもので、長老が言っているような理くつを (長老見處麼) 理解したとしても (道取)、それを自分の意見であるように話してはいけません (自己なるべしと囘頭すべからず)。自分もそのとおりのことを思っていたとしても (自己に的當なりとも)、それを口にすると黄檗ではなくなってしまうからです (黄檗にあらず)。黄檗はかならずしも自分だけではなく他人のものが混じっていたようで (自己のみにあらず)、それは長老の見解というものがさんざん使い回されたものだからなのです (注121.長老見處は露廻廻なるがゆゑに)。

(注121) 答える場合は、なるべくオリジナルな表現をこころがけましょう。

黄檗いはく、不敢。

この言葉は南宋の言い方で (宋土に)、自分の才能を聞かれたときに (おのれにある能を問取せらるるには)、能力があるとは言わなくて (能を能といはんとても)、かわりにけんそんの意味で不敢という言葉を使います。そうであれば不敢の意味は (道は) 能力不足 (不敢) ではなく。この言葉の意味は (道得) はこんな理解 (道取) なので、それ以上考える必要はありません (はかるべきにあらず)。(注122)

古臭い見解 (長老見處) をたとへ長老がいったとしても、古臭い見解を (長老見處) たとえ黄檗が言ったとしても、理解した答えとしては (道取するには) もうひといき (不敢) のようです。一頭の水牛が道に出て来てモーモーと鳴いているようで (一頭水枯牛出來道吽吽)、こんなように理解できれば (道取するは)、それでよいでしょう (道取なり)。そんなふうに理解した意味 (道取する宗旨) さらにはまた理解する方法を理解する (道取なる道取)、あれこれとこころみてやってみてください (注123.道取してみるべし)。

(注122) 不敢は、本人のプライドを保ちつつ、自分のいたらない欠点も認める、というやや瀬戸際状態でしょうか。「ちょっとイマイチでしたね」 みたいなニュアンス。(注123) 言葉や思考の入れ替えを、遊びのように楽しむのが道元師匠です。

南泉いはく、醤水錢且致、草鞋錢什麼人還。

いはゆるは、こんづ (注124) の銭は (あたひは) しばらく置いといて、草鞋の銭は (あたひ) いったいだれがそれを還すというのでしょう (たれをしてかかへさしめんとなり)。このことばの意味するもの (道取の意旨)、長く時間をかけて (ひさしく生生をつくして) 考えつくしてください (參究すべし)。醤水錢はどうした理由で変化してしまうのか (注125.いかなればかしばらく不管なる)、こころに留めて学ぶことにつとめてください (留心勤學すべし)。草鞋錢はどんなわけで変化しないことを得るのか (注125.なにとしてか管得する)。行脚の年月にどれだけの (いくばく) 草鞋を踏み破ってきたことか。いま言うべきは、もし銭がどこかに還らないのならそれはわらじを履いていないのと同じことで (注126.若不還錢、未著草鞋)、またこうも言い、地水風や身口意ともいいます (注127.兩三輪)。これと同じような意味であり (道得)、こんなような教えなのです (宗旨)。

(注124) 漿・こんずは、濃い水、または転じておかゆやお酒、このページではおかゆとしてみました。(注125) 醤水錢はお腹がいっぱいになっても、またお腹が減ってしまい変化するものの例、草鞋錢はわらじをすり減らして身につけた経験は変わることがない変化しないものの例。(注126) すり減ってなくなってしまったわらじの銭はだれがその場所に還すのでしょうか? (注127) 地水風は世界を支える目に見えない本体、身口意はほとけを伝えるための道具、これらがその 「還る場所」 を教えてくれるはずです。

