佛果圜悟禪師碧巖 師、豊州夾山靈泉禪院住、雪竇顯和尚頌古評唱語要



第二十六則 【百丈奇特】 ひゃくじょうきとく

僧が百丈和尚に問う
「ふしぎでめずらしいものとはどんなものでしょうか? (如何是奇特事) 」
百丈いわく 「たった一人で大雄峰に座禅しているようなものだよ (獨坐大雄峰)」
僧が礼拝すると、百丈はすぐに打ちました。

祖域交馳天馬駒、
化門舒巻不同途。
電光石火存機變、
堪笑人來虎鬚。

その場所に交われば親馬子馬ともに天を駆け、
お釈迦さまの教えは経巻の講釈とは道が違い。
電光石火のなかにこころの働きが変化することを感じます。
笑うことを我慢すれば、虎鬚の人がやって来るでしょう。

(まりび注) 大雄峰は百丈山の別名で、奇特なところとはありふれたふつうの場所であり、ぜんぜん珍しくないらしくて、百丈は 「いまここで座禅してるのと同じこと 」と切り返し、僧はその答えがほとけをあらわすので礼拝し、百丈は僧を打ち 「これのことだよ 」 と念を入れます。

詩文一行目の祖域交馳天馬駒は、僧と百丈がともに天を駆けているさま、化門舒巻不同途はお釈迦さまのおしえは経文では教えづらいこと、電光石火は一瞬でほとけ世界に入るさま、堪笑は仏像にある柔和な表情のこと、これをやるとトラ髭のだるま大師がやって来るそうです。



第二十七則 【雲門體露金風】 うんもんたいろきんぷう

垂示にいわく、一を問えば十を答え、一を提示すれば三を明らかにし、兎を見ては鷹を放ち (見兔放鷹)、風が起これば火を吹きます (因風吹火)。眉毛を惜しまないのは当然のことなのでとりあえず置いておき (不惜眉毛則且置)。ただ虎穴に入ってゆく時の場合はどうでしょう。たとえばこんな場合です。

僧が雲門和尚に問います
「木が枯れてひからび、その葉っぱが落ちるような時はいかがでしょうか? (樹凋葉落時如何) 」

雲門いわく 「仏が本体をあらわし、風が金色に変わる (體露金風)」。

問有宗、
答亦攸同。
三句可辨、
一鏃遼空。
大野兮凉飆颯颯、
長天兮疎雨濛濛。
君不見、
少林久坐未歸客、
靜依熊耳一叢叢。

問うことが教えとなり、
答えることもまた同じことです。
三句説明することができれば、
一本のやじりは遥かな空にあり。
広い野原には激しい涼風がひゅーひゅーと吹き抜け、
どこまでも広がる天には雨がまばらに降りぼんやりとかすんで景色はみえません。
あなたを見ることはできないのです、
少林寺に久しく座禅する客はいまだ帰ることはなく、
そこは静かなので熊のような髭を生やした人の耳には草の葉のすれる音が聞こえてくるだけです。

(まりび注) 美的四文字熟語ともいえる體露金風で、この金風は、樹凋葉落がお釈迦さま入寂のときに沙羅双樹が枯れた話と、體露はほとけがあらわれた時の感覚ですから、秋から冬にかけての黄金色の風景と落葉にかけて、その独特の澄んで透明な空気感がほとけだよ、という感じでしょうか・・、眉毛を惜しまないのはネタの出し惜しみをしないこと、虎穴に入るたとえは、引用すべき過去の例文がないことで、雲門和尚のように唐突でオリジナルな答えが求められます。

詩文は、すでに教えを含んでいる問いがあり、樹凋葉落が秋の落葉を思わせること、三句は師匠-だるま-お釈迦さまの教え、この三つの関所を打ち破った一本の矢ははるか虚空を飛んで行きます。空気が涼風で澄みわたり小雨で景色がぼんやりとする時の風景はその感覚にちかくて、でもそれを目で見ることはできません。最後の二行はだるま大師、一叢叢は草のこすれるわずかな音という感じです。



第二十八則 【涅槃不説底法】 ねはんふせつていほう

南泉がやってきて百丈山の涅槃和尚に參禅します。
百丈が問います 「昔からつたわる諸聖が (從上諸聖)、これまで人のために説かなかった根本の法はありますか? (不爲人説底法麼)」
南泉いわく 「有ります 」
百丈いわく 「そのものが人のために説かなかった法とはどんなものだろうか? (作麼生是不爲人説底法) 」
南泉いわく 「これはこころではなく、これは仏ではなく、これは物ではない (不是心不是佛不是物) 」
百丈いわく 「説法は終わりのようですね (説了) 」
南泉いわく 「わたしはただこれだけです (某甲只恁麼)、和尚はいかがでしょう (作麼生) 」
百丈いわく 「わたしもまたこのようにすべての知識に精通するものではありません (我又不是大善知識)、どうして諸聖が説くことと説かないことに区別があるのかは知りません (爭知有説不説) 」
南泉いわく 「わたしにはその意味がわかりません (某甲不會) 」
百丈いわく 「わたしはただこのようにあなたに説き終えたところです 」

佛從來不爲人、
衲今古競頭走。
明鏡當臺列像殊、
一一面南看北斗。
斗柄垂、無處討、
拈得鼻孔失却口。

ほとけは昔から人のためにやって来るわけではなく、
禅僧は昔も今も知識比べを好みがちです。
明鏡がその台に載っているときは、特別に優れたひとたちがそこに映り、
一人づつ南に向いて北斗星を見ると、
そのひしゃくの取っ手が垂れているのを手に取ろうとしてもできず、
鼻先にそれが見えれば、かわりに言葉を失います。

(まりび注) 爭知有説不説、がこの問答の趣旨で、対立のない世界なのになぜ説く説かないを知ることができるのか? という言葉の世界の不備をついてるわけで、二則の趙州揀擇と似てます。

詩文のはじめ三行は、本来無一物のもとになった句を書いた神秀のように、明鏡が知識という台の上に載っているとかんちがいすれば、頭脳明晰・古今の経典に通じた秀才ばかりになってしまうけど、それは知識ではない世界に住んでいるものなのだよと釘を刺します。面南は南前となり南泉のダジャレのようで、北斗星の柄杓を手に取ってみようとすれば、そのとき仏は鼻先にあらわれ、かわりに言葉の出ないあの感覚が出てくることになります。



