【勘弁】 かんべん、問答の中身について考えます。

黄檗因入厨次、問飯頭、作什麼。飯頭云、揀衆僧米。黄檗云、一日喫多少。飯頭云、二石五。黄檗云、莫太多麼。飯頭云、猶恐少在、黄檗便打。

黄檗がたまたま立ち寄って、台所に入ってきたときのこと、台所の責任者である飯頭にどんな様子かな? と聞きます。飯頭は、いま僧に食べさせる米を選り分けているところです、黄檗は、一日にどれぐらい食べるのか? 飯頭は、二石五斗です、黄檗が少し多くないか? と聞けば、飯頭は、むしろ少ないことを心配しています、と答えますが、そこで黄檗はすぐに飯頭を打ちます (注1)。

飯頭却擧似師。師云、我爲汝勘這老漢。纔到侍立次、黄檗擧前話。師云、飯頭不會、請和尚代一轉語。師便問、莫太多麼。黄檗云、何不道、來日更喫一頓。師云、説什麼來日、即今便喫。道了便掌。黄檗云、這風顛漢、又來這裏捋虎鬚。師便喝出去。

飯頭が臨済のところにいきこの話をすると、師は、わたしがあなたの為に老人 (黄檗) がなにを考えているのか聞いてきましょう、と言いすぐに黄檗のところにやって来て、そばに立ったままその話をします、臨済が、飯頭はわかっていないようなのでどうか師匠がかわりの言葉をお示しください、と言ってすぐに、(黄檗の真似をして) それは少し多くないかな? と問います。黄檗は言います、なぜ明日にも棒で叩かれに行きますと言わないのか (注2)、すると臨済は、つべこべ言わずに今すぐ喰らえ (注3)、と言って師匠の顔を平手打ちにします。黄檗が、この遊び人はまたここにダルマ (トラひげ) を連れて来たのか (注4)、と言うと臨済はすぐに一喝して出ていってしまいます。

後仰山問仰山、此二尊宿、意作麼生。仰山云、和尚作麼生。仰山云、養子方知父慈。仰山云、不然。為山云、子又作麼生。仰山云、大似勾賊破家。

のちに為山が仰山に問います、この二人の名人師匠はどんなつもりなんだろう? 仰山は、和尚はどう思いますか? 為山が言うには、子供を養ってみて父親の愛情がすみずみまでわかるということ、おまえはどう思う? 仰山は言います、ドロボーに目をかけて、家がめちゃめちゃにされたようなものです (注5)。

(注1) 飯頭はまかないの報告をしているのに、黄檗はそれを聞いてないで勝手に禅問答しています、多すぎないか? と聞かれればほとけ世界には目方がないので、多少とは別の言葉を使って答えなくてはダメなようです (注2) 模範解答のつもりが、ついうっかりと時間感覚を口にしてしまい、そこを臨済さんに即今喰らえと、付け込まれてしまいまいます、ほとけ世界で時間を語るのはダメダメなようです。 (注3) 粥を喫す→棒を喫す→一掌を喫す、という一連のゴロ合わせの流れ (注4) トラひげは黄檗のトレードマークですが、この場合はだるま禅師として最後の一喝につないだほうが意味はスムーズ、ほとけがあらわれれば、そこにはだるま大師がかならずやって来ます (注5) 為山と仰山は師弟コンビで、勘弁の章や次の行録にはこの二人の漫才コメントがいくつかありますが、この仰山コメントのイミフさはなかなか興味をひくところです



師問僧、什麼處來。僧便喝。師便揖坐。僧擬議。師便打。師見僧來、便豎起拂子。僧禮拜。師便打。又見僧來、亦豎起拂子。僧不顧。師亦打。

師が僧に問います、どこから来たのか? 僧はすぐに一喝し、師はすぐにお辞儀をして座ると、僧が固まってしまい、師は即座に打ちます (注6)。

師は僧がやって来るのを見ると、すぐにほっすを立てます、僧が礼拝すると、師は即座に打ちます (注7)。

師はまた別の僧がやって来るのを見ると、すぐにほっすを立てます、僧はこちらを見ていませんが、師はまた僧を打ちます(注8)。

(注6) お辞儀は想定外だったようです (注7) この僧は正解、というか形式通り (注8) この僧もたぶん正解です



師見普化、乃云、我在南方馳書到潙山時、知你先在此住待我來。及我來、得汝佐贊。我今欲建立黄檗宗旨。汝切須爲我成褫。普化珍重下去。克符後至。師亦如是道。符亦珍重下去。三日後、普化却上問訊云、和尚前日道甚麼。師拈棒便打下。又三日、克符亦上問訊、乃問、和尚前日打普化作什麼。師亦拈棒打下。