黄檗便休。

これは礼拝してさがります (休するなり)。否定されてさがったり (不肯せられて休し)、受け入れられなくて自分から下がるわけでもなく (不肯にて休するにあらず)、本物の禅僧はそんなものではありません (本色衲子しかあらず)。しるべきでそのさがる裏にある真意は (休裏有道)、笑顔の裏でふところの刀に手をかけているようなものです (笑裏有刀)。これこそ仏性があらわれて (佛性明見) そのお粥を腹いっぱい食べて満足した様子なのです (注128.足足)。

(注128) 礼拝してさがったわりには、自信満々のようです。

この様子を見て(因縁を擧して) 為山が仰山に聞きます 「黄檗がそれを見せたけれど南泉がそれを得られないということはないのではないかな? (莫是黄檗搆他南泉不得麼)。」

仰山が言う 「そうではなく (不然)、まずは知るべきです (須知)、黄檗には虎でさえ手なづけるこころのはたらきがあるのです (注129.黄檗有陷虎之機)。」

為山いわく 「お前の理解は (子見處)、そこらへんをうまくついていると思うよ (得恁麼長)。」

大為の理解では (道は)、以前 (そのかみ) 黄檗は南泉に対して構えを得ず (搆不得) と言ったことがあるようです。(注130)

仰山いわく 「黄檗には虎をだますほどの力量があり (陷虎の機あり)。すでに虎をたぶらかしているならば (陷虎することあらば)、虎の親分と言ってもよいでしょう (注131.虎頭なるべし)。」

(注129) 為山と大為山の住職の座を争った華林禅師はその後深い山に一人こもり、二頭の虎を弟子にしたとつたえられます、虎を弟子にするコツは、こころに観音を思うことなんだそーです。(注130) 搆不得は、なにも考えていないこと。(注131) 虎と話ができるなら、それがさとりというものです。

虎をだまし虎をあやつり (陷虎将虎)、人でないものの中を行く (注132.異類中行)。仏性を明らかに見れば (明見佛性也)、ほとけが持つという第三の目を開き (開一隻眼)。仏性そのものを見てこだわってしまうと (注133.佛性明見也)、ほとけの目を失うことになります (失一隻眼)。即座に質問し即座に理解する (注134.速道速道)。仏性を理解する意味は (佛性見處)、そんなよいところを得ることにあります (得恁麼長)。

このために、半分であってもすべてであっても (半物全物)、これにとらわれることはなく (不依倚)。百千の物があっても囚われることはなく (不依倚)、百千の時があっても囚われることはありません (不依倚)。このことをたとえていわく (注135)、一枚のかごであり (籠一枚)、すべてを含む時間であり (時中十二)。とらわれたり囚われなかったり (依倚不依倚)、大きな樹に頼るくずやふじのようであり (如葛藤倚樹)。空の真ん中や空いっぱいだったり (天中及全天)、頭のうしろに言葉が浮かばない状態だったり (後頭未有語) そんなようなことです。

(注132) このあとにつづく趙州和尚の狗子仏性とも同じ意味で、虎を手なづけたり、犬を観察したりする、動物と接触してその感覚を探るのも行法としては有効なようです。(注133) 仏性はあくまでぼんやりとした意識で観察するもので、理くつっぽく考えるとそれは消えてしまいます。(注134) 無駄なものが意識にないので判断のスピードが速くなります。(注135) ここから最後の後頭未有語までは、行法あれこれのようです、理屈で考えずに頭の中でこれらの絵柄をアタマで想像してみるとよいです。


趙州眞際大師にある僧が問う (注135)

狗子還有佛性也無

犬もその本質に還れば仏性が有るのでしょうか、または無いのでしょうか? (注136)

この問の意図するところを (意趣) あきらかにすべきです。狗子とは犬のことです。犬には仏性があるのかと問わず (かれに佛性あるべしと問取せず)、犬に仏性はないのかとも問わない (なかるべしと問取するにあらず)。これは極道やくざもまた (鐵漢また) ほとけに興味を持ちそれを学んだりするのだろうか? という質問にも似ていて (學道するかと問取するなり)。解釈をあやまれば余計に混乱してしまう毒をもち、(注138.あやまりて毒手にあふ)、なかなか困った話ではありますが (うらみふかしといへども)、わたしが三十年仏法をやってきたなかで (三十年よりこのかた)、趙州和尚は仏法にすぐれるだけでなく、さらに半分聖人が混じったような独特な風流をそなえた人でもあります (注139.さらに半箇の聖人をみる風流なり)。