第二十九則 【大隋劫火】 だいずいごうか

垂示にいわく、魚が泳げば水は濁り (魚行水濁)、鳥が飛べばその羽毛が落ちます (鳥飛毛落)。明らかに主客の二つを口に出し (明辨主賓)、なにもないところから黒白を分離します (洞分緇素)。それではまだまさに台の上の明鏡であり (直似當臺明鏡)、手のひらの光かがやく宝石のようなものです (掌内明珠)。漢人が現れ胡人が来ます (漢現胡來)、声の本質を明らかにし視覚の意味をはっきりとさせます (聲彰色顯)。言ってください、どうしたわけでこのようになるのでしょう (爲什麼此如)。たとえばこんな話です。

僧が大隋和尚に問います
「終末の火が燃え盛って世界が空虚なものに帰すとき (劫火洞然)、大千世界もともに壊れます (大千倶壞)。わからないのですが (未審)、その時わたしという箇のものはこわれるのでしょうか壊れないのでしょうか (這箇壞不壞)。」
大隋いわく 「壊れる 」
僧いわく 「そのようであるならば、すなわち他のものに随って消え去るのでしょうか? (恁麼則隨他去也) 」
大隋いわく 「他のものに随って消えさればよいでしょう (隨他去) 」

劫火光中立問端、
衲猶滯兩重關。
可憐一句隨他語、
萬里區區獨往還。

世界の終わりの火が燃えるその光の中に立ってはっきりとした答えを求めます、
禅僧はなお何重にも閉ざされた関所の前でとまどい、
助け舟としての一言は、他に隨い去れであり、
それでも無限の万里を細かく区分けして一人で行きつ戻りつしています。

(まりび注) 世界の終わりまで待たずとも、いますぐに自分も世界もともに消え去れば良いでしょ、という大隋禅師のインスタント説法。注目するのは 「去」 という字の使い方、頭の中にあるイメージを取り去りなさいという感じと、自分がもともとも居た場所に帰りなさい、というふたつの意味があり、禅話にはたびたび出てきます。



第三十則 【趙州蘿蔔】 じょうしゅうらふく

僧が趙州和尚に聞きます
「承りお聞きしたいのですが、和尚は南泉和尚を良くご存知ということですが (承聞和尚親見南泉)、評判どおりの方なのでしょうか? (是否) 」
趙州いわく 「鎭州名産の大ダイコンが地面から頭を出したような方ですよ (蘿蔔頭出) 」

鎭州出大蘿蔔、
天下衲取則。
只知自古自今、
爭辨鵠白烏黒。
賊、賊、
衲鼻孔曾拈得。

鎭州に大ダイコンが顔を出し、
天下の禅僧もその評判にとらわれてしまいます。
ただ自分の以前と自分の今を知るのみならば、
どうして白鳥が白くカラスが黒いか議論する必要があるのでしょう?
(それをまだ得ていない) ドロボーの心境であり、物欲しげでもあり、
この禅僧はかつて鼻をつまんでひねり上げられたことがあるようです。

(まりび注) 僧は、ちょー有名な南泉和尚の評判を知っていて、承聞というあらたまった形で質問をしますが、趙州はすかさず鎭州名物の大だいこんで返し、有名には有名で対応した話、どうもこの手の先入観イメージを持つことはダメダメなようであり、鼻孔曾拈得は、まだわかってない僧は鼻をつまんでひねってやればその鼻先に仏が現れるかも、という禅話特有の表現で、自分で実際にやってみると良いです。



第三十一則 【麻谷振錫】 まよくふりすず

垂示にいわく、動けば則ち影が現れ (動則影現)、意識すれば則ち氷を生じます (覺則冰生)。それあるいは動じず意識しなくても (不動不覺)、野狐の巣穴に (野狐窟裏) 入ることを免れません。見透してそれを得ることが徹底し確信も得て (透得徹信得及)、わずかな糸くずほどの理解できないものもないときは (無絲毫障翳)、龍が水を得るが如く、虎が山に籠もる様にも似ています (如龍得水似虎靠山)。自由に振る舞えば (放行) 瓦礫に鏡の光を生じ、規則に従えば (把定) ほんものの金もその色を失います。古人の公案もいまだ周囲を遮られることから免れられず、そこで言います、どんな立場でものを語っているのでしょうか? (什麼邊事評論)。たとえばこんな話です。

麻谷がすず (錫) を持って章敬和尚のところにやって来ます。章敬の座る禅床を三回りして (遶禪床三匝)、一回だけ錫を振ってみせ (振錫一下)、まっすぐに立ちます (卓然而立)。
章敬は言います 「これこれ (是是) 」

雪竇はこれにひとこと (著語) 「かん違いしてるな (錯) 」

麻谷はまた南泉和尚のところにやって来ます。南泉の座る禅床を三回りして、一回だけ錫を振ってみせ、またまっすぐに立ちます。
南泉は言います 「これじゃないこれじゃない (不是不是) 」

雪竇はまたこれにひとこと 「かん違いしてるな 」

麻谷はそのとき言います (當時云) 「章敬和尚は是だと言い、南泉和尚はどうしたわけか是ではないと言います (爲什麼道不是) 」
南泉が言うには 「章敬はすなわち自分で是をあらわしていて (章敬即是是)、是れをやって見せたおまえのは是れになっていないのだよ (汝不是)。このことは是というものが言葉のない説法によって伝わるもので (此是風力所轉)、最後には壊れて消え去ってしまうものだからなのですよ (終成敗壞) 」

此錯彼錯、
切忌拈却。
四海浪平、
百川潮落。
古策風高十二門、
門門有路空蕭索。
非蕭索。
作者好求無病藥。

この間違いとあの間違い、
相手に気をとられてしまうことを、とことん嫌うものです。
四方の海は波がしずかで、
百の川から潮が引きます。
むかしからある龍樹の十二門の方法には風がそら高く吹いていて、
それぞれの門に路があっても、空しく蓬 (薬草としてのよもぎ) を探し求めるようなもので、
蓬を探すことではなく、
この話の作者は無病の薬を好く求めることでしょう。

