【富城入道殿御返事】 ・・・・弘安四年(1281) 第二次蒙古来襲の後始末を富城常忍に指示しています、とくにモンダイなのが京都や関西周辺で蒙古調伏の一大キャンペーンをはって見せた、真言律宗の名僧、思円上人 (叡尊) の評判が関東にも伝わるらしく、公式な祈祷をまったくやっていない日蓮一門と比較されるわけで、その言い訳が話の焦点でメインとなります。

弘安四年十月、身延にて富木胤継どのに与えるものです (注1)

今月十四日 (送っていただいた?) のお金は (御札) 同じく月の十七日に到着いたしました、またこのあいだの (いただいたお手紙の??) 後の七月十五日のお手紙 (御消息) と同時に二十表のお米も到着いたしました (同じて二十比到来せり)、そのほかにたびたびのお金などをいただいた (貴札を賜う) といえども年寄りの病の為ということがある上にまた食事ものどを通らないありさまなので (不食気に候間) いまだお返事も書くことができず (未だ返報を奉らず候条) 少なからず恐縮に思っています (其の恐れ少からず候)、

何よりも (先にお答えしなくてはいけないのは?) この間の七月のお手紙に書いてあった博多では (鎮西には) 大風が吹いたようで港や島には (浦浦島島に) 破損した (蒙古の?) 船が充満していて(注2)、しかもその間の (間乃至) 京での思円上人 (注3. のこと??) はまたどんな理屈でそうなるのだろうか? などなどといったことで (理豈然らんや等云云)、このことは個別には (別して) わたしたち (此の) 一門の大事であり (注4)、もっと大きく言えば (総じて) 日本国にとって凶事なのであり、そんなわけなので (仍つて) 病を忍んでちょっとこのことについて言っておきたいのです (一端是れを申し候はん)、これはただひたすら日蓮の評判を落とそうと (失わんと為て) あるはずのないことを言う人たちが以前からいることを知っています (無かろう事を造り出さん事兼て知る)、そのわけというのは日本国の真言宗等の七宗八宗の人びとの重大な罪が (大科) 今に始じまったことではなく、そのようなこととはいえすぐに一例を挙げてすべてに通じる理屈を説明したいのです (注5. 然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん)、

むかしの承久といわれた時のことですが (注6. 去ぬる承久年中に、1222年承久の変のこと) 後鳥羽上皇が執権の北条義時を呪い殺すための加持祈祷を (隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を) 東寺や三井寺などの座主に (山の座主東寺御室七寺園城に) 仰せ付けられて、これのために (???) 同三年 (承久三年) の五月十五日には義時の (鎌倉殿) 代官である伊賀光季を (伊賀太郎判官光末) 六波羅に (襲撃して?) 殺害します (失わしめ畢んぬ)、そうこうする間同月の十九日と二十日には鎌倉中が騒然となり同月の二十一日中仙道東海道北陸道 (山道海道北陸道) の三道より十九万騎の兵たちが京都を目指して登りはじめます (注7. 指し登す)、

同年の六月十三日になってその夜の戌亥あたりの時間から青天にわかにかき曇り (陰り) 地面が震え稲妻がひかって (震動雷電) 武士たちの首の上に鳴りかかり鳴りかかりした上に、間断なく降る (車軸の如き) 雨は篠竹が立っているように見えるほどです、ここまで (爰に) 十九万騎の兵たちは遠い道を (京に向かって) 登ってきた急な出来事なので (兵乱に) 米は尽きてしまうし馬も疲れてしまい付近の住民も (在家の人) みな隠れ失せてしまい、甲冑も雨に打たれて綿のようにふくらんでいます (緜の如し)、

武士たちは宇治川にかかる瀬田の橋に (宇治勢多) 押し寄せて来ますが、いつもなら三四百メートル (三丁四丁) の河幅だけれどもすでに六百七百十百メートル (六丁七丁十丁) といった幅におよびます、そうこうしている間にも三メートルや六メートル (一丈二丈) にもなる大石がまるで枯葉のように浮び、十五メートルから十八メートルほどの (五丈六丈) 大木が流れてきて川を塞ぐこと絶え間がありません、そのムカシ梶原景季と佐々木高綱が宇治川の先陣を争って (昔利綱高綱等) 渡った時とはまるで違い、武士たちはこれを見てみな臆病になったように見えますが、そうであっても今日を過ぎてしまえば皆が裏切ってしまうかもしれないので (心を飜し堕ちぬ可し去る故に) 馬をわたす筏を作り、馬を渡そうとするところであり、あるいは百騎あるいは千万騎といった勢いで (此くの如く) みなわれもわれもと渡ろうとはするけれど、あるいは百メートルあるいは二百三百メートルも渡った様子にはみえても向こうの岸に取り付く者は一人もいません、

