【現成公案】 げんじょうこうあん

この世界を (諸法の)、ほとけの教えそのものであると見れば (佛法なる時節)、そこには迷いと悟りがあり、修行や生死や諸佛衆生といったものがあらわれます (すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり)。もし世界のありさまやほとけの教え (萬法) といったものをともに私たちが意識しなくなれば (われにあらざる時節)、迷いはなくさとりもなく、諸仏もなく衆生なく、生滅すらないことがわかります。

仏道はもともと金持ちや貧乏といった世間の俗事 (豐儉) から抜け出すため (跳出) のものなので、そこには生滅も迷悟も衆生も仏も存在します。しかも俗事から抜け出したように見えても、花は惜しまれて散り (注1、愛惜にちり)、草は邪魔者あつかいされて枯れてゆくのみ (注1、棄嫌におふるのみなり) というのが現実の様子なのです。

自分で外面としての世界や仏についてあれこれ考えて (自己をはこびて萬法を) それを明らかにしようとする (修證する) ことは迷いです、むしろ世界のあり方やほとけという考え方を利用して (萬法すすみて) 自分の内面を解き明かすことが (自己を修證する) さとりなのです。迷いの在りかたをよく理解している (迷を大悟する) のは仏であり、逆にさとりを求めて迷ってしまう (悟に大迷) のが衆生です。さらにさとった上にもう一段の理解 (悟上に得悟) をする人 (漢) もいれば、迷いの中でさらに右往左往している (迷中又迷) 人も (漢) います。仏がまさしく仏であるときは、自分は仏であると意識しないけれど (自己は佛なりと覺知することをもちゐず)。そうであっても仏のありさまは明らかになっているので (證佛なり)、仏の功徳を実践できる人ということになります (佛を證しもてゆく)。

感覚を意識しながら (身心を擧して) 風景を見たり (色を見取し)、感覚に注意しながら (身心を擧して) 音を聞いてみると (聲を聽取するに)、よく見えたりよく聞こえたり (したしく會取) はするけども、かがみに姿を映す (影をやどす) ようなものではなく、水面に月が映っているようなものでもなく、一方がはっきりとしていれば (注2、證する) もう一方はぼんやりとしています (注2、くらし)。

ほとけのありさまを知ることは (佛道をならふといふは)、自分の内面を観察することであり (自己をならふ也)。内面を観察するというのは (自己をならふといふは)、自分という意識をなくすことであり (自己をわするるなり)、自分がないということは (自己をわするるといふは)、世界やほとけの教えといった外にあるものが内面にあるほとけの本体をあきらかにすることであり (注3、萬法に證せらるるなり)。ほとけが明らかにされれば (注3、萬法に證せらるるといふは)、そのとき自分という意識やそれ以外のすべての存在は (自己の身心および他己の身心) きれいに抜け落ちてしまうでしょう (脱落せしむるなり)。そこにはさとりの足跡が残る (悟迹の) しずかな場所があり (休歇なるあり)、そのしずかな場所にある (休歇なる) さとりの足跡を (悟迹を) 長く保つようにすることが大切なのです (長長出ならしむ)。

人が、はじめてほとけの教え (法) を求めるとき、ほとけの居る場所 (注4、法の邊際) から離れてはいません (離却せり)。ほとけの教えが (法) すでに自分に正しく伝わっているときは (おのれに正傳するとき)、即座にその人がほとけとなります (すみやかに本分人なり)。

人が舟に乗って行くとき、目で岸の動きを追ってみれば、岸が移動していると間違えてしまうでしょう。逆に船に注目すれば (目をしたしく舟につくれば)、船が進んでいるのを知るように、からだやこころといった想いが混乱して (身心を亂想して) からだやこころを含めた外側の世界 (萬法) が存在するとして説明すると (辨肯するには)、自分のこころや自分の本質 (自心自性) がいつも変わらず存在する (常住なる) かと間違ってしまいます。もし禅堂で行李とともに修行し (したしくして) 箇裏で生活や仕事をすれば (歸すれば)、すべてのものが (萬法) 自分の内にないことがはっきりするでしょう (われにあらぬ道理あきらけし)。

たきぎは灰となるけれど、そのあとたき木にもどることはありません。こんな様子を、灰があと、たきぎは先と見てはいけません。知るべきです、たき木はたき木のありかた (法位) として存在し (住して)、先きがありあとがあり。前後ありといへども、前後は断絶 (際斷) されています。灰は灰のありかた (法位) として存在し、あとがあり先があるのです。かのたき木は火となってそのあと、さらに薪にはもどらないように、人が死んだあと、さらに生きることはありません。そんな様子を、生の死になると言わないのは、仏法で決まっている習慣のようなものです。こんなわけで生まれていない (不生) と言い。死が生にもどらないのは、教えの車輪 (法輪) として決められたほとけの言い伝えで (佛轉)。このために不滅と言われます。生も一時の位であり、死も一時の位です。たとへば、冬と春のように。冬が春となると思わず、春が夏になると言わないようなものです。(注5)