(臨済寺で初めて) 師が普化に会うと、こう言います (注9)、わたしは南方にいて急用の書物を為山和尚のもとに届けたときに、あなたが先にこの地に在り、寺に住んでわたしが来るのを待っていてくれるのを (仰山の予言で) 知りました (注10)。及ばずながらわたしがやって来て、あなたが補佐してくれることを得ましたが、わたしは今黄檗和尚の教えをこの場所に根付かせたいのです、あなたがわたしのためになにか言いたいのなら仰ってください。普化は頭を下げ合掌しながら退がります。

少し後に克符がやって来ると、師はまた同じように話し、克符もまた合掌して退がります。その三日後に普化が質問をしにやって来て訊ねるには、和尚は前日なんと言われたのでしたか? 師は棒を振り回して即座に打ち下ろします (注11)。また三日たち、克符がまた質問に来て訊ねます、和尚が前日普化を打ったのはどんな意味なのでしょうか? 師はまた棒を振り回し打ち下ろします (注12)。

(注9) はじめて臨済寺にやってきたときに、普化和尚と対面した様子 (注10) 仰山は未来を見る予知能力があったとされる坊さん (注11) もの忘れもほとけの持つ一つの性質です (注12) 棒で打たれると、瞬間的にほとけがあらわれますが、そのほとけを見るためには感性を磨かなくてはいけません。



師一日、同普化赴施主家齋次、師問、毛呑巨海、芥納須彌。爲是神通妙用、本體如然。普化踏倒飯牀。師云、太麁生。普化云、這裏是什麼所在、説麁説細。

師は一日かけて、普化とともにお齋で (ふるまいご飯) もてなしてくれる家に赴きます、師が問います、一本の毛が巨大な海を飲み込み、ケシ (芥子) の種はしゅみ山をも納めることができる (注13)、このために神の通力はふしぎな作用があり、ほとけの本体もこのようなものである。すると普化は料理の載った飯台を踏み倒しますが (14)、師は、なんだか粗雑だなあ、と言えば、普化は、ここがどんなところか知っていて、雑だの細かいだの説くのか? (注15)

師來日、又同普化赴齋。問、今日供養、何似昨日。普化依前踏倒飯牀。師云、得即得。太麁生。普化云、瞎漢、佛法説什麼麁細。師乃吐舌。

師はその次の日、また普化とともにお齋に呼ばれ、問います、今日のご供養は昨日の (献立と) となんだか似ているな、 ところが普化はまた飯台を踏み倒してしまい、師は、すぐに理解するのは良いが (注16)、それではただ粗雑なだけではないかな? 普化が、めくらのおっさんだな、仏法がなにか雑だの繊細だの説いているのか、と切り返すと、師は舌を出して見せます (注17)。

(注13) ほとけ世界には大小がないという説法 (注14) 芥子は中国ではからし、からし菜の葉もので作ったこころづくし料理が飯台にのっていた、というダジャレのようです (注15) 自分がほとけの世界には大小はないといま言ったばかりなのに、雑と細の区別はあるというのか? (注16) 昨日の献立と似ていると臨済さんが誘導するので、即座に昨日と同じ行動を取ります、でも臨済さんは昨日と違うソフトな対応を期待していたようです (注17) めくらと言われたので、おし (唖) で返しますが、これは舌頭坐断 (ほとけがあらわれたときの言葉の出にくい感覚) でもあり、ついでにほとけの実演もやってるようです



師一日、與河陽木塔長老、同在僧堂地爐内坐。因説、普化毎日在街市、掣風掣顛。知他是凡是聖。言猶未了、普化入來。師便問、汝是凡是聖。普化云、汝且道、我是凡是聖。師便喝。普化以手指云、河陽新婦子、木塔老婆禪。臨濟小廝兒、却具一隻眼。師云、這賊。普化云、賊賊。便出去。