(まりび注) 影現と冰生は、こころが動いた瞬間に一体世界が分離して影や氷といった別のものが現れるさまを表現します、野狐はカン違いの罠、過去の公案はいまだ壁に囲まれているので、もっと言葉の意味や発言者の立場を良く吟味してください、という趣旨です。

問答は、章敬和尚が自分で仏をやって見せ 「わたしのやってるこれがほとけだよ (是是) 」 と言い、南泉和尚は麻谷の立ち姿を見て 「おまえのそれは仏ではない (不是) 」 と言い、 これを見た雪竇和尚はともに麻谷は意味がわからずかんちがいしてるな (錯)、と評価します。

南泉の最後の言葉は、ほとけは風のようなフンイキで伝えるものだと言いますが、これは麻浴山宝徹禅師がつたえたとされる、風性の話からの引用みたいです。

詩文の拈却は、鼻をつまむとか花をくるくる回すことをやめると、回りの世界に気をとられてしまい、四海浪平、百川潮落は、こころのざわめきが静まり周囲が気にならなくなる心境のたとえ、十二門は龍樹大師がまとめた説法で、それに従いこころの薬を探してもたぶん見つからなくて、しかも薬を探すことですらなく、たぶんこの話のようにやればうまく薬が手にはいるでしょうということらしいです。



第三十二則 【臨濟一掌】 りんざいいっしょう

垂示にいわく、八方とさらに天地をも遮断して (十方坐斷)、千の眼玉を即座に開き (千眼頓開)、ひとつの言葉で意識の流れを断ち切り (一句截流)、無数にあるこころのはたらきを休めて消し去ります (萬機寝削)。自分のこころを見れば生死の区別がない根源があるのでしょうか (還有同死同生底麼)。それを見ることができれば (見成公案)、打ち重ねられた下にいるということもなく (打疊不下)、むかしの人がどう対応したかは (古人葛藤)、試しにこれを見てください。

定上座というものが臨濟和尚に問います
「仏法の意味とは是はどのようなものでしょうか? (如何是仏法大意) 」
臨濟は座っていた禅床から降りてきて、定を掴まえて平手打ちを食らわせ (濟下禪床擒住、與一掌) すぐに突き放すと (便托開)、定は思わずそこに立ったままで呆然としてしまいます (定佇立)。
そこで傍らに控えていた僧が言います 「定上坐さんはなぜ礼拝をしないのですか? 」
定は礼拝しようと臨濟のほうに向きなおりますが (定方禮拜)、そのとき忽然として大悟します (忽然大悟)。

斷際全機繼後蹤、
持來何必在從容。
巨靈擡手無多子、
分破華山千萬重。

意識を断ち切る瞬間にそのものの全体があらわれ、後を追いかける手がかりとなります、
持って来たものがどうしてその空のうつわに収まると思うのでしょう。
巨大な神がその手を持ち上げるとき、世界の人々は消え去り、
華山の幾重にもかさなった美しい峰峰もそれぞれが崩れ去ることを知るでしょう。



(まりび注) いきなり平手打ちを食らったときのボーゼン感を利用した説法で、わかりやすいネタのひとつ。これは詩文の一行目がその答えで、一瞬だけほとけが見えるはずですから、あとはその後を追いかけて下さいという意味で、十牛図では二番目の見跡にあたり、その後は自分で足跡をたどって牛に行き着いてください、という感じです。

この忽然大悟は、豁然大悟 (くわつねんたいご) と間違われやすく、雷に打たれた衝撃というようなド派手なものでなく 「そのボンヤリとした感じがほとけであることを知る」 とでも訳せばよいでしょうか、だるま大師の不職 (なにもわかりません) とはこの意識状態を言ってるわけですが・・。

詩文一行目の斷際は臨濟の名前にかけたシャレのようで、後半二行は、無門関にある倶胝竪指にある詩文とも文章が同じなので、一指頭と平手打ちは同じ意味ということのようですね、北宋-南宋の禅業界でハヤってたんでしょうか?



第三十三則 【資福円相】 しふくえんそう

垂示にいわく、東西を議論せず、南北をも分けないままに、朝が暮になり暮がまた朝になるようなら、ただ居眠りしてるだけの人 (伊※睡麼) と言われるのでしょうか。有る時はその眼は流星の早さにも似て、これならはっきりと目覚めた人 (伊惺惺) と言うのでしょうか。有る時は南を見て北と呼び、なにか言うとすれば、是れは有心なのか是れは無心なのか、是れ道を得た人か是れ常の平凡な人か。もしここで見透かして理解することができ (若箇裏向透得)、始めてその行き着く場所を知るなら (始知落處)、はっきりと古人のそうであることとそうでないことの違いを知ります (方知古人恁麼不恁麼知)。言ってみてください、これはどんな段階にあるのでしょうか (什麼時節)、とりあえずはこんな話なのです。

陳操尚書が資福和尚のところへ出かけて行きます (資福看)。資福は陳操がやって来るのを見て、すぐに大きな円を宙に描いて見せますが (便一圓相畫)、陳操が言うには
「弟子がこのようにわざわざやって来たのに (恁麼來)、まだ挨拶もしない内に (早是便著)、なんということだろう、これ見よがしに円を描いて見せるとは・・・ (何况更一圓相畫) 」
資福はすぐに方丈の門を閉めてしまいました (掩却)。

雪竇いわく 「陳操はふつうの片目の男のようだな (只具一隻眼) 」

團團珠遶玉珊珊、
馬載驢駝上鐵船。
分付海山無事客、
釣鼇時下一圏攣。
雪竇復云、
天下衲僧跳不出。

無数の真珠があり、宝石は輝きながらぐるぐると回っていて、
ロバやラクダを背に乗せた馬を鐵の船に乗船させます。
道を理解した客人も、海の人と山の人とではその扱いがやや違うようで、
大亀を釣る時に竿を一振りすれば、釣り糸が円を描きます。
雪竇はこれに言葉を足して、
天下に飛び出すほどの禅僧というのは、なかなかいないもんだな・・・

(まりび注) 垂示はその人のレベルを考察しなさいという意味で、問答に出てくる陳操県知事 (尚書) がその対象です。陳操はかなりな知識人で、資福の円相を見た瞬間に 「お前は仏を理解しているから説法は終わりだよ 」 と読み取りますが、資福が門を閉じたのを見て 「せっかく遠くからやって来たのに、それはないでしょ 」 と不平を言ってその場に立ち止まってしまいます。