そうする間にも緋おどし赤おどしなどの甲冑武者や (緋綴赤綴等の甲) そのほかに弓矢の兵は弓を杖のように持ち、かぶとに飾られた銀色の鋲が (白星の冑等) 川の中に流れ浮ぶようすは、なお九月十月の (長月神無月) 紅葉が吉野川立田川に浮んでいるようにも見えます、このありさまで (爰に) 比叡山、東寺、(南都?) 七寺、三井寺 (園城寺) などの高僧たちはをこの報告を聞いて真言の秘法大法の効き目があらわれた (験) とよろこびます、内裏の儀式所 (紫宸殿) には座主がすわり東寺御室のやり方である五壇十五壇の (護摩焚き祈祷???) 法をいよいよ盛んに行ったところ後鳥羽上皇の (法皇) お感激も (御叡感) きわまりなく地面に降りられ (玉の厳を地に付け) 大法師たちのの足を (上皇の???) 御手を使いさすっているので (摩給いしかば) 大臣や公卿たちも庭の上へ走り落ち、五体を地に付け高僧たちを敬いたてまつります (注8)。

 また宇治の勢田に向かった公家や天皇の側近たちは (公卿殿上人) はかぶとを持ち上げて (冑を震い挙げて) 大音声を放って言います、義時にしたがう御家人どもは (所従の毛人等) たしかに聞け (慥に承われ) 昔から今に至るまで朝廷に反逆するものは (王法に敵を作し奉る者は) だれであっても (何者) 安穏ではないのだ (安穏なるや)、狗犬が師子に吼えかけてその腹が破れなかったことは無く、修羅王が日月天を射ったときその矢がもどってきてその眼に当たらなかったこと無く、むかしの話は置いておいても (遠き例は且く之を置く)、近くはわが王朝の代が始まって天皇 (人王) 八十余代の間、大山の皇子、大石の小丸を始として二十余人が朝廷の (王法) 敵となったけれども一人としてその目的を (素懐を) 遂げた者はなく、みな首を獄門にかけられ亡きがらを山野にさらしている、(注9)

関東の武士たちや、あるいは源氏や平家のもの、あるいは公家たちや (高家等) 先祖からつたわる主君 (相伝の君) を捨てさってしまい (捨て奉り) 伊豆の国の臣民でしかない (民為る) 執権の北条義時が発した命令に (下知) 随うためにこんな災難に出会うのだ (出来)、朝廷にそむき (王法に背き奉り) 臣民の指示 (下知) にしたがう者は師子王が野狐にだまされて (乗せられて) 東西南北に迷走しているようなもの (馳走) 今生の恥でありこれをいかがするのか?、すぐにかぶとを脱ぎ、弓の弦をはづしてこちらの味方に参陣しなさい (参参) と招いているうちに、どうしたことか (何に有りけん) 夕方の五時ごろ (申酉) にも成ってくると関東の武士たちはぞくぞくと川を渡り (馳せ渡り) 圧倒的な数で攻めて来ますが (勝ちかかりて責めし) そのあいだに京方の武者たちは一人もいなくなり山林に逃げ隠れたりしています、(注10)

そうするうちに (間)、(注11、ここから承久の変の戦後処理です) 四人の皇族を (四つの王) 四つの島へ流罪とし (放ちまいらせ、注、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐国、後鳥羽上皇の皇子の六条宮は但馬国、冷泉宮は備前国へ) また高僧やそのその師匠や坊さんたちは (御師御房達) あるいは住んでいた寺を (住房) 追われ、あるいはこの恥ずべきできごとをそのままに (恥辱に値い給いて) 今に至るまで六十年の間、いまだその汚名挽回もしていないのに (はじをそそがずとこそ見え候に)、今またかれら僧侶の弟子たちが祈祷の以来を受けてやっている (候げに候あひだ) いつもの事ですから、秋風にとつぜん大波があって (纔の水) 敵の船や海賊の船などなどが破損して、敵の大将軍を生け取ったなどと言い (申し祈り) うまくいった報告をしているようすです (注12. 成就の由を申し候げに候なり)、

または蒙古の大王の首でも持ってきたのか? (注13. 参りて候かと) と聞いてみなさい (問い給うべし)、それ以外のことは (其の外は) いろいろ聞いてみてもなにも答えがありませんでした (いかに申し候とも御返事あるべからず) お知らせしたくて大ざっぱに書いておきます (注14. 御存知のためにあらあら申し候なり)。