師はある日、河陽を木塔長老に引き合わせ、二人とおなじように僧堂の囲炉裏をかこんで座っています。たまたま出た話に、普化が毎日のように街に出かけ、ふらふらとうろついているが、あれは凡と聖の区別がわかっているのだろうか? その言葉が終わる前に普化が部屋に入って来たので、師がすぐに問います、おまえは凡だろうか、聖だろうか? (注18) 普化は、おまえこそすぐに言え、わたしは凡か聖か? (注18) 師が即座に一喝すると (注19)、普化は手で指差して、河陽は (新米の) 若奥さん、木塔は話がくどくどと長い年寄りで、臨濟は使い走りの小僧っこ、だけどほとけの一隻眼はもっているようだな。師は、このドロボーめ (注20)、と言うと、普化はドロボードロボーと言いながら、そのまま出て行ってしまいました (注21)。

(注18) 凡か聖のどちらかを答えると間違いになります (注19) これが正解例 (注20) 臨済さんがほとけをあらわしたことを、即座に見抜いて自分のものにしている (注21) ドロボーなので、臨済さんの言葉を盗んですぐに逃げ去ります。



一日普化在僧堂前、喫生菜。師見云、大似一頭驢。普化便作驢鳴。師云、這賊。普化云、賊賊。便出去。

ある日、普化が僧堂の前にいて、生の菜っ葉を食べていました。師はこれを見て、ロバが一頭いるようだな、普化がすぐにロバの鳴きまねをすると (注22)、師はこのドロボーめと言い、普化はドロボードロボーと言いながら、そのまま行ってしまいました。

(注22) 師の頭の中にいるイメージのロバを盗んで、自分とロバの区別のない、一体世界に入り込んでいます



因普化常於街市搖鈴云、明頭來明頭打、暗頭來暗頭打、四方八面來旋風打、虚空來連架打、師令侍者去、纔見如是道、便把住云、總不與麼來時如何。普化托開云、來日大悲院裏有齋。侍者囘擧似師。師云、我從來疑著這漢。

普化はいつも街に出て行き、鈴を揺らしながらこう言っています。はっきりとした頭で来れば、はっきりとした頭で打ち、ぼんやりとした頭で来れば、ぼんやりとした頭で打ち、四方八方からやってくれば回転打ちで返し、虚空から来れば、連打して返します (注23)。

師は侍者に指示して (そこに) 行かせ、こっそりとその様子を伺わせたあと、侍者はすぐに普化をつかまえてこう言います。それら総てがやってくることがなかったら、どうするのか? 普化はその手を払いのけて言います、明日は大悲院で、ふるまいご飯にありつけるんだい (注24)。侍者が戻ってきて師にこれを報告すると、師は、わたしは以前からあの男がそれを身につけているのでは? と思っていたよ。

(注23) 普化和尚はかなりの達人で、その説法は意識と認識のレベルについて語っているようです

明頭→はっきりとした理性で俗物感覚
暗頭→ぼんやり感でほとけの入り口
四方八面→五感のこと
虚空→ほとけ感覚

この最後の虚空も意識しなくなると、達人レベルとなり、臨済さんは使いをやって、それがどんなものか普化に語らせようとします。

(注24) その答えがこれ、ありふれた日常語であり、すべての感覚が消えれば、それが真理となり、大悲院のお齋と同じで、平凡な生活そのものを、ありがたく受け入れればよいではないか、というのが普化和尚の説法です



有一老宿參師。未曾人事、便問、禮拜即是、不禮拜即是。師便喝。老宿便禮拜。師云、好箇草賊。老宿云、賊賊。便出去。師云、莫道無事好。 首座侍立次、師云、還有過也無。首座云、有。師云、賓家有過、主家有過。首座云、二倶有過。師云、過在什麼處。首座便出去。師云、莫道無事好。 後有僧擧似南泉。南泉云、官馬相踏。

ある一人の老僧が師に会いにやって来て、まだロクに師の顔も見ない内に質問をします、礼拝をすれば是 (ほとけ) でしょうか、それとも礼拝をしないほうが是 (ほとけ) でしょうか? 師はたちまち一喝し、老僧はすぐに礼拝します。師が、やり手の流れ盗賊みたいだな、と言うと老僧は、盗っ人盗っ人と言いながらすぐに出て行ってしまい、師は、このまま無事に済むと思うなよ、と言います (注25)。