人がさとりを得るというのは、水面に月が映っている (やどる) ようなもので。月は水に濡れず、水面に波も立たず (やぶれず)。月は広くて大きな光ではあるけれど、一尺や一寸の水にも映るし (やどり)、月のすべてや空のすべても (全月も彌天も)、草の露に映り、わずか一滴の水にも映ります。さとりが人のこころを静めることは (人をやぶらざる事)、月が水面に穴を開けて水底に映ったりしないようなもので (うがたざるがごとし)。人とさとりの間に網を張って妨げるものがないのは (さとりを罫礙せざること)、草葉につく水滴 (滴露) が他のものに遮られることなく月を映す (天月を罫礙せざる) ようなものです。深いということは大きな容量 (分量) をもつことでもあり、時間の (時節の) 長短は、大きな器の水を小さな器の水に計りながら流し込むことですから (注6、大水小水を検點し)、たとえば天にある月が大きく見えたり小さく見えたり (注6、天月の廣狹) する仕組みをこれで説明 (辨取) するとよいでしょう。

身心にほとけの教え (法) がいまだ飽きるほど身についていないときは (參飽せざるには)、自分では法がすでに充分身についたと勘違いします (たれりとおぼゆ)。法がもし本当に充分身について理解もできれば (身心に充足すれば)、逆にもう少し物足りないと感じることでしょう (ひとかたはたらずとおぼゆるなり)。たとえば、船に乗って陸の見えない大海原に出て (山なき海中にいでて) 四方を見渡してみれば、海はただ円く見えるだけで (まろにのみみゆ)、さらにそれ以上の変わったものが見えるわけではありません (ことなる相みゆることなし)。そうではあるけれど、この大海は円い形にはあらず、四角 (方) でもなく、見えない残りの海の部分にどんな恵み (のこれる海徳) があるかまですべてわかるわけではありません (つくすべからざるなり)。その恵みは宮殿であるかもしれないし、宝石 (瓔珞) であるかもしれなくて、それでもわたしの目に見える範囲は、とりあえず円く見えているだけなのです。これと同じように、目に見える世界 (萬法) もまたそうであって。ちっぽけなものや並外れているもの (塵中格外)、それぞれに性質をあらわしているけれども (おほく樣子を帶せりといへども)、修行で身につけた観察力 (參學眼力) のおよぶ範囲でしか見抜いたり真理を会得したりすることができません (見取會取するなり)。すべての世界の説法を (萬法の家風を) 聴くためには、世界は円か四角 (方圓) と見るだけでなく、それ以外にも際限がないほどの世界とその恵みが連なっていて (のこりの海徳山徳おほくきはまりなく)、無数の世界が存在することをしるべきです (よもの世界あることをしるべし)。そしてこうした例はひとつだけではなく (かたはらのみかくのごとくあるにあらず)、自分の足元にも (直下) 一粒の水滴にもこんな無数の世界があると知るべきでしょう。

魚が水の中を泳ぐとき、泳いでいても水のなくなる境目を意識することはなく (ゆけども水のきはなく)、鳥が空を飛ぶときも、飛んでいて空がなくなる境目を意識することはありません (とぶといへどもそらのきはなし)。そうであっても魚鳥は、いまだにむかしから住んでいる水や空をはなれません。水空を広く使いたい (只用大) ときは大きく使い (使大なり)。あまり必要がなければ (要小) 少しだけ使います (使小なり)。こんなようにして、それぞれが (頭頭に) 水や空の果てまで行ってない (邊際をつくさず) わけではなく、水空のいろいろな場所 (處處) にまだ行ったことがない (踏翻せず) わけでもないけれど、鳥がもし空を跳びだせばたちまちに死ぬでしょうし、魚も水を跳びだせば同じことです。水を命のもととは知らず空を命のもとと知ることもないからで (以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし)。これは鳥も魚も命そのものである (以鳥爲命以魚爲命)。または命が鳥であり魚でもなる (以命爲鳥以命爲魚)。という風に言い換えることもできます (このほかさらに進歩あるべし)。考えて明らかにするとすれば (修證あり)、ほとけやわたしたちの間がらというのは (その壽者命者あること) 、こんなようなことなのです (かくのごとし)。

そんなわけで (しかあるを)、水や空の果てにある境目に行き着いたあと (水をきはめ、そらをきはめてのち)、さらにその向こう側へ行こうと思う (水そらをゆかんと擬する) 鳥や魚がいたとしても、水にも空にも道を得ることができず、その居場所すらないことを知るはずです (ところをうべからず)。このりくつを理解すれば (このところをうれば)、禅堂の修行に (この行李) したがって真理がすがたをあらわし (注7. 現成公案す)。この方法を身につければ (このみちをうれば)、禅堂の生活がそのまま真理となるでしょう (注7. この行李したがひて現成公案なり)。この方法やりくつは (このみち、このところ)、大きくもなく小さくもなく、自分でもなければ他者でもないし、昔からあるわけでなく、いま現れたわけでもないので、このような言い方となります (かくのごとくあるなり)。