この事情は (乃至) 日蓮一門の (此の一門の) 人人にも互いに伝達しておいてください (相触れ給ふべし) また間違いなく (必ず) しいぢの四郎どのの事はお話を聞いて了解いたしました (承り候い畢んぬ)、わたしは (予) すでに六十に手がとどく年なので (及び候へば) 天台大師の御恩に報い奉りたいと思っている (仕り候) ところであって (あいだに)、見苦しくぼろぼろの寺を (みぐるしげに候房を) 少し体裁よくしたい (ひきつくろい候 : 引繕う) というつもりもあり (ときに) 寺を作るお金に回そうと思い (さくれうにおろして候なり : 作料)、銭四貫を用意して (注15. もちて) すべての人々のために第一となるべき (一閻浮提第一) 法華堂を造りましたと霊山浄土に行ったときにはお釈迦さまにそう言えるようにしたいものです (御参り候はん時は申しあげさせ給うべし)、恐縮しております (恐恐)。

十月二十二日

日蓮花押


(注1) 六十歳にしてはまだまだ俗物臭が抜けない日蓮さんですが、この富木胤継は、常忍または日常と称し、現在の中山法華経寺あたりの領主さんのようです、日蓮さんと二人三脚で教団経営をする相方といった立場でしょうか (注2) ここはなかなか興味深くて、撤退したアト蒙古の船が残骸として博多湾に浮かんでいたようですね (注3) 思円上人は当時かなり有名なお坊さんだったらしく、日蓮さんがさかんに祈祷失敗の悪口を言っている鎌倉極楽寺の良観坊の師匠にあたります、この件は京都の岩清水八幡宮で朝廷に依頼されて公開の蒙古調伏の祈祷をやってみせたのが、評判になっていたということみたいですね (注4) 逆に日蓮さんはこのころ体調不良ですから祈祷できる状態ではなさそうで、いつも悪口を言っている真言律宗の祈祷の方が成功して蒙古が追い払われてしまい、日蓮さんの評判がガタ落ちになって苦しい立場にあるということみたいです (注5) またまた古臭い話を持ち出して律宗の成功にインネンをつけようとしているところ (注6) ここから承久の変の解説ですが、デタラメな仏教解説とは正反対で、こちらの軍記もの講釈はかなり上手でしかも面白く、日蓮さんは道を間違えた感が強いですね (注7) 鎌倉を中心とした東国軍は十九万、対する朝廷軍は二万なので、始めから勝負にはなりません (注8) 真言の祈祷が霊験をあらわして宇治川を増水させ一時でも東国軍を足止めしたのはスゴいことです (注9) さらに調子に乗って、東国勢に朝廷への帰参を呼びかけます (注10) いつの間にか状況が逆転して、朝廷側はボロ負けです (注11) キビシイ戦後処理で、負けたのは軍勢の数の差であり真言のせいではないと思いますが、なにがなんでも真言だけがゼッタイに悪いというのが日蓮さんの主張です (注12) 返す刀で今回の真言の成功を批判しますが、日蓮さんが祈祷をサボっていた事実は変わらないので、話をすり替えたネガキャンみたいなものでしょうか (注13) 蒙古王の首を手柄に持ってこないと勝っても価値がないのでしょうか? これは他人の成功を嫉妬したついでの悔しまぎれな捨てゼリフ、相変わらず首斬りネタがお好きな日蓮さんでもあります・・ (注14) 要約すれば、真言の祈祷は一時うまくいったように見えてもあとでかならず災難になるから、きっと蒙古が三度目に攻めてくれば日本はボロ負けになるはずという予言で、真言憎しにコリ固まって愛国心のカケラもないわけで、もっと言い様はないんでしょうか? (注15) 法華堂を作るお金を銭四貫用意したけれど、のこりはたぶん檀家さんに無心でしょうね、富城入道殿もなかなかタイヘンなようです・・



【三沢抄】 身延入りして何年か経ち、弟子たちの布教活動にも効き目があらわれ、駿河の国にも檀家さんがようやくできたようです、そして佐渡で思いついた日蓮さんのアヤしげな日蓮本仏論の原型は、ここでそろそろ仏教知識に無知な人々相手にテスト試運転が始まるわけで・・

三沢小次郎どのに与えます

建治四年二月 (注20)

返す返すも駿河の人たちはみな同じ思い (御心) であると言わせていただきます (申させ給い候へ)。

蜜柑を百個、こぶ海苔おご海苔など (柑子一百こぶのりをご等) の生の物をはるばるとわざわざ山中へお送りいただき、ならびにうつぶさの尼どのからは、男物の? 小袖一そろいもいただきました (ごぜんの御こそで一給い候い了んぬ)。