傍に控えていた首座に師が、この対応に間違いがあったかな? と聞くと首座は、有りました、と答えます。師が、客の対応に間違いがあったか、主人の対応に間違いがあったか? と聞くと、首座はお二人ともに過ちが有ります。師がどのあたりかな? と言えば首座はそのまま出て行ってしまい、師が、このまま無事に済むと思うなよ、と言います (注26)。

のちにある僧が南泉という人にこの話をすると、南泉は、厩の中で (二頭の) 馬がお互いの脚を踏んで場所を取り合っているようだな (注27)。

(注25) ドロボーは相手の提示したほとけ感覚を見抜き、自分のものにするという意味で、ホメ言葉です (注26) 老僧にほとけを盗まれてしまったのは過ちですが、ちょっと油断したすきにまた首座に盗まれてしまいました、ついでに首座は老僧からも盗んでいるようです (注27) 狭い馬屋のなかのつま先で場所を取り合うように、達人たちがビミョーさについて点検中です



師因入軍營赴齋、門首見員僚、師指露柱問、是凡是聖。員僚無語。師打露柱云、直饒道得、也秖是箇木橛。便入去。

師が軍営でのお齋に呼ばれてでかけ、入り口で軍の人たちを見つけると、師は道ばたの柱を指差して、これは凡か聖か? と言いますが、その場にいた人たちはみな言葉がありません。師はその柱を叩いて、たとえなにか言うことが出来たとしても、これはありふれた木の杭でしかないのだ、といってすぐに中に入ります。 (注28)。

(注28) 凡か聖かという問いの答えが 「ありふれた木の杭」、ただし露柱→ありふれた木のくい、と名前を呼び変えていることに注意します。どうもこの軍人たちは理解がいまいちなようで、かわりに露柱を打ってほとけをあらわします。



師問院主、什麼處來。主云、州中糶黄米去來。師云、糶得盡麼。主云、糶得盡。師以杖面前畫一畫云、還糶得這箇麼。主便喝。師便打。

師が院主に聞きます、どこに言って来たんだ? 院主は言います、この近くで黄米を売るために歩き回って、戻ってきたところです。師は、それを売り尽くすことはできたか? (注29) 院主、売り尽くしました (注29)。師が杖で空中にまるく円を描いて、売り歩いてこのようなものは得られたかな? (注30) と聞くと院主は一喝し、師はすぐに打ちます (注31)。

典座至。師擧前語。典座云、院主不會和尚意。師云、你作麼生。典座便禮拜。師亦打。

台所がかりの僧がやってきます、師が院主の話をすると、その僧は、院主は和尚の言った意味がわかっていませんな、師は、おまえはどう思う? その僧は礼拝し、師はまた打ちます (注32)。

(注29) 「尽くす」 という表現がポイント、こころが尽きた場所にほとけがあらわれるわけで、すでに質問モードに入ってます (注30) 円相はこころが尽きたほとけ世界をあらわします (注31) 円相は完璧なほとけですが、一喝や打つこともほぼ同じ意味なので、とりあえず両方やっときます (注32) 黄米と黄檗にひっかけて、黄檗和尚十八番の、五体倒地を実演してるところでしょうか、ややマニアックな感じ



有座主來相看次、師問、座主講何經説。主云、某甲荒虚、粗習百法論。師云、有一人於三乘十二分教明得、有一人於三乘十二分教明不得。是同是別。主云、明得即同、明不得即別。

ある座主がやって来たときのこと、師が問います、座主はどの経典を講義していますか? 座主が、わたしは大ざっぱで不勉強ですから、百法論のだいたいのところを習っただけです。師が言います、ある一人は三乘十二分教の意味を明らかにしていて、ある一人は三乘十二分教の意味を明らかに出来ません、この二人は同じでしょうか、別でしょうか? 座主が言うには、明らかなら即座に同じであり、明らかでないならば即座に別です (注33)。

樂普爲侍者、在師後立云、座主、這裏是什麼所在、説同説別。師囘首問侍者、汝又作麼生。侍者便喝。 師送座主囘來、遂問侍者、適來是汝喝老僧。侍者云、是。師便打。

樂普が侍者となっていて、師の後ろに立って言います。座主よ、いまいる場所がどこかわかっていて、同じだとか別だとか説くのですか? (注34) 師は首を回して侍者に問います、おまえはどう思う? 侍者は即座に一喝します (注35) 。