(注135) 禅宗業界のスーパースターで、その切り返しのすばやさと、飄々とした受け答えに面白さがあるお坊さんです。(注136) 仏性はあったりなかったりするもの、という質問ですが、この理解は間違いのようです。(注138) おもてウラが入り組んでいてむずかしいので、よく整理して考えましょう。(注139) 趙州和尚は世の中のどんな雑事にも即座に対応することができる、物知りな人格者というふんいきも持っています。

趙州いはく、無。

この趙州の答えを聞いて (道をききて)、学ぶべき方向や路があります (學すべき方路あり)。佛性が自分で語る無も (注140.自稱する無) そんなようなものです (恁麼なるべし)、犬が自分でかたる無も (注141.狗子の自稱する無も) そんなようなことで (恁麼道なるべし)、犬をはたから見ているものが呼んでみせる無も (注142.傍觀者の喚作の無) おなじようなものです (恁麼道なるべし)。その無もわづかに石灰の白さのようなものでしようか (注143.消石の日あるべし)。

(注140) 仏性は言葉でない言葉で語ります。(注141) 犬はしゃべらないけど、これもなにやら語っているようですね。(注142) この傍觀者は趙州のことでしょうか。 (注143) 白と日の表記まちがいでしょうか?

僧が言いたいのは、一切衆生にはみな仏性が有り、犬はそのなにか (仏性のこと) のために無であるのですか?(一切衆生皆有佛性、狗子爲甚麼無)。

いはゆるその意図は (宗旨は)、一切衆生が無であるならば、佛性も無であり、狗子も無なるはずで、そのすじみちはいかに? (宗旨作麼生) と質問していて、犬に仏性があるかという質問は (狗子佛性)、犬は無をまたずにすでにそれを備えている (なにとして無をまつことあらん) ということです。(注144)

(注144) 一切衆生・・なので犬も仏性をそなえていて、その仏性は無をそなえているから、必然的に犬も無をそなえているのか?  という質問内容。

趙州いはく、俗な意職が存在するのとは少しちがうあり方です(爲他有業識在)。

この理解は (道旨は)、他に有るため (爲他有) というのは俗な感覚に対してであり (業識なり)。俗な意識もあり (業識有)、その他にもなにかが有るため (爲他有) というわけですが、犬は無であり (狗子無)、仏性も無です。俗な意識は (業識) いまだ犬の本質に出会わず (狗子を會せず)、犬はどうして仏性に会わないことがあるでしょう (狗子いかでか佛性にあはん)。たとへその俗な意識を捨てて他に有るものの目で見ても (雙放雙収すとも)、なほこれは俗なもののすべてといえます (注145.業識の始終なり)。

(注145) 俗物な通常意識のほかに、仏性ともほとけの一隻眼とも呼ばれる、もうひとつの意識状態があるようですが、業識の始終と言っているので、それは無意識ではなくふつうの覚醒した意識の中に俗なこころとそれが共存しているようです。

趙州有僧問、狗子還有佛性也無。

趙州にまた質問する僧がいます、・・・(注146.以下は上と同)。

(注146) 同じ質問の二回目ですが、こんどの趙州和尚の答えは 「有」 のようです。

この質問は (問取は)、この僧が刀を構えて趙州に対面しているようなもので (搆得趙州の道理なるべし)、そんなであれば、仏性に興味を持ち質問したりするのは (道取問取)、お釈迦様の家で毎日の茶飯にありついているようなものです (佛祖の家常茶飯なり)。