さて、みなさまの仰せになる疑問点を??? 詳しく見て考えましょう (注21. さてはかたがたのをほせくはしくみほどき候)。

そもそも (抑) 仏法を学ぶ者は大地にある無数のこまかいチリ (微塵) よりも多いけれど (をほけれども) 本当に仏になることができる人は爪の上の土よりも少ないとお釈迦さまの涅槃経に (大覚世尊涅槃経) たしかに説かれていますが (とかせ給いて候いしを)、わたくし日蓮が見るところ、どうしたわけでこのように分かれてしまうのかと (かくわかたかるらむと) 考えてみるほどに、やはりそうであろうと思うことがあります (げにもさならむとをもう事候)、たとえ仏法を学んだとしてもあるいは自分の心が愚かであることにより、あるいはたとえ智慧が賢いようであっても師の影響を受けて自分の心が曲がってしまうのに気がつきません、仏教というのはこのように習い得ることがむずかしいのです (注22. なをしくならひうる事かたし)、

たとえ明らかにわかった師匠であり (並) 法華経の意味を理解して正法を得たような人であっても (実経に値い奉りて正法をへたる人なれども) 生死のありさまを抜け出て仏に成ろうとするときは、かならずこころのうら側に潜んでいるような (影の身にそうがごとく) 雨に雲がかならずあるように三障四魔と言う七番目の大事が出現します、たとえ辛うじて (設ひからくして) その六番目のステップを通過できても (六はすぐれども) 七つ目の関門で (第七に) 破れてしまうと仏に成ることはむずかしいのです、その六番目はとりあえず置いておき (且くをく) 第七の大難とは天子魔というものです(注23)、

たとえ末法の時代に生まれた凡夫が (末代の凡夫) お釈迦さまが生涯をかけて説法した内容のこころ (一代聖教の御心) をさとり摩訶止観と呼ばれる大切な説法のこころを (大事の御文の心) 理解して自分のものとし (心えて) 仏に成るような状態になれば (べきになり候いぬれば) 第六天の魔王はこの事を見て驚いて言うには、なんと嘆かわしいことだろう (あらあさましや) このものがこの国に居座るのなら (跡を止ならば) そのものが生死の束縛を (かれが我が身の生死) 抜け出すかは別としても (いづるかはさてをきぬ) また人々を導いてしまい、またはこの国土を押さえ取って (をさへとりて) わたしの領地 (我が土) 浄土にしてしまう(注24)、

どうしたものかと (いかんがせんとて) 欲界色界無色界の三界に住むすべての手下どもを集めて (一切の眷属をもよをし) こう仰せられます、それぞれの才覚に (各各ののうのう) したがってこの行者を悩ましてみなさい。もしこのものに勝てなければ (それにかなわずば) このものの (かれが) 弟子や信者 (だんな) ならびに国中の (国土) 人の心の内に乗り移り (入りかわり) あるいは諌めあるいは脅してみなさい、それでも敵わないのなら (叶はずば) わたし自らが天より降りてきて (我みづからうちくだりて) 国王のこころに乗り移って脅してみて (をどして見むに) どうやってもこの国に留まれないように追求するつもりです (注25. いかでかとどめざるべきとせんぎし候なり : 詮議し)。

わたくし日蓮は以前からこんなことだろうと見透かしていて (かかるべしとみほどき候いて) 末法の世の (末代の) 凡夫として今生のうちに仏に成る事はむずかしいこと (大事な) なのであり、お釈迦さまの (釈迦仏) の仏に成られたいきさつは (ならせ給いし事) いろいろな経典に多く (経経) 説かれていて (あまたとかれて候) 第六天の魔王のもたらした災難は (いたしける大難) なんとしてでも耐え忍べるようにも見えません、提婆のような人たちや多阿闍世王の悪事はひとえに第六天の魔王にだまされている (たばかり) ように見えます、ましてお釈迦さまの生きているときでさえ遺恨や嫉妬があるのに、その亡くなられたあとはいうまでもない (如来現在猶多怨嫉況滅度後) と言われるように、お釈迦さまが (大覚世尊) 生きていたときの災難であっても (御時の御難だにも) 凡夫の身である日蓮にこのような難儀は (かやうなる者) 片時とはいえ一日も耐えられないものです (注26. 忍びがたかる)、

まして五十余年もの間にあれこれと難儀を受け (種種の大難をや)、まして末法の時代には (末代) これらの災難は (此等は) 百千万億倍にも大変なことになる (すぐべく : 過ぐ) 大難をどうやって耐えることができるかとあれこれ考えていたのですが (心に存して候いしほどに) 聖人は未萠を知ると言いまして、過去現在未来を見通して (三世の中) 未来のでき事を知る力のある人がまことの聖人と言います、ところが (而るに) わたくし日蓮は聖人ではありませんが日本国の今の世 (代) に生き合わせて (あたりて) この国がまさに滅亡しかけていることを (亡亡たるべき事) かねてから知っていたものですから、これこそお釈迦さまが (仏の) 説明された (とかせ給いて候) 自分が死んだアトの (況滅度後) 経文に該当するもので (あたりて候へ)、これを言い出すならば (その人が???) お釈迦さまが予言された (指させ給いて候) 未来の法華経の行者なのです (注27)、