師が座主を送り届けて帰って来ると、ついに侍者に聞いてみます、先ほどのことはお前がわたしを一喝したのか? 侍者は、そうです、と言い、師はすぐに打ちます (注36)

(注33) 座主は臨済さんの質問を、経典の理解と不理解→ほとけ世界の場合と俗物世界の場合、と無難にすりかえています (注34) 侍者は、いまいる場所がほとけ世界なので、同じと別の区別はないはず、とクレームをつけます (注35) 一喝は区別がないほとけ世界という意味 (注36) 経典の理解度は俗物世界の話題だったので、臨済さんも樂普を打ってほとけ世界にもどります



師聞第二代徳山埀示云、道得也三十棒、道不得也三十棒。師令樂普去問、道得爲什麼也三十棒、待伊打汝、接住棒送一送、看他作麼生。普到彼、如教而問。徳山便打。普接住送一送。徳山便歸方丈。 普囘擧似師。師云、我從來疑著這漢。雖然如是、汝還見徳山麼。普擬議。師便打。

師は、二代目である徳山和尚が説法で、言うことが出来れば三十棒、言うことが出来なくても三十棒、と言っているのをうわさに聞きます。師は樂普に指示して (徳山のもとに) 質問するために行かせますが、「言うことができたら、なんのために三十棒を受けるのですか? 」 と聞けばそのとき徳山はおまえを打つはずだから、はじめに肩に触れたとき、そのくっついた棒を押さえて (動かないようにして)、徳山がどうするか見て来なさい。

樂普は徳山のところに到り、教えられたとおりに問い、徳山が即座に棒で打とうとすると、樂普は棒が肩に触れたところで押さえてしまい (注37)、徳山はすぐに方丈に帰ってしまいました (注38)。

樂普が帰って来て師に報告すると、師は、わたしは以前からあの男がそれを身に付けているのでは? と疑っていたよ。そんなわけだが、おまえは徳山の様子をどう見たのかね? 樂普が固まってしまうと、師はすぐに打ちます。

(注37) 棒は叩かれたときにほとけが出るので、叩く前に肩で固定されてしまうと叩けなくてほとけを出せません (注38) 仕方がないので、自分でほとけを表現しますが、帰るのは何処去 (どこへ去るのか?) の質問でおなじみの、こころのふるさとへ帰るようです (認識が空っぽになった意識の状態)



王常侍一日訪師。同師於僧堂前看、乃問、這一堂僧、還看經麼。師云、不看經。侍云、還學禪麼。師云、不學禪。侍云、經又不看、禪又不學、畢竟作箇什麼。師云、總教伊成佛作祖去。侍云、金屑雖貴、落眼成翳、又作麼生。師云、將爲你是箇俗漢。

(知事の) 王常侍がある日、師を訪れ、師が僧堂の前にいるのを見つけたので質問をします、この寺の僧はどんな経を読むのでしょう? 師は、経は読みません、王常侍が、どのようにして禅を学んでいるのでしょう? 師は、禅は学びません、と言います。

王常侍が、経もまた見ないし、禅もまた学ばないなら、結局ここではなにをやっているのですか? 師は、教えているすべては、ほとけを現し、指導者を作り、そして送り出すことです、と言います。王常侍は 「金箔は貴重品ですが、目に入れば目やにのもと (注39) 」 、といった話でしょうか? と言い、師は、あなたみたいな俗物のためにあるような言葉ですね、と言います (注40) 。

(注39) ほとけは価値あるものだけど、使い方を間違えると体にワルい (注40) 王常侍は臨済さんの有力な後援者であり、かなりな知識人でもあるようで、相変わらず毒舌な臨済さんですが、この場合はホメ言葉であり説法にもなっています



師問杏山、如何是露地白牛。山云、吽吽。師云、唖那。山云、長老作麼生。師云、這畜生。

師は杏山和尚に問います、露地にいる白牛 (注41) とはどんなものだろうか? 杏山 「もーもー 」 (注42) 師が、喋れないことかい? (注43) と言うと杏山が、長老はどう思います? 師は、ただの動物だろ (注44) 、と答えます。