これは二十四則の劉鐵磨のようにさっさと来た道を帰らなくてはいけないようで、雪竇はこれを見てアタマで理解はするがとっさの実践が伴わないからほとけの一隻眼 (第三の眼) になってなくて、ふつーな片目だなと評価します。掩却は資福から見て自分を囲むように覆うことで、陳操から見ると門を閉め出されたカンジ、資福和尚おまけのダメ押し説法でもあり、自分の周囲を閉ざさなくてはいけません。

詩文の真珠と宝石は、一般人と禅僧、または俗人と理解に至った人、馬載驢駝上鐵船は、すでに名誉と地位のある人にさらに禅知識の理解を重ねて求める様子、海山無事客は理解に至った人でも一般人と僧侶では扱いが違い、天下に影響する地位と禅の理解を合わせ持つ人はなかなかいないな、という話のようです。



第三十四則 【仰山甚處來】 ぎょうさんじんしょらい

仰山和尚が僧に問います
「どこからやって来ましたか? (近離甚處) 」
僧が言います 「廬山です 」
仰山 「わたしは以前、五老峰に行ったことがありますよ 」
僧 「わたしは行ったことがありません 」
仰山は言います 「わたしの中の仏も (闍黎)、行ったことがありませんよ (不曾遊山) 」

雲門いわく 「この言葉は、みな慈悲のために言うのであって、わかりやすい解説とでもいったものです (有落草之談) 」

出草入草、
誰解尋討。
白雲重重、
紅日杲杲。
左顧無暇、
右盻已老。
君不見寒山子、行太早。
十年歸不得、忘却來時道。

草を出て草に入り、
訪ね歩いてその答えを誰かが解いてくれるのでしょうか。
白い雲は連なり、
紅い日の光が世界を照らします。
左側を振り返ると暇が無いほどに忙しいし、
右側を睨んでみれば已に老人のようです。
あなたは寒山がその山に行くところを見ず、ただ早いことを知るのみです、
十年経っても帰ることは出来ず、来た時の道も忘れ去ってしまいます。

(まりび注) この話の注目表現は 「闍黎 (しゃれい) 」、舎黎とも表記されるこの言葉は、建物のなかのうす暗い場所という意味で、転じて 「意識のなかのぼんやりとして、あいまいな部分 」 となり、洞山寒暑にも暑さ寒さから避難する場所として紹介されてます。

詩文の出草入草誰解尋討は、答えを求めて野山の旅をつづけるさまで、白雲紅日は一日中歩きつづけ今日も日が暮れてしまい、左顧右盻は忙しく訪ね歩くうちに年を取ってしまいます、寒山は生まれ故郷から天台山にやってきますが、そのこころが帰るべき故郷への道を忘れてしまったようです。



第三十五則 【文殊前三三】 もんじゅぜんさんさん

垂示にいわく、龍と蛇の違いを定め、宝石と石ころを分け、黒白をハッキリとさせ、以前からそれがあるように決め付けてしまいます (決猶豫)。もしこれが頭のてっぺんに眼がついていて見晴らしがよく (是頂門上有眼)、上の肘と下の臂に割り符がついていて (肘臂下有符) ピッタリ合わせるのでなければ、往往にしてその感覚でみるとすこし意味がずれてしまうようです (往往當頭蹉過)。ただいまこの時に見聞きしてはっきりとわかり (只如今見聞不昧)、聲も色彩も純粋なものと感じるならば、言ってください、是れは灰色なのか是れは白なのか (是p是白)、是れは曲がっているのか是れは直線なのか (是曲是直)。あなたはこのときなんと語ればよいのでしょうか?

文殊菩薩が無著和尚に問います
「どこから来ましたか? (近離什麼處) 」
無著はこたえて 「南方です 」
文殊いわく 「南方の仏法はどんな様子ですか? (如何住持) 」
無著いわく 「末法のびく (比丘) ばかりで、戒律をあまり守りません 」
文殊いわく 「数はどれぐらいですか? (多少衆) 」
無著いわく 「三百とも、五百とも 」

こんどは無著が文殊に聞きます
「ここではどんな様子なのでしょう? 」

文殊いわく 「凡人と聖人が同居し、龍と蛇が混じってごちゃごちゃしています (凡聖同居龍蛇混雜)。
無著いわく 「数はどれぐらいですか? (多少衆) 」
文殊いわく 「前三三、後三三というところです 」

千峰盤屈色如藍、
誰謂文殊是對談。
堪笑涼多少衆、
前三三與後三三。

千もある峰々の岩盤が折り重なって、その色は美しい藍のようです、
この文殊がここで対談したというのは誰が言ったのでしょう?
びみょーな笑顔をつくりながら涼しい顔で多少の衆などと問いかけます、
前三三は後三三とともにあるようです。

(まりび注) 皀の字は調べてもわからないので、とりあえず灰色にしました。垂示の趣旨は、そのものは (ほとけは)、はっきりとした明快な答えにはなりません、という意味のようです。

前三三後三三は、この問答の行われた場所が金剛窟という岩山だそうですから、ダイヤモンドが正十二面体の結晶であることからして、前に六面、後ろに六面ということでしょうか ? ? ? これじゃなんのことかわからないので、文殊はガラスの器でお茶を飲み、それを持ち上げて見せ、南方ではどうですか? と聞くと無著は無語である、というヒントがついています。水晶玉? (文殊)、ガラスの湯のみ、ダイヤモンドの三題話とくれば、もちろん意識の中にある透明感をあらわすわけで、無著はなにも身につけていないのではなく、無というものが持っている属性と訳せばよいかも。



第三十六則 【長沙遊山】 ちょうさゆさん

長沙和尚がひがな一日山歩きをして (遊山)、寺に帰り門のあたり (門首) までやって来ます。
そこにいた首座が問います 「和尚さまはどこに行かれたのですか? (什麼處去來) 」。
長沙いわく 「山歩きをしたよ (遊山來) 」
首座いわく 「どこまで行かれたのですか? (到什麼處來) 」
長沙いわく 「はじめは新芽の草をたどってついて行き、そのあとは花が落ちるのを追いかけてぐるぐる回っていたよ (始隨芳草去。又逐落花回) 」
首座いわく 「なんだか春の風景みたいな言い方ですね (大似春意) 」
長沙いわく 「秋の露がしずくになって蓮の葉についた感じのほうがもっと良いかな (也勝秋露滴芙渠) 」