知っていてしかも話さないとすれば (注28)、ながらく伝わってきた (世世生生の間) 教えを??? 失うことにも (うしことども) なりかねず (り生ん上) お釈迦さまに (教主釈尊) 恨まれる敵となり (大怨敵) その国の国主のかたきともなり (大讎敵 : 大讐敵) 他の人たちならともかく (他人にあらず)、後に無間地獄に堕ちるのはこんな人かと (後生は又無間大城の人此れなりと) 考えたあげく (かんがへみて) あるいは衣食に不自由し (せめられ) あるいは父母兄弟や師匠や同行の人たちにも諌められ、あるいは国主や万民にも脅されるために (をどされしに) ややこころがひるんでしまい (すこしもひるむ心あるならば) 一度には言わないでおこうと、ここ最近の間 (としごろひごろ) 心を戒めていましたが、そもそも (抑) 過去はるかむかし (遠遠劫) より決まっていたようで (定めて) 法華経とも同じように価値がある (値い奉り) ほとけのこころが起こってきます (菩提心もをこしけん)、なれどもたとえ一難や二難なら忍ぶことができるけれど大難が順に (次第に) 続いてやって来れば、いったんは退くこともあります (退しけるにや)、このつぎ (今度) いかなる大難にも退かない心づもりならばそう言うべきと経文にあるので??? (とて) そう言い出してみれば経文にたがわずこのたびあれこれの (度度の) 大難に出会ったのです (注29)。

 今はちょっと考えていて (一こうなり) いかなる大難にも耐えてみようと (こらへてん) 我が身に当てはめて自分のこころを観察すれば??? (心みて候へば) もっともなことと思うので (不審なきゆへに) この山林には住むことにしました (栖み候)、みなみなさまは (各各) またたとえわたしをこの山中に放置しているとはいっても (たといすてさせ給うとも) 一日やほんのひとときでも (かたときも) わたしの身命を助けていただいた人人なので、どうして他の人々と同じに思ったりしましょうか (いかでか他人にはにさせ給うべき)、もとよりわたし一人がどのようになっても (いかにもなるべし) わたしがどんな死に方をしたとしても (いかにしなるとも) 心に退いて考えを変える (退転) ことはなく、もし仏に成ることができるなら、みなさまを (とのばら) 導いていくことをお約束させていただくつもりです (注30)、

みなさまは (各各) 日蓮ほどには仏法をよく知らない俗人であり (上俗)、所領もあり妻子もあり郎党もあり (所従) ほとけを知りたいと願うことは難しく (いかにも叶いがたかるべし)、ただそんなこととは無縁に (いつわりをろかにて) 日常を暮らし (をはせかし) ているのだと言うべきありさまですが (申し候いきこそ候へけれ)、どんなことがあってもみなさまを??? 見捨ててしまうというような (なに事につけてかすてまいらせ候べき)、ゆめゆめそんな愚かな考えはもっていません (注31. をろかのぎ候べからず)。

また教義内容の (法門) ことは佐渡の国へ流されたそれ以前の説法は (已前の法門) ただお釈迦さまの (仏) 法華経以前のものとと同じもの??? (爾前の経) と思ってください (をぼしめせ)、この国の国主が自分の代を保とうとするなら (もたもつもつべくば) 真言の師匠たちにも同席を求め (召し合せ給はんずらむ)、そのときに (爾の時) まことの大事を申し上げるつもりで、弟子たちにも内々 (なひなひ) 言っていたのでそれを披露して弟子たちが知ることもなく (しりなんず)、そんなようであり (さらば : さあらば???) もうそんな機会に??? 会うこともないでしょう (よもあわじ) と思ってみなさまにも (をもひて各各にも) 言わなかったようなことです (注32)。

  ところが (而るに) 去る文永八年九月十二日の夜に龍の口で首をはねられようとした時から後になってからは、残されたものたちが??? 気の毒にも思うようになり (ふびんなり)、わたしに従った (我につきたりし) 者たちにまことの事をまだ言っていなかったと (いわざりける) 思って (をもうて) 佐渡の国から弟子たちに打ち明けていた教えがあります (注33. 内内申す法門あり)、