趙州いはく、有。

この有の様子は、経典注釈の人たちが言うような有ではなく (147.教家の論師等の有にあらず)、有部経典にいう論有でもありません (注148)。すすんで仏有を学ぶべきで。仏有とは趙州の言う有であり、趙州の有は犬に有るもの (狗子有) であり、それは (狗子有) 仏性有というものです。(注149)

(注147) 仏性が犬にあるとかないとかの意味の、有る。(注148) 時空をつらぬく認識する本体のような存在が、有る。(注149) この仏性は、いつでもどこでもどんなものにも、さらには何もないものにも存在している、という有。

僧いはく、既有、爲甚麼却撞入這皮袋。

すでにどこにでも仏性が有るのなら、わざわざこの犬の身体に入ってみるのは、どんな理由があるのでしょう? (注150)

この僧の理解は (道得は)、今有るのか、古くから有るのか、既に有るのかなどと疑問をもっていて (問取するに)、すでに有る (既有) はどこにでも有ることに (諸有) に似ているとはいえ (相似せりといふとも)、既に有るというのはそれだけで存在できる明かりのようなものという意味なのです (注151.孤明なり)。既に有るものは身体に入っているのか (撞入すべきか)、入っていないのか (撞入すべからざるか)。この身体に入り込んだことの意味に (撞入這皮袋の行履)、的をはずれたようなかん違いの思い込みをしてはいけません (いたづらに蹉過の功夫あらず)。

(注150) この話のポイントで、どこにでも存在する仏性だから犬のからだではなく、どこかべつの虚空にあっても世界を認識できるのですか? というかんじでしょうか・・。(注151) 世界を照らすだけの実体のない光、虚明としてもよいかも。

趙州いはく、爲他知而故犯

世界を認識するためには、そのなかにいることが必要です (注152)。

(注152) 僧が犬に出入りするものと聞くので、わざと犯という言葉を持ってきたようです、これは犬に入る、たまたま犬の中にいる、のどちらともとれます。

この言葉は (語)、世間でよく使われる用語として (世俗の言語として) 長くいろいろなところで言われてきましたが (ひさしく途中に流布せりといへども)、いまでは趙州の言葉として有名です (道得なり)。言葉の読みは (いふところは)、しりてことさらをかす (注153)、となります。この解説に (道得は)、疑問をもたないひとは少ないでしょう (疑著せざらん、すくなかるべし)。

いま「入」の一字の意味を明らかにするのはむずかしいですが (注154.あきらめがたしといへども)、この (入之) 一字を使わなくてもよく (不用得なり)。まして (いはんや) 庵の中の不死の人を知ろうと思えば、どうしてただいまのこの身体を離れることができるだろう (注155.欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋) の言葉もあり。不死人はたとへだれであろうとも (阿誰)、いつのときでもこの皮袋から離れることはできません (いづれのときか皮袋に莫離なる)。

わざわざそこにいることは (故犯) かならずしも外から皮袋に入ったわけではなく (入皮袋)、外側から犬の身体に入るのは (撞入這皮袋) かならずしもそれを知るため中にいること (知而故犯) と同じ意味ではありません。知ることができるから (知而のゆゑ) その中にいるとわかるのです (故犯)。

しるべきで、このわざわざなかにいることの意味は (故犯) すなはち身体を行李に見立ててそれを覆いかくしているようなものです (體の行履を覆藏せるならん)。これを身体に入る (撞入) と表現しています (著す)。身体の行李は (體の行履)、まさに覆い隠してそれをしまいこむ時に (正當覆藏のとき)、自分にもそれを隠し (注156.自己にも覆藏し)、他にもそれを隠す (注156.他にも覆藏す)。しかもこのようであるといへども、身体からそれが抜け出てしまうこともありません (注157.いまだのがれずといふことなかれ)、ろばの前に立ち馬の後ろに立つ人のようにかん違いしてはいけません (驢前馬後漢)。まして (いわんや) 雲居高がいうには、たとへば仏法を学んで身につけるというのは (邊事を學得する)、すみやかにこころをあれこれと使うまちがいを終わりにすることなのです (注158.はやくこれ錯用心了也)。