雪竇がひとこと 「このさいごの答に感謝します (答話謝) 」

大地絶繊埃、
何人眼不開。
始隨芳草去、
又逐落花囘。
羸鶴翹寒木、
狂猿嘯古臺。
長沙無限意。
咄。

大地にはわずかな細かいホコリさえもまったく絶えているのに、
だれも眼を開こうとはしません。
始めは草の芽生えについて行きますが、
しばらくすれば花が落ちることを追い廻します。
やせてやつれた鶴が冬の木につま先だって止まり、
狂ったような声をあげる猿が崖の上でわめいています。
長沙和尚には限りある意識というものが無く、
さてそこからなのですが・・。

(まりび注) これはもちろん長沙和尚が散歩したときの感想文ではなく、仏がどんなものかについての表現です、初歩の春は若草から始まって、上級の秋になれば花の落ちる様子まであるそうで、さらに花が落ちた木には鶴がそっととまり、サルのわめき声が透明な空気を切り裂くようです。

雪竇和尚が謝意をあらわした部分は、秋の透明な空気にもエッセンスがあり、それが露になってハスの葉っぱに凝縮したような感じが仏だよ、と長沙和尚はなかなか意味深ですね。



第三十七則 【盤山三界無法】 ばんざんさんかいむほう

垂示にいわく、稲妻のようなこころのはたらきというのは (掣電之機) ちょっと疲れていてぼんやりと立ち止まっているような感じで (徒勞佇思)、空に雷鳴が鳴り響くとき (當空霹靂) 耳を覆ってのどかな気分がふっとんだようなものです (掩耳難諧)。あたまのてっぺんに赤い旗をなびかせ (腦門上播紅旗)、耳の背後に短剣を隠す (輪雙劍)。もしこれを眼で話し、手になじんでいないならば (眼辨手親)、どうしてうまくそれを扱うことができるのでしょう (爭能搆得)。意識が有る状態の根源は (有般底) あたまが低く思いがたたずみ (低頭佇思)、その意識の根っ子からさらに下に降りれば占いのような世界があり (意根下卜度)、ドクロの前に無数の鬼がいる風景を知ることになります (殊知髑髏前鬼見無數)。そこで言います (且道)、意職の根っ子から落ちていなくて (不落意根)、得失にも拘っていない (不抱得失)、ぼんやりとしたもので、こんなように意識されるものがあるとすれば (忽有箇恁麼擧覺)、どうやってその神のようなものに対するのでしょう (作麼生祇對)。こんな話でもあります。

盤山和尚がみんなに話しをします (埀語云) 「三界に法は無く、どこに心を求めればよいのでしょう (三界無法、何處求心) 」

三界無法、
何處求心。
白雲爲蓋、
流泉作琴。
一曲兩曲無人會、
雨過夜塘秋水深。

三界に法はなく、
どこに心を求めるのだろう。
白雲は世界の蓋となり、
流れる泉を琴の音のように聞く。
一曲でも二曲でも、それと人が出会うことはなく、
雨が降った後に夜の堤を見れば秋の水が深く流れています。

(まりび注) 垂示はこころのマップなんですが、意識の中のどのあたりに仏が住んでいるのか? という話で、有般は通常の俗物な意職、有般底はその一番深い場所であり、そこから先の根っ子から下の部分は潜在意識の領域になって、その境目のあたりがよく指摘されるほとけの居場所、潜在意識に入ると、迷信占いや、鬼が住みドクロが転がる悪夢世界を見れるそうです。

法というものは欲界・色界・無色界の三界には存在しないと盤山和尚は言っていて、欲界と色界は俗人の一般感覚、無色界は禅定であり三昧ですから、どうも仏はそのあたりにもいないようで、いったいどこにいるんでしょうか ? ? ?

詩文の白雲爲蓋は十方遮断のひとつで、対象物からの認識を切ると、こころの内に隔絶された感覚が起こること、流泉作琴は音に注意を集中することで、楽曲としての意味を意職してはダメで、ぼんやりと聞かなくてはいけません、夜塘秋水深は秋の空気感がほとけをあらわすので、その空気を集めた雨が川にあふれた姿がほとけだよ、と言い、これは前則の長沙和尚が秋露滴芙渠としたのと同じ感覚です。



第三十八則 【風穴鐵牛機】 ふうけつてつぎゅうのき

垂示にいわく、もし徐々に変化するありさまを論じるならば (若論漸也)、常の世界から離れて道に出会い (返常合道)、騒々しい市場の中で自由自在に動き周りるようなものです (閙市裏七縱八横)。もし急に変化するものについて論じれば (若論頓也)、皇帝の車のわだちは消え (不留朕迹)、千の聖人もまた行き着く場所がありません (摸索不著)。さらにあるいは急でもゆっくりでもないときは (儻或不立頓漸)、またどうするのでしょう。理解の早い人は一言、よくわかる馬は一鞭 (快人一言快馬一鞭)、正にそんなような時、誰がこんな行動をとらせるのでしょう (誰是作者)、こんな話しを見てください。

風穴和尚が郢州のとある建物の中で (在郢州衙内) みなに説法をします (上堂云)

「祖師が伝える仏の様子というものは (祖師心印)、鉄牛のはたらきと見た目が似ています (状似鐵牛之機)。水に沈んで消え去れば即ちそこに鉄牛のイメージがあらわれ (去即印住)、水の上にあらわれて見えるようになれば即ちあたまの中の鉄牛のイメージはこわれてしまいます (住即印破)。ただ水に沈まず水上にもないようなときは (只如不去不住)、それは現れているのでしょうか (印即是)、あらわれていないのでしょうか? (不印即是) 」

時に盧陂長老なるものがいて進み出て問います
「わたしには鉄牛のはたらきがあります (某甲有鐵牛之機)、どうぞ師匠はわたしの背中にほとけを乗せないでください (請師不搭印) 」
風穴いわく 「巨大な鯨を釣って黄河を澄んだ水に変えようとしていたから (慣釣鯨鯢澄巨浸)、足元の泥砂に蛙を踏んづけていることには気づかなかったな (却嗟蛙歩※輾泥沙) 」
盧陂は思わず言葉につまり (陂佇思)、風穴が一喝して言います
「長老よ、なぜ言葉をつづけないのか? (長老何不進語) 」
盧陂がもたつくと (陂擬義)。風穴はほっすで打ちます (穴打一拂子) 」
風穴いわく 「また話しのはじめにもどって (還記得話頭麼)、なにか言ってみなさい (試擧看) 」
盧陂が口を開こうとしたその瞬間 (陂擬開口)、風穴がまたほっすで打ちます。