このように (しかあるがごとく)、人がもし仏道を勉強してこれをあきらかにするとすれば (修證するに)、一つの法だけを得、一つの道だけに通じ、一つの法だけに出逢い、一つの法だけを理解することになります (得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり)。これはこころの中のある場所であり (これにところあり)、そこへ行く道を良く知れば (みち通達せるによりて)、世界の端にあるまだ知られていない領域というのは (しらるるきはのしるからざるは)、この場所であることがわかり (しることの)、そこは仏法の窮まって尽きることのない真理 (究盡) と同じ場所でもあり (同生し)、同じはたらきをする (同參する) こともわかるでしょう (ゆゑにしかあるなり)。ここで得たものは (得處) かならず自分の理解となり (自己の知見となりて)、知識として知らなくても習う必要がなくなります (慮知にしられんずるとならふことなかれ)。もうこれ以上証明する必要のないほとけが即座にあらわれるとはいえ (證究すみやかに現成すといへども)、そのほとけは (密有) かならずしも目の前に現れるわけではなく (現成にあらず)、ほとけを見ることができる (見成) というそのことが必要なのです (これ何必なり)。

麻浴山宝徹禪師が、扇を使っているところに (あふぎをつかふちなみに)、僧がやって来て問う、
「風や空気の性質というのは常にここにあって、しかもその存在する場所もなければ、周りめぐることもないと言われています。和尚はどんなわけで扇をあおがれているのでしょうか? 」 (風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。)
宝徹師がいわく、「あなたはただ風性常住の意味がわかるだけで、(風性常住をしれりとも)、いまだところとしていたらずといふことなき、の意味を知りませんね (道理をしらずと)。」
僧いはく「これ無處不周底の道理とはどんなものでしょうか? (いかならんか)。」
ときに宝徹師、扇をあおるのみ (あふぎをつかふのみなり)。
僧、禮拜す。(注8)

仏法をあきらかにしてそれを調べ (佛法の證驗)、仏の教えを正しく伝える方法を探すのは (正傳の活路)、宝徹禅師の教えのようなものです (それかくのごとし)。風性がそこにあるなら扇であおぐ必要はなく (常住なればあふぎをつかふべからず)、扇がなくても風の音に耳を傾ければよいではないかというのは (つかはぬをりもかぜをきくべきといふは)、いつもある (常住) という意味を知らないし、ほとけが持つ空気の性質 (風性) をも知らないからです。ほとけというのは (風性は) 常にここにいる (常住なる) ために、ほとけを体現するものの (佛家の) 説法は (風は)、大地を黄金色に輝かせ (現成せしめ)、長江の発酵乳をおいしい味に変えるようなはたらきがあるのです (長河の蘇酪を參熟せり)。(注9)

正法眼藏見成公案第一

これは天元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。

建長壬子拾勒



(注1) 当時の一般仏教には世間的な常識としてまだ対立概念が残っていることを指摘してるようです。(注2) 天台止観のようなもので、意識は音と映像のようなふたつのものを同時には認識できないという意味で、スイッチを切り替えているそうです、ホントかどうかは自分で試してみてください。 (注3) 外的世界と自分という自我をあわせたすべてのものを萬法としているようで、萬法があきらかにする対象は自我を取り除いた残りのこころの中の何もない領域を示しているようです。 (注4) こころの内側と外的世界の境目、このあたりに仏が住んでるんでしょうか? (注5) 時間がデジタルに分断されているという感じで道元さん好みのオリジナル表現ですが、一般仏教なら世界はこの一瞬にしか存在しないという、一期一会的な解釈でしょうか。(注6) 水時計を例にしたたとえで、器に合わせてそれに映る世界の大小が決まっているということ、器を意識の広がりに置き換えたいようです。 (注7) 人はほとけの水やほとけの空に住んでいて、ほとけは常に自分と一緒であったことに気ずくという意味、外側に出たと思うのはただの錯覚で、孫悟空とお釈迦さまの手の平の関係です。 (注8) 風性とは空気のこと、「空気は (仏性は) いつもそこにあるけれど、扇で風を起こして見せないと (だれかが説法しないと)、そこにあると気がつかないだろ? 」 と宝徹禅師はおっしゃってます、 僧が礼拝するのは 「お見それしました」 という感じです。 (注9) ふつうの人は目の前に仏がいてもなかなか気ずかないので、そのすばらしさを解説するために仏を体現した人が必要であるということ。




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