そうであれば、半分しか理解していない仏教であれこれと学び (半枚學佛法邊事) 長い間まちがった解釈でやってきたことも (ひさしくあやまりきたること) 無数の年月になりますが (日深月深なりといへども)、これはこの皮袋に (這皮袋) 出入りする (撞入する) 犬という考え方そのものなのです (注159.狗子なるべし)。中にいるものがそれを知る (知而故犯) ということこそが有仏性の意味なのです (注160)。

(注153) 原文どおりなら、他を知りてことさらに・・。(注154) 「入る」 という言い方が誤解のもとになるようです。(注155) こころの中にいて、死ぬことのない意識の本体、それは身体をはなれては知ることができません、爲他知而故犯とまったく同じ意味のようです。(注156) 自分の中を探してもそれはいないし、自分以外の他の場所を探してもそれはいなくて、でも目にみえないからといって、存在しないわけではありません。(注157) からだを魂が出入りするようなイメージは、少なくとも仏性に関してはまちがいのようです。(注158) こころを使うことをやめないとダメで、そのために 「定」や「止め」の行法があります。(注159) 「出入りする」 という概念は、捨てたほうがよいようです。(注160) 仏性を感じることができるというそのことが、そこに仏性が存在する証明となります。


長沙景岑和尚の集会で (注165.會に)、竺尚書が質問します。(注166)

蚯蚓斬爲兩段、兩頭倶動。未審、佛性在阿那箇頭
「みみずが切れて二つになり、そのふたつともが動いています。こんなとき仏性はどちらのあたまにあるのでしょうか? 」(注162)

(注165) 南泉和尚の弟子だそうです。(注166) 尚書は今でいう知事、竺が姓なので、竺知事という感じです。

師がいわく 「妄想することなかれ(莫妄想)」。
書いわく「動いているのはどうしましょう? (爭奈動何)」。
師いわく「ただこれ風火のいまだ散ぜざるなり(只是風火未散)。」

いま尚書がいうみみずが二つに切られた状態は (蚯蚓斬爲兩段)、切られる前は (未斬時) ひとつのものであったと見るのでしょうか (一段なりと決定するか)。仏の世界の常識では (佛の家常) そうではありません (注167.不恁麼なり)。みみずは (蚯蚓) もとよりひとつではなく (一段にあらず)、みみずが切れて二つになるわけでもありません (蚯蚓きれて兩段にあらず)。ひとつであったり二つであったりと理解することは (一兩の道取)、まさにあれこれと考えてみるべきことではあります (功夫參學)。

(注167) 一と二や、五と十と百、さらには多数や無数といった区別もありません。

ふたつの頭がともに動く (兩頭倶動) という切られた二つのみみずは (兩頭)、切られるまえには (未斬よりさきを) 一つの頭だったとするのか、またはもっと上質なほとけの見地から (佛向上) それを一つの頭だと見るのか、このふたつのあたまという (兩頭) 言葉は、たとへ尚書が理解しようがしまいが (會不會にかかはるべからず)、両頭の言葉を忘れないでいてください (注168.語話をすつることなかれ)。切れた二つのものはもとは同じものであり (兩段は一頭にして)、さらにもうひとつの共通なものがあるのでしょうか (注169.さらに一頭のあるか)。そのいっしょに動く様子を (動) 倶動と呼びます、なにも考えずに規則正しく動くことが (定動智拔) ともに動くということの意味です。