牧主というものがいて言います 「仏法はすべての王法にほとけの智慧をさずけるのでは? (佛法與王法一般) 」
風穴いわく 「どんな理由でそう思うのかな? (見箇什麼道理) 」
牧主いわく 「そのとき処理すべきものをやらないと後で乱れるもとになります (當斷不斷返招其亂) 」
風穴はすぐに座を降ります。

擒得盧陂跨鐵牛、
三玄戈甲未軽酬。
楚王城畔朝宗水、
喝下曾令却倒流。

盧陂を虜にして鐵牛にまたがらせ、
三玄の槍の握りはいまだ軽々とあつかうことができず。
楚王であった韓信は城の近くの川に洪水を起こし、
一喝することはかつて鉄牛そのものを川に流してしまうようなことなのです。

(まりび注) 垂示は、道を得た人がすばやい行動をとれるのは、どんなこころの本体の働きによっているのでしょうか? という感じ。

鉄牛は、中国夏王朝の禹王が黄河の氾濫をおさえるために鉄で牛を造って沈め、川の怒りを鎮めたとされる話で、水上にほんものの鉄牛があり、それが水中に沈んでかわりに頭の中に鉄牛のイメージができ、それなら鉄牛が水上にも水中にもなくて本物が見えないし代わりのイメージもないときは? というのが風穴和尚の質問です。

風穴の水上でも水中でもない問いは非イメージですから、ほとけそのもので、礼拝をして返すわけですが、盧陂がややカン違いをして鉄牛の背中にほとけが乗っていて水面を出入りしている話だと言うので、風穴はそのまま鉄牛の背中に乗ってみたら思わず蛙を踏んぢゃってたと返し、さらに一喝して 「これのことだよ」 と言い、盧陂が返せないのを見てつづけて二度打ちますが、この二度目は言葉を出す瞬間に打つので、こころのはたらきが起こる瞬間で来機であり、垂示の答えはこれのことのようですね。

慣釣鯨鯢澄巨浸は、巨大なくじらであるほとけを釣り上げれば、そのとき黄河の水だけでなく、世界全体が澄み切った空気に変化するという意味。

牧主は僧侶でない一般人らしく、俗な世間感覚でチカいけどややハズレ、水上と水中が切り替わるその瞬間としたようですが、その瞬間ですらないあいまいなところが正しい答えです、でも當斷不斷返招其亂、はほとけ的にはなかなか良いカンジなので、その言葉尻をとって風穴はアト腐れのないようにすぐに座を降り、すばやい返しでほとけをあらわします。

詩文の三玄は、臨済和尚が玄中玄・句中玄・体中玄と喝の目に見えない玄妙さを三分類したもの、楚王城畔朝宗水は韓信が川の水を堰きとめて洪水を起こし、敵の軍勢をうち破った話、喝下曾令却倒流は、その洪水のあおりを受けて、鉄牛も流されてしまったようです。



第三十九則 【雲門金毛獅子】 うんもんきんげのしし

垂示にいわく、真理に向かう気分は (途中受用底)、虎が山に籠もるようなものであり (似虎靠山)。世俗に従って生きる感覚は (世諦流布底)、檻につながれた猿のようなものです (如猿在檻)。仏性がどんなものか知ろうと思うならば (欲知佛性義)、まさにその時のこころのはたらきと世界とのかかわりを観察します (當觀時節因縁)。百回も叩いた質の良い金の塊を (百練精金) さらに鍛えようと思えば、これはその話をする人の腕のみせどころのようなものです (須是作家爐鞴)。そこで言います、目の前にあって自由に使いこなす境地とは (大用現前底)、どんなものを持って来てためすのでしょう (將什麼試驗)。

僧が雲門和尚に問います
「清浄な法身とはどんなものでしょうか? 」
雲門いわく 「しゃくやくの花が咲く垣根 (花藥欄) 」
僧はいわく 「すぐにそこを離れ去るときはどうでしょう? (便恁麼去時如何) 」
雲門いわく 「金色にかがやくライオン (金毛獅子) 」

花藥欄、※※莫。
星在秤兮不在盤。
便恁麼、太無端。
金毛獅子大家看。

美しいしゃくやくの花垣根でもそこにとどまってはいけません。
星は天秤のように上下に点在し、平面の盤上にはなく。
すぐにそうであるとわかれば、ただ端っこのないハッキリしないものだとわかります。
金毛の獅子というのは大きな世界を見ているようなものです。

(まりび注) 垂示にはこころの三段階が提示され、

世諦流布底・・・世俗に従った生活で、オリの猿。
途中受用底・・・真理を目指す生き方で、山の虎。
大用現前底・・・真理を使いこなす、金色の獅子。

この三つの表現はなかなか面白いですね。

問答の清浄法身とは仏感覚のこと、「ほとけとはどんな感じなのでしょう? 」 という質問で、それは五月に花が咲き乱れる芍薬の花垣根のようにあでやかで美しいものであり、もしそこを抜けてさらに垣根の向こう側に行くことができればどうでしょう? という質問の答えが金毛獅子で、これはもちろん金色に輝くお釈迦さまが涅槃経の師子吼品に説いた説法のことですから、「仏性」 をあらわす定番表現となります。

詩文の占星盤は安定したもののたとえで、じっさいは天秤のように位置が定まらないものと理解し、もちろん端っこもありません。



第四十則 【南泉如夢】 なんぜんゆめのごとし

垂示にいわく、休み休みしながらそれを取り去れば (休去歇去)、ソテツの木にも花が咲き (鐵樹開花)、よく有る言い方ならば (有麼有麼)、悪童が一皮むけたようなものです (黠兒落節)。たとえ自由自在にふるまえたとしても (直饒七縱八横)、ほかのものに目を奪われることもあるでしょう (不免穿他鼻孔)。そこで言います、そのなにか濁ったような場所があるのだと (肴訛在什麼處)、そしてそれはこんな話のようです。