これはお釈迦さまより (仏より) 後の迦葉、阿難、竜樹、天親、天台、妙楽、伝教、義真、などの重要な師匠たちは (大論師大人師は) 知っていてしかも御心の中に秘めていたことであり、口より外には出したこともありません、その故はお釈迦さまが制して言うには (仏制して云く) 「わたしが死んだ後、末法に入らなければこの大法を口にするべからず」とあるためなのです (注34)、日蓮はその御使いではありませんがいまがその時代に相当する上に (時剋にあたる上) 思いもかけずこの教えを悟ってしまったので (存外に此の法門をさとりぬれば) 聖人がこの世に??? 姿を現す (出でさせ給う) まで、まずその前置きをおおざっぱに説明させていただきます (注35. 序分にあらあら申すなり)、

さて (而るに) この法門が出現すれば正法や像法の時代に経論講釈師や指導者の師匠たち (論師人師) が言っていた教えは (法門) みな太陽が出たあとの昼間の星のようにボンヤリと輝きを失い??? (皆日出でて後の星の光) 名人の技を見たあとにヘタクソのレベルが低いとわかるようなもので (巧匠の後に拙を知るなるべし)、この時になれば正法と像法の寺にある仏像や坊さんなどの (寺堂の仏像僧) 霊験はすべて消えうせ (注36)、ただこの大法のみが大衆に (一閻浮提) 広く伝えるべきもの (流布) であると思います (みへて候)、みなみなさまは (各各) このような教えに (かかる法門) 縁のある人たちなので (ちぎり有る人) 頼もしいことと思ってください (注37)。

また内房どの??? (うつぶさ) のできごと (御事) はお年を召されているのにお越しくだされて (御わたり) ご苦労さまである (いたわしい) とは思っているのですが、氏神へお参りしたついでということであれば、祈祷所に (けさん : 祈参?) に入ることはきっと罪深いことであり、そのわけは神は従者であり (所従) 法華経は主君なので、従者のついでに主君へのお参りに来たというのは (けさん) 世間であっても恐れ多いことです (をそれ候)、その上に尼のおすがた (御身) になっているのですからまず仏を先にすべきで、みなさまにも不都合 (御とが) があったのでお参りできないことになりました (けさんせず候)、このことはまた尼御前お一人には限らず、其の外のみなさまも (人人) 下部の湯(しもべのゆ)のついでとおっしゃる方を多数追い返しています、尼御前はわたしの親のようなお年であり、お嘆きするようすはお気の毒に思いますがこのりくつ (此の義) をお知らせしようと思ってのことなのです (注38)。

また三沢殿??? (殿) はおととしのこのお参りの (けさん) 後に意味を聞き違えたかもしれないし (そらごとにてや候いけん) そのままでは勘違いしたままになってしまうから (御そらう) と言い人を遣わして聞けばよいと言ってはみましたが、ここにいる弟子たちが (此の御房) 言うには、それはそうですが (さる事に候へども) 人を遣わしたらば気づまりにも (いぶせくや : 鬱悒くや) 感じられるでしょうからと言うので世間の習慣というのは (ならひ) そんなものかと、げんにお心ざしがまめである上にお忙しいところ (御所労) でしょうから、そのうちそちらかせお使いも有るでしょうと思っていましたが、お使いが来ることもなかったので、忘れていてもなにか不安に (いつわりをろかにてをぼつかなく) 思っていましたがその上、無常なのは世間の常のならひではあるけれど、ことしは世の中のしきたりにかまわず (世間はうにすぎて : 世間法) なにかお便りしようかという気にもなれず (みみへまいらすべしともをぼへず)、気にかかっていたのですが(こひしくこそ) 贈り物などいただき (御をとづれある) 嬉しい事は言葉もありません、尼御前にもこのことを細かく (このよしをつぶつぶ) 語っていただきたいのです (注39)、教えの中身は (法門の事) 細々と書きましたが長くなったのでこのへんでとどめておきます (注40)。

ただし禅宗と念仏宗と律宗などのこと少少前にもお話しましたが、真言宗がことにこの国と尊いひとたちを (たうどと) 滅ぼしています、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、弘法大師、慈覚大師、智証大師、この六人が大日如来の三部経と法華経との優劣を間違えた (迷惑) のみならず、三人の三蔵が言い出したことは、インドで始まったかのようにみせて (天竺によせて) 金剛界と胎蔵界のふたつのマンダラ (両界) を作り出す気が狂ったようなもので (狂惑しける) 日本の三人の大師はこれをそのまま (うちぬかれて) 日本へ習い伝え、国主だけでなく万民にも伝え、漢の国の玄宗皇帝もその治世を (代わ) 滅ぼし、日本の国もやや衰え始めて (やうやくをとろへて) 八幡大菩薩の百王のちかいも破られ、八十二代にあたる鳥羽天皇も (隠岐の法王) その権力を (代) 鎌倉に (東に) 取られてしまったのは、ひとへに三人の大師とそれに従う多くの僧侶が (大僧等) が真言の祈祷をしたために (いのりしゆへに) めぐり回って自分に帰って来たようなものです (還著於本人)、鎌倉幕府は (関東は) この真言と僧侶 (悪法悪人) を対治しないために十八代つづいて滅びようと (注41. 百王にて候べく) しています、