(注168) 禅話で二つのものがあれば、対象概念を示し、対立するものは仏世界ではつねに存在していません。(注169) ふたつのみみずに共通するまかふしぎな要素。

「ふしぎにおもうのは (未審) 仏性はどちらのあたまに在るのか (佛性在阿那箇頭)、それとも仏性も二つに切られてしまったのか (佛性斬爲兩段)」 というような質問は、「ふしぎにおもうのは (未審) みみずはどちらの頭にあるのでしょう (注170.蚯蚓在阿那箇頭)」 と言い換えてみてください。この意味の理解は慎重にやるべきで (道得は審細にすべし)。ふたつのあたまがともに動くとき仏性がどちらの頭に在るのか (兩頭倶動、佛性在阿那箇頭) という質問は、ともに動く (倶動) ならば佛性の所在がどこかを答えていない (注171.不堪なり) ということで。ともに動く (倶動) のであれば、その動という字はともに動いている様子をあらわしているのでしょうが、肝心の仏性の所在は、その二つのうちのどちらにあるというのでしょう。

(注170) もちろんどちらのあたまにもみみずは在るわけで、これが答えでしょうか。(注171) じつは答えているんじゃないでしょうか?

師いはく、莫妄想。

この意図するところは (宗旨) どんなものでしょうか (作麼生なるべき)。妄想してはいけません、と言っています。そうであれば、二つの頭がともに動く様子には (兩頭倶動)、妄想がない、またはそれは妄想でない現実とでも言うのか、ただ仏性というものには妄想がないと言っているのか。仏性がどうとか (論におよばず)、ふたつの頭がどうだとか (兩頭の論) それらには関係なく (およばず)、ただ単に妄想というもの自体がこの世に存在しないとか (道取するか)、いろいろ研究してみるとよいでしょう (注172.參究すべし)。

(注172) 道元さんのような、仏教マニアの楽しみのひとつともいえ、あれこれ言葉をひっくかえしたり、組み合わせを入れ替えたりします。

動ずるはいかがせん、というのは、動いていればさらにそのうえに仏性の様子が見えるのか (佛性一枚をかさぬべしと道取するか)、動いていればそれは仏せいではないと理解するのか (動ずれば佛性にあらざらんと道著するか) ということです。

風火未散という言葉は、仏性を出現させているような言葉です。それは仏性であると言っているのでしょうか (佛性なりとやせん)、風火なりというのでしょうか (とやせん)。仏性と風火はともに現れると (倶出すと) 言うべきではなく、ひとつが出ればひとつは引っ込む (注173.一出一不出) というべきでもなく、風火はすなはち佛性であると言ってはいけません。そのゆえに長沙はみみずは (蚯蚓) 有佛性といわず、みみずは (蚯蚓) 無佛性ともいわず、ただもうそうすることなかれ (莫妄想) と解説し (道取す)、風にあおられた火がいまだ散っていないのだ (風火未散) と表現します (道取)。

(注173) 共存という言葉は適切でなく、ちがった有りかたとでも言えば・・。

仏性の生き生きとしたさまは (活計)、長沙和尚の話から判断してみてください (道を卜度すべし)。風火未散といふ言葉の意味を (言語)、しづかに考えてみましょう (功夫すべし)。いまだ散っていないのには (未散といふは)、どんなわけがあるのでしょうか (注174.いかなる道理かある)。風に揺れる火が (風火) まだ燃え盛っていて (あつまれりけるが)、火が収まるときはまだしばらく先と (散ずべき期いまだしき) 見てとるのを (道取するに)、いまだ散らず (未散) といふのか。たぶんそうではないでしょう (しかあるべからざるなり)。

(注174) こころのはたらきがまだ静まっていない、定の行法が必要です。

炎が散らないのは仏が世界の仕組みを説明しているところで (注175.風火未散はほとけ法を説く)、散らない炎は世界の仕組みが逆に仏をあきらかにするのです (注176.未散風火は法がほとけを説く)。たとへばこころに響くひとかたまりの法が説かれる (一音の法をとく) そんな一瞬がやって来ます (時節到來なり)。法が説くひとかたまりの理解 (説法の一音なる)、それがやって来たときにその瞬間があらわれるのです (到來の時節なり)。法はひとかたまりの理解であり (一音なり)、そのひとかたまりの理解に (一音の) 法という名前がついているからなのです (注177.なるゆゑに)。