陸亘大夫が南泉和尚とあれこれと話をしていたときのこと (語話次)、
陸亘いわく 「肇法師はこう言っています、天地は我と同根、万物は我と一体だと (天地與我同根。萬物與我一體)。なかなか奇怪な話ですね 」
南泉は庭前の花を指さして (指庭前花) 大夫を手招きして言います (召大夫云)
「いま人がこの一株の花を見ているのは、夢の中と似てはいませんか? (如夢相似) 」

聞見覺知非一一、
山河不在鏡中觀。
霜天月落夜將半、
誰共澄潭照影寒。

聞くことと見ることと、一つ一つを知って意職はしません、
山河は鏡の中に見える映像の中にはなく、
霜の降る空は夜も半ばになれば月が落ち、
誰かと共にその寒々とした影を照せば深くて澄んだものが見えることでしょう。

(まりび注) この話はその感覚について語ってるだけなので、どんなものか知りたければ座禅の三昧とか臨済和尚の平手打ちでその感覚を探してみると良いです、または黄檗和尚が言う酒場で帰り道がわからないくらいに酔っ払ってみたり、その他無数の行法とヒントが禅話の中に提供されています。



第四十一則 【投子投明】 ずしとうみょう

垂示にいわく、良し悪しの交わるところは (是非交結處)、聖人もまた知ることが出来ず、縦横が逆になったときも (逆順縱横時)、ほとけは語ることができません (佛亦不能辨)。世俗と絶縁し、ふつうの人が考える道をも超える者となり (爲絶世超倫之士)、抜群な修行者としての力を明らかにします (顯逸群大士之能)。氷の峰の上を歩こうとし (向冰凌上行)、剣刃の上を走りゆくことは (劍刃上走)、まさに麒麟の頭に生える角のようであり (直下如麒麟頭角)、炎の向こう側に見える蓮華の花にも似ています (似火裏蓮花)。まるでどこでもない場所を見ているようであれば (宛見超方)、始めてそこが道と同じであることを知ります (始知同道)。誰がこの腕に覚えのある者なのでしょう? (誰是好手者)。たとえばこんな話です。

趙州和尚が投子和尚に問います
「死んだ感覚のいちばん底まで行き着いた人は (大死底人)、生き返ったときにはどう振る舞うのでしょうか? (却活時如何) 」
投子いわく 「夜の暗がりを歩くことはなく (不許夜行)、燈明を持ってきて照らせばどんな感じかもわかるでしょう (投明須到) 」

活中有眼還同死、
藥忌何須鑑作家。
古佛尚言曾未到、
不知誰解撒塵沙。

生き返ったときにそれを見る眼が有れば、また死んでいることと同じだとわかります、
ほんものの薬を嫌い、どうしてそんな作り話ばかりをたよりにしなくてはいけないのでしょう?
古い時代の祖師たちでさえ、かつて至ったことはないとなお言います、
ホコリや砂が撒かれたことを理解しているのは誰か? と聞かれても答えは知りません。

(まりび注) 大死底人は根源のもっともシンプルな意識 (認識) がなにかを理解した人、そしてそこから俗物一般世界に戻ってくるのが却活時で、このプロセスを体現した人たちはどんな様子なのか? がテーマで、趙州アンド投子、二人の達人の問答となります・・・。

ところがこの問答は霊玄道士のキョンシーというわけでなく、無明を照らすのはお釈迦さまの燈明で、投子と投明と燈明を順にゴロあわせしたふつーなオチのようですね。

ではその燈明とはどんなものか? ですが、たとえば前の四十則から引用すれば、如夢相似ということになり、他にもいろんな表現があるので探してみてください。



第四十二則 【籠居士好雪片】 ほうこじこうせっぺん

垂示にいわく、ひとりで手に持ちあれこれ工夫してみることは (單提獨弄)、泥に水が浮いている田んぼを歩くようなもの (帶水施泥)。太鼓を打ち歌を唄うことを同時にすれば (敲唱倶行)、銀の山に鉄の壁を築き (銀山鐵壁)。ためらえば即座に髑髏の前に鬼がいる風景を見ます (擬議則髑髏前見鬼)、自分のうちにある思いを訪ねてみれば、すなわち鬼の住む黒山の下で座禅し打たれます (尋思則黒山下打坐)。あかるい日ざしは天高くにあって心地良く (明明杲日麗天)、吹き渡る涼しい風は地をめぐります (颯颯清風匝地)。そこで言います、それぞれの人にもまたこの濁った感覚の場所があるのでしょうか (個人還訛處有)。こんな話を見てください。

ほう居士が藥山和尚のもとから挨拶をして帰ります (辭藥山)。藥山は十人の禪客に命じてそのお供をさせ寺の門までやって来ます (相送至門首)。居士が空中の雪を指さしていわく
「良い雪はそれぞれのかけらが一つの場所にまとまって落ちるようですね (好雪片片不落別處) 」
時に全禪客というものがいて、いわく
「どこに落ちているのでしょうか? (落在什麼處) 」
ほう居士はすかさず全の頬を平手打ちします (士打便掌)
全がいわく 「居士はそれがどこにでもあるものではないと言うのですか? (居士也不得草草) 」
ほう居士いわく 「あなたがそのように禅客と称するなら (汝恁麼稱禪客)、えんま様もあなたをそう簡単には許してはくれないでしょう (閻老子未放汝在) 」
全いわく 「居士はどうなのですか? 」
ほう居士はまた全を平手打ちして、言います 「眼で見ても盲のように見えず、口で話そうとしても唖のようにしゃべれないのですよ(眼見如盲、口説如唖) 」

雪竇がおまけのひとこと (別云) 「初めの問のところで雪玉を握ってすぐに全の顔に打ちつけてみたらどうだろう (初問處但握雪團便打) 」

雪團打、雪團打。
老機關沒可把。
天上人間不自知。
眼裏耳裏絶瀟灑。
瀟灑絶、
碧眼胡難辨別。

雪玉で打ち、雪玉で打ちます。
老人のこころのはたらきは、その関所が見えなくなってもつかまえることができ、
天上の人たちも人間も自分でそれを知ることはなく、
眼と耳のはたらきが絶えたところにそのさっぱりとしたものがあり、
その感覚ですらも消え去れば、
だるま禅師でさえもはっきりと説明するのは難しいでしょう。