(注41) 法華経のたとえ話で、家が火事なのに気づかない無知な庶民を救ってくれる白牛の車で、神秘化されたほとけのイメージ (注42) 言葉のない世界 (注43) 言葉の出ない感覚 (注44) ほとけは非イメージのただの感覚ですから、神秘化されたイメージはとりあえず壊さなくてはいけません



師問樂普云、從上來一人行棒、一人行喝、阿那箇親。普云、總不親。師云、親處作麼生。普便喝。師乃打。

師が問い、樂普に言います、以前から、一人は棒で叩き、一人は一喝するものがいます、このうち (ほとけの) 意味が良くわかっているのはどちらだろう? 樂普は、どちらも意味がわかっていません。師が、良くわかるというのはどういうことだろう? と聞くと、樂普は一喝し、それを見た師は棒で打ちます (注45)。

(注45) 一喝や棒を使ってほとけを知るものは、その意味を良くわかっていない、という逆説ムジュン表現、ほとけは知識でなく感覚ですから、知識を知ることと、感覚を知ること、この二つの言葉の意味を厳密に分類定義して、選り分けているところです



師見僧來、展開兩手。僧無語。師云、會麼。云、不會。師云、渾崙擘不開、與汝兩文錢。

師は僧がやって来るのを見ると、両手を広げてみせます。師がわかったかい? と言うと僧は、分かりませんと答え、師は、ほとけの山は (門の金具を) 撃っても扉が開かず、おまえに (通行料の) 二文銭ぐらいならくれてやるよ。(注46)

(注46) 臨済さんがほとけ世界への入り口である門を実演していて、門を叩いてもそれは開かず、なにやら通行料が必要なようですが、その両文銭とはもちろん棒と喝なわけで・・



大覺到參。師擧起拂子。大覺敷坐具。師擲下拂子。大覺收坐具、入僧堂。衆僧云、這僧莫是和尚親故。不禮拜、又不喫棒。師聞、令喚覺。覺出。師云、大衆道、汝未參長老。覺云、不審。便自歸衆。

大覺という坊さんがやって来て、師がほっすを立てると、大覺は座具を敷きますが、師はほっすを投げ捨ててしまい、大覺も座具をかたずけ、僧堂の方へ出ていっていまいました (注47)。集まった僧たちは、あの僧は臨済和尚の古い知り合いというわけでもなさそうだが、礼拝もせず、また棒で打たれることもなかった、と言い合います。

師はこれを聞いて、大覺を呼びに行かせて、大覺が来ると言います、ここにいるみんなは、あなたがまだわたし (長老) と話をしていないと言ってます。すると大覺は、(なんのことか) わかりませんな (注48)、と言って僧たちの中に入ってしまいました。

(注47) 言葉がなくて、感覚という名前の空気を読み合っていますが、二人ともほとけを表現できたようです (注48) 最初の対面でほとけを出し会っているので、挨拶は終わっていますが、また呼ばれたので 「不審 (わからない)」 とサービス説法をします、この大覺和尚もかなり達者な人のようですね



趙州行脚時參師。遇師洗脚次、州便問、如何是祖師西來意。師云、恰値老僧洗脚。州近前、作聽勢。師云、更要第二杓惡水溌在。州便下去。

趙州和尚が諸国行脚をしていたとき、臨済さんのもとに立ち寄りましたが、たまたま師が足を洗っているところに出会い (注49)、すぐに質問します、だるま大師が中国にやって来た真意 (祖師西來意) とはどのようなものでしょうか? (注50)

師が、ちょうどだるま禅師が (老僧) 足を洗っているところですよ(注51)、というと趙州は師の前に近寄って、耳を傾ける姿勢をとります(注51)。師が、さらにもう二杯目の汚れ水を (地面に) 撒かなくてはいけないようですね (注52)、と言うと趙州は師の前から下がり、そのまま立ち去りました (注53)。

(注49) 與老洗脚という定番表現ですが、真理とともにだるま禅師があらわれるので老師の足を洗ってあげます (注50) これも標準的な質問で、ほとけとは何か? と聞いています (注51) だるま禅師がこの場にいるようなので、趙州和尚がその声に耳を傾けます (注52) 趙州もほとけを理解した二人目のだるまさんですね、というホメ言葉 (注53) こころの帰るべき場所に立ち去ります