またこのようなまちがった教えの (悪法) 者たちに帰依するために (御帰依有) 一国には仏という主がいなくなり、そのほとけが下の者に言いつけ (梵釈日月四天の御計い) さらに他国にも仰せ付けて脅しているところなのです、また法華経の行者を遣わしてお諌めをしたのにこれに危険を感じることもなく (あやめずして : 危めず) それら真言の (彼の) 法師たちの言うことをもっともとして (心をあわせて) 世間ごとにとらわれてはいけない部分の (世間出世) 政道を破り、正しい教えを見過ごし (法にすぎて) 法華経のかたきになってしまったのです、すでに手遅れであり (時すぎぬれば) この国は蒙古に敗れようとしています (注42)。 はやりの疫病はすでに戦が始まる (せんふせわ : 戦布忙?) またしるしのようで、ザンネンなことです (注43. あさましあさまし)。

二月二十三日 日蓮花押

みさわどの


(注20) 五十七歳だそうで、残り寿命があと四年なわりにはまだまだパワー全開といった印象 (注21) ダレも聞いてないのに勝手に仏教講釈を始めるところで、このパターンの多い日蓮さんです (注22) 涅槃経のどこにあるのかわかりませんが、これはどの経典にもよく見られ、文献などには修行者のうち千人に一人か二人しか仏を理解できない、という言い方を見かけます (注23) ここからは20万字ほどある摩訶止観の中からたった四文字だけのフレーズである三障四魔を流用して日蓮さんが創作した天台風味な仏教おとぎ話のはじまりです、第六ステップを終了したら第六天の魔王が現われるのは、数字合わせ利用した刷り込みテクニックみたいなモンですかね? 12000行ある摩訶止観を検索すると、第六天の魔王という記述は9873行目に一回だけ出て来て、日蓮さん引用の三障四魔紛然競起は4145行目なので、修行の途中に魔王が出て来るわけではなさそうですね・・

三賢十聖住果報。乃至等覺三魔已過。
唯有一分死魔在。是爲界外三魔無第六天魔 但赤色三昧未究竟名天子魔。若妙覺理圓無明已盡。。(三人の賢者と十人の聖人はその行き着いた場所に住み、すでに等しく理解しているので三魔の領域はすでに過ぎ去り、ただ死魔のカケラが残っているだけです、このために世界は三魔の外にあり、第六天の魔王といった存在も無いのです、ただし赤く染まった強力なものがまだいて天子魔と名づけられますが、もしその不思議な理解をアタマに思い浮かべれば無明もすでに尽きていることを知るでしょう)


(注24) 摩訶止観を理解した行者が大衆をみちびいて、魔王の領土を乗っ取るんだそうです、でも↑上の摩訶止観には法華経の行者とは書いてないんで、テキトー拡大解釈という感じですね (注25) 魔王の手下どもが人々のこころに入り込んで行者のジャマをします (注26) 仏教者が迫害されたり、天変地異の災難がやって来るのは魔王の仕業で、それは末法になって一段とはげしくなり耐えられないものになるらしいです (注27) ここで唐突にお釈迦さまに予言された末法の行者がじつは自分であると言い出すわけですが、計算上はまだ釈迦滅後1700-1800年あたりなので鎌倉は像法の時代となって、日蓮さんのカン違いのようですね、それと聖人は未萠を知るワケで、聖人であることの証明としてなんとしても予言を当てなくてはいけないようなフンイキです

(ここで末法について・・)
お釈迦さまが説法を始めた年を初年度とし、そこから数えて始めの千年が正法の時代で、お釈迦様の教えが正しく行われますが、さらにつづく1001年目から2000年の千年間は像法 (鏡またはミラー) の時代となって、単なるお釈迦さまの教えの受け売りだけになります、さらに2001年から12000年までの一万年は末法の時代となり、お釈迦さまの教えがまったく語られることなく途絶えてしまいます。お釈迦さまの説法開始はB.C.550年あたり、この計算だと日蓮さんのいる鎌倉は1700-1800年あたりで日蓮さんは像法時代の坊さんとなり、末法にあらわれた聖人という日蓮教義の基本設定は根源から崩壊してしまいますが???