(注175) 世界を現じてみせる、または炎の動きを見ることができる、それが仏の説法のようです。(注176) りくつを逆にすると、ほとけの説法をしている人がだれかを教えてくれるようです。

また仏性は生きているときのみにあって、死んでいるときはないだろうと思いがちですが、これも早とちりの生わかりといったものです (もとも少聞薄解なり)。生きているときも有佛性であり無佛性であり。死んでいるときも有佛性であり無佛性であるのです (注180)。風に揺らぐ炎が散るか散らないかを (風火の散未散) 論じることがあれば、それは佛性が散るとか散らないとかを (散不散) 論じることです。たとへ散ってしまっても佛性有なるべきで、佛性無なるべきです。たとへ散っていない (未散) としても有佛性なるべきで、無佛性なるべきです。そうであるのに、佛性は動くか動かないのちがいで (動不動によりて) 在ったりなかったりし (在不在し)、意識できるかできないかによって (識不識) 神であったりなかったりします (神不神)、それを知っているか知らないことのちがいでその本質があったりなかったりと (知不知に性不性) まちがった考えにとらわれるのは (邪執せるは)、仏教でないもの (外道) の考えかたのようです。(注181)

(注180) 仏性は時空のどこにでも 「ことごとく」 有るものであり (有仏性)、その実態は無という感覚や認識でもあります (無仏性)。(注181) とにかくどんな反対条件であってもその両方にかならず存在するようでんな。

この世の始まって以来 (無始劫來は)、わかっていない人が多く (癡人おほく) それはこころを存在するものとして (識神を認じて) 仏性とし、さらにはそれを意識の本体と (注182.本來人) してしまったことです、その考えは笑うべきところでしょう (注183.笑殺人なり)。さらに仏性を理解するときに (道取するに)、それは泥田にたまったうわ水のようなものではないけれど (注184.タ泥滯水なるべきにあらざれども)、レンガの壁が壊れて瓦礫となり、家の敷地の様子がどんなものか明らかになった状態といえばよいでしょう (注185.牆壁瓦礫なり)。さらにもっと上質の理解にいたるとき (向上に道取するとき)、仏性はどんな説明をされるのでしょうか (作麼生ならんかこれ佛性)。でもこれはそのときの解説にすべておまかせいたしましょう (還委悉麼)。 あたまが三つに手が八本 (注186.三頭八臂)。

(注182) 「無量劫來生死の本、癡人喚んで本來人と作す」これは無門関の一節で、魂がどうとかこだわってると仏教はなかなかわかりませんよ、という意味。(注183) 笑い殺す、というよりはやっぱりわからない人が多いのは悲しいことのようです。(注184) 從容録七十九の、及時節力耕犁、誰怕春疇沒脛泥、「春が来て耕す鋤にも力が入り、膝には泥がつき畝に沈んでも、だれがそれを怖れるでしょう」 という道に行き着いた人の心得だそうです。(注185) 大証国師が弟子に「古仏心とはこれいかに? 」 と質問を受け、それに答えたのがこれ。(注186) 古い経典に出てくる顔が三面、手が八本ある鬼の那痩、、この世にそれをさえぎるものはいないそうですが、水滸伝の英雄である飛び剣の那曹ニは少しちがうようです。

正法眼藏佛性第三

同四年癸卯正月十九日書寫之 懷弉 (注190)
爾時仁治二年辛丑十月十四日在雍州觀音導利興聖寶林寺示衆
再治御本之奥書也
正嘉二年戊午四月二十五日以再治御本交合了

(注190) 仁治四年、1243年、弟子の懷弉がこれを書き写す。




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