有定上座到參。問、如何是佛法大意。師下繩牀、擒住與一掌、便托開。定佇立。傍僧云、定上座何不禮拜。定方禮拜、忽然大悟。

定上座というものがいて、やって来ると問答の座につき、仏法の大意とはどのようなものでしょうか? と質問します。師はその縄椅子から降りてきて、定の着物をつかんで顔を平手打ちすると、すぐにその手を放します。

定はぼう然として立ったままですが、傍に控えている僧に、定上座さんはなぜ礼拝されないのですか? (注54) と言われ、定が師に向き直って礼拝をしようとするとき、その呆然とした感覚がなにかに気ずきます (注55)。

(注54) 臨済さんはほとけを教えたので、礼拝するのが礼儀です (注55) このぼんやりとした空白感が、ほとけ世界への入り口となります



麻谷到參。敷坐具問、十二面觀音、阿那面正。師下繩牀、一手收坐具、一手搊麻谷云、十二面觀音、向什麼處去也。麻谷轉身、擬坐繩牀。師拈拄杖打。麻谷接却、相捉入方丈。

麻谷がやって来て自分の座具を敷いて問います、十二面観音はどの顔が正面でしょうか? (注56) 師は縄椅子を降りてきて、片手で麻谷の座具を取り上げ、もう一方の手で麻谷の着物をつかんで言います、十二面観音はどこかに向かって去ってしまった (注57)。

麻谷が体をかわして師の座っていた縄椅子にすわろうとすると、師は棒を振り回して打ちますが、麻谷はそれをつかんでしまい、互いにつかみ合ったまま方丈に入って、見えなくなりました。

(注56) 意識の中には五感や、記憶や妄想イメージといろいろありますが、その中で意識がいま焦点を当てて認識されているものが、十二面観音の正面という比喩表現です (注57) このページ一番上のイラスト参照



師問僧、有時一喝、如金剛王寳劍。有時一喝、如踞地金毛師子。有時一喝、如探竿影草。有時一喝、不作一喝用。汝作麼生會。僧擬議。師便喝。

師が僧に問う、ある時の一喝は、金剛王の持つほとけの宝剣のようであり、ある時の一喝は、地にうずくまる金色のライオンのようであり、ある時の一喝は、竿で草むらをかき分けて探し物をするようであり、ある時の一喝は、一喝としてのはたらきを現しません。おまえはこのことをどう理解するのか? 僧は答えられず、師はすぐに一喝します。(注58)

(注58) 一喝の効用を分類した三玄ぷらすアルファで、順に、迷いを断ち切るほとけの剣、うずくまるライオンの恫喝、相手のこころの中を選り分けて探索する竿、の三つ、これに初心者の意味がわかってなくて、効き目もない一喝が付け足されているようです



師問一尼、善來惡來。尼便喝。師拈棒云、更道更道。尼又喝。師便打。

師が一人の尼に問います、善が来て悪が来ます (注59)。尼はすぐに一喝しますが、師がさらに棒を振り回して、もっと言え、もっと言え (注60)、と言うとまた尼は一喝し、師はすぐに打ちます (注61)。

(注59) 六祖慧能禅師の説法である、善も悪も思わないとき、本来の面目 (ほとけ感覚) が現れる、の反対問答です (注60) 善去悪去が答えなので、一喝で正解ですが、これでは形式的なので本当にわかっているかどうかを確認するために、さらに別の答えを求め、これが臨済さんの言う三要にあたります (注61) 尼は他の答えができないので、また形式だけの一喝で返し、意味わかってませんが、これが喝の分類にある、役にたたない不作一喝用の見本です



龍牙問、如何是祖師西來意。師云、與我過禪板來。牙便過禪板與師。師接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。 牙後到翠微問、如何是祖師西來意。微云、與我過蒲團來。牙便過蒲團與翠微。翠微接得便打。牙云、打即任打、要且無祖師意。 牙住院後、有僧入室請益云、和尚行脚時、參二尊宿因縁、還肯他也無。牙云、肯即深肯、要且無祖師意。

龍牙が問います、だるま大師がこの中国にやってきた真意とは、どんなものでしょうか? 師が、禅板をこっちに持って来て渡してくれないか? と言うので、龍牙が持って来て禅板を手渡そうとすると、師は受け取った瞬間に禅板で龍牙を打ちます。龍牙は、即座に打つのは打つのにお任せしますが、要するにだるま大師の意図はないようですね (注62)。