これには正法と像法が五百年きざみという説もあって、その場合には天台大師と最澄法師がともに末法の聖者となってしまい、みんな天台宗に帰依すればよいわけですから、逆に日蓮さんにとってはライバル出現となってかなり都合が悪いですね。

ちなみに日蓮さんが計算の根拠とした釈迦入滅はB.C.949年だそうで、現在では明らかな間違いなんだそうです・・・

(注28) ここで突然釈迦仏法の真髄を知っているとカミングアウトを始める日蓮さんです (注29) いろいろ迷ったけど、災難が自分に降りかかるのはやはり自分が経典に予言された聖人だった、という確信をもったようです・・(注30) ここまでのリクツで日蓮さんは自分が聖人らしいとわかったので、もし成仏できたアカツキには駿河の皆さまを特別待遇で扱ってかならず導いてさし上げますよ、という選挙公約のようなものを宣言してます (注31) 公約のダメ押しで、皆さまがシロートであっても決してダマしたりはしませんよ、という感じでしょうか、もちろんシロートのみなさんなので、プロの日蓮さんに文句をつけたりしてはいけませんよという前フリでもあり (注32) ここから佐渡で思いついたニュー日蓮仏法が仏教に無知なシロートさんに通用するかどうか試験運転が始まるわけで、なにやら国主と真言の高僧が同席する場でなければ口外できないハズの秘法を、駿河の皆さんにもコッソリと教えてくれるらしいです・・(注33) 弟子たちにはすでに打ち明けているそうなので、弟子も全員打ち合わせ済みのようですね (注34) ここが佐渡以降ニューシステムの核心で、日蓮さんは教外別伝の意味を 「内々に口伝すること」 とカン違いしてるのが明らかで、ちょっとシロートばればれですかね・・、釈迦仏教の意味がわからないらしく、その権威が自分につづいていると言いたいようですが、でもお釈迦さまからつづく相承の系図はあるんでしょうか? 比叡山天台との相承を示す証文類はいっさいないみたいで、さらに比叡山天台で習ったハズの師匠の名前が示されないのもアヤしいところです。そして相承のモンダイ以上にもっとヘンなのが、お釈迦さま→迦葉とヒミツに口伝された中身が 「妙法蓮華経」 の五文字題目であるということ、法華経経典の成立が釈迦迦葉の時代の五百年後ですから時代の前後がオカシイですよね、それと二千年近く口外されずに守られたヒミツなのに突然日蓮さんが檀家にまでペラペラと喋りだすというのも、なんかねー・・、まだ末法ではなく像法の時代なのでややフライング気味なようです (注35) 鎌倉が末法でなくいまだ像法の時代であることに気ずかない日蓮さんですが、自分が突然聖人になるのはムリがあると感じるらしく、とりあえず聖人の露払いというフリをして、後で徐々に聖人に成り代わっていく予定のようですね (注36) 正法のお釈迦様や像法の天台・伝教両大師の権威をさんざん利用してきた総仕上げとして、ここでいっきょに末法には通用しない過去の教えとして歴代大師全員を葬り去ります、一見仏教権威の乗っ取りが完了したように見えますが、じっさいは末法は相変わらずの計算間違いで、いまだ像法の時代にあることを知らない日蓮さんです (注37) もう正しく通用するのは日蓮仏法だけとわかったのでこれを広く布教してください、という法華経にある布教拡販キャンペーンを推奨してます (注38) 日蓮さんの親ほどの年寄り尼さんを門前払いで追っ払い、その他の庶民も追っ払ってたようで、貧乏人がキライなんでしょうかね? 権威付けのリクツはともかく薄汚いばばあを追っ払ってみたらその実家からいろいろと贈り物が送られてきて、三沢家がお金持ちそうなので、あわてて手のひら返したような弁明をしているところ (注39) 三沢家が意外と裕福だったので、必死に弁解を考えさらに歯の浮くようなおべっかも使い、なんとかスポンサーをつなぎとめようとしているところです、この手の文章を評して日蓮教団では 「大聖人さまの細やかなお心使い」 とかなんとかヨイショするみたいですが・・ (注40) ヤメるといいながらまだ続きます、ここからがホンネの核心で、真言の悪口を書かないことには手紙が終わらない日蓮さんです・・ (注41) 百王の誓いは、歴代王朝がかならず百代以内に途絶えるとする中国の歴史観、これもデタラメ仏教である禅・念仏・律などの他宗派が悪く、特に真言のキチガイのせいで朝廷が滅びようとしてるらしいです (注42) 末法なので力を失ったハズのお釈迦さまですが、部下に指示をして蒙古に日本を攻めさせるらしく、ここはすごくヘンなとこですね、そこでお釈迦さまの使いとしての末法の法華経行者である日蓮さんを鎌倉幕府に掛け合いにいかせたけれど門前払いだったので、もう手の打ち様がなく、日本国は蒙古に負けてしまうらしいです (注43) ちまたの疫病は外国が攻めて来るしるしだそうで、金光明経あたりで言ってる内容と同じですが、これは未来を知ることが聖人の証明になるそうですから、なんとしてでも予言を当てたいところです・・





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