しばらく後に龍牙は翠微のところにやって来て問います、だるま大師がこの中国にやってきた真意とは、どんなものでしょうか? 翠微は、そこの座布団をこっちに持って来て渡してくれないか? と言うので、龍牙が持って来て座布団を手渡そうとすると、翠微は受け取った瞬間に座布団で龍牙を打ちます。龍牙は、即座に打つのは打つのにお任せしますが、要するにだるま大師の意図はないようですね (注62)。

龍牙が自分の寺の住職に落ち着いた後のこと、ある僧が教えを受けに部屋に入って来て言います、和尚が修行行脚をしていたとき、この二人の名人師匠に教えをうけた話は、和尚には意味がわかったのですか、それともわからなかったのですか? 龍牙は言います、わかるのは即座に深くわかったが、要するにだるま大師の意図というものはないようだな (注62)。

(注62) 無祖師意、は面白い言い回しで、だるま禅師の考えはなかった、ですが、だるま禅師は、無を中国に伝えようとしてやって来たのであり、「なにも考えないこと」 がその考えである、とひねった逆説表現になっています



徑山有五百衆、少人參請。黄檗令師到徑山、乃謂師曰、汝到彼作麼生。師云、某甲到彼、自有方便。師到徑山、裝腰上法堂、見徑山。徑山方擧頭、師便喝。徑山擬開口、師拂袖便行。 尋有僧問徑山、這僧適來、有什麼言句、便喝和尚。徑山云、這僧從黄檗會裏來。你要知麼、且問取他。徑山五百衆、太半分散。

徑山には五百人もの修行僧がいましたが、師匠に参じて学ぼうとするものも少ないので、黄檗は臨済に徑山に行かせることにして指示します、おまえは向こうに行ったらどうするつもりなんだい? 師は、わたしがあちらに行ったら、よいやり方が有ります。師が徑山に着くと、はかま姿で法堂に上がり、徑山和尚を見ますが、徑山が頭を上げて臨済のほうを向いた瞬間に、師は一喝します。徑山が口を開いてなにか言おうとしたその瞬間、師は袖を払ってすぐに行ってしまいました。

有る僧が徑山和尚にたずねて問います、いまやって来た僧は、どんな言葉のやりとりで和尚を一喝したのですか? 徑山は、いまの僧は黄檗門下として従っていて、そこからやって来ているから、すぐに (追いかけて) 直接聞けばよいだろう。すると徑山の五百人は、半分ほどがいなくなってしまいました (注63)。

(注63) 新手の営業活動キャンペーンだったようです



普化一日於街市中、就人乞直裰。人皆與之、普化倶不要。師令院主買棺一具。普化歸來。師云、我與汝做得箇直裰了也。普化便自擔去、繞街市叫云、臨濟與我做直裰了也。我往東門遷化去。市人競隨看之。普化云、我今日未。來日往南門遷化去。如是三日、人皆不信。至第四日、無人隨看。獨出城外、自入棺内、倩路行人釘之。即時傳布、市人競往開棺、乃見全身脱去。秖聞空中鈴響、隱隱而去。

普化はある日出かけていった街中で、会う人ごとに着物をくれと頼みます、人はみな着物を与えますが、普化はどれも受け取りません。師は院主に指示して棺おけをひとそろい買って、普化が帰って来ると言います、わたしがお前にこれを与えるから、もう着物をねだって回るのは終わりにしなさい。普化はすぐにこれをかついで行き、街のあちこちで叫んで言います、臨済さんがわたしにこれを与えてくれたから、もう着物は要りませんよ。

普化は、わたしは町の東門に行ってあの世に旅立ちます、と言うと街の人々はこれを見ようとついていきますが、今日はまだのようだから、明日南門であの世に旅立ちます、と言い、こんなことが三日つづき、ひとびとはみな信用しなくなりました。

四日めになって、見物人がだれもついて来なくなると、一人で城の外に出て自分で棺おけに入り、路を行く人に頼んで釘を打ってもらいます。このうわさはすぐに伝わり、街の人たちが競ってやって来て棺おけを開けてみると、中身はからっぽで、ただ空中に鈴の響きが聞こえ、それがだんだんと遠ざかっていきました。(注64)

(注64) さすがにこの最後の話だけは意味わからなかったので、虚空に鳴りひびく鈴の音のフンイキだけお楽しみください・・・。




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