(まりび注) ほう居士は、正しくはまだれに龍の字、明明百草頭の問答がつたわっていて、全禅客の不得草草はこれにかけてあります、黒山鬼窟という場所には鬼が住み無数のどくろが転がり、訛處はこころの中の濁ったような場所で、ほう居士の問答につながるこの話のテーマです。

問答の居士は一貫してこの訛處について語っていて、雪片の落ちる場所がそこなんですが、全がどこにあるのか? と見えてないようなので平手打ちで 「これだよ」 と教え、さらに全がどこにでもあるのでは? とかん違いするので、それでは全禅客の名前が泣くといって、さらに平手打ちでもう一度教え、それは盲で唖のような感覚だと付け加えます。

これに雪竇和尚がさらに、雪玉作って見せてやればわかったでしょ、とおまけヒントを出しますが、この全禅客はいわゆる客塵 (古鏡) のなぞかけにもなっていて、チリと雪片のイメージを引っ掛けた話のようですね。

詩文の天上人間不自知、もポイントでその場所を知ったとしても自分でそれを知ることはできない、とまたまたいつものムジュン表現のようです。



第四十三則 【洞山寒暑】 どうざんかんしょ

垂示にいわく、天地を定める言葉はいつの世も尊いものですが (定乾坤句、萬世共遵)、虎を捕まえるほどのこころのはたらきは (擒虎凸機)、千人の聖人といえども語ることはありません (千聖莫辨)。足元を見てもさらにわずかの影すらもなく (直下更無纖翳)、すべてのはたらきがいろんな場所に等しくあらわれます (全機隨處齊彰)。さらに上質を求めるために木鎚を打つ方法を明らかにするには (要明向上鉗鎚)、鍛冶職人の吹くふいごのようにそれを自分のものにしなくてはなりません (須是作家爐鞴)。さらに言うなら、以前から伝わる家の習慣のようなものがあるのでしょうか? (從上來還恁麼家風也無)。こんな話はどうでしょう。

僧が洞山和尚に問う 「寒さ暑さがやって来たときは、どうやってそれを避けるのでしょうか? 」
洞山いわく 「寒さ暑さに向かわず、寒さ暑さの無い場所に去ればよいでしょう (何不向無寒暑處去) 」
僧いわく 「寒さも暑さも無い場所とはどんなところなのですか? 」

洞山いわく 「寒い時は闍黎を使い寒さを殺し、熱い時は闍黎を使って熱さを殺します (寒時寒殺闍黎。熱時熱殺闍黎) 」

垂手還同萬仞崖、
正偏何必在安排。
琉璃古殿照明月、
忍俊韓※(獣へんに盧) 空上階。

それは万尋の崖でつかまっていた両手をはなすのと同じこと、
真ん中や片寄っていることは必ずしも安心したり邪魔にしたりすることではありません。
琉璃色の古い宮殿を明月が照らし、
素早い動きで犬が階段を空に向かって駆け上がります。

(まりび注) 闍黎は三十四則で仰山が示した意職のなかのぼんやり感、これを利用して暑さ寒さを感じる認識の経路を遮断することができる、というのが仏教の智慧で、前則の訛處や、古鏡、十牛図の牛・・・、と同じ切り口の表現がたくさんありますから、探してみるとよいです。

この闍黎は、正法眼蔵には 「闍梨 (しゃり)」 と表記されていて、これならたぶん元は舎利で、仏塔の奥深くに収まったお釈迦さまの遺骨となり、こころの底にある真理といった感じでしょうか、現代禅宗の一般解釈である 「暑さ寒さになりきる」 は阿闍梨 (坊さん) としたみたいで、南宋原稿の道元さんより北宋原稿の碧巌録のほうが時代が古いことからして、闍黎と表記するほうがオリジナルっぽいですね。



第四十四則 【禾山解打鼓】 くわざんかいだこ

禾山和尚がはじめに説法します (埀語云)、學を修めることを聞と言い、學を絶することを隣と言います。此の二つの段階を過ぎた者は、是に眞過と名づけます。

僧が出て来て問います
「真に過ぎるとはどのようなものでしょうか? 」
禾山いわく 「ポン ! (解打鼓) 」
僧はまた問い 「真の教えとはどんなものでしょう? (眞諦) 」
禾山いわく 「ポン ! (解打鼓) 」
僧はまた問い 「心とほとけはすなわち問わないとして、こころでもない仏でもないとしたらどうでしょう? (非心非佛) 」
禾山いわく 「ポン ! (解打鼓) 」
僧はまた問い 「さらに質の高い人がやって来たときには (向上人來時)、どう接したらよいのでしょう? (如何接) 」
禾山いわく 「ポン ! (解打鼓) 」

一石、二般土。
發機須是千鈞弩。
象骨老師曾※(車に昆) 毬、
爭似禾山解打鼓。
報君知、莫莽鹵。
甜者甜兮苦者苦。

はじめに石を置き、次に多くの土を運び (石弓の) 土台を作ります。
そのこころの状態を引き出すためには巨大な石弓を使わなくてはいけません。
雪峰和尚がかつては毬をころがして遊んでいたことも伝わっていますが、
なんだか禾山が太鼓を打つのにも似ていますね。
あなたがそれをすでに知っていると伝えたいのです、粗末に扱わないようにしてください。
甘いものは甘く、そして苦いものは苦く感じられます。

(まりび注) 顔の平手打よりは太鼓でポンのほうが暴力行為と言われなくていいかも、もちろんこの解打鼓の四連発に代えて、一掌や棒やほっすや一喝をそれぞれ四回つづけてやっても意味は同じです、解の字は太鼓の音を口真似してるところとしました。

詩文の千鈞弩は、巨大な石弓や投石器でそれが発射されるときの衝撃音に価値があるということ、大砲のような音でしょうか? 甜者甜兮苦者苦は冷暖自知と同じ、言葉や理屈の評価ではなく感じることが大事です。



第四十五則 【趙州萬法歸一】 ぢょうしゅうばんぽうきいつ

垂示に云く、なにか必要があれば即座に言うことができ (要道便道)、世の中を見ても並ぶものがなく (擧世無雙)、行動すべきときには即座に行動できて (當行即行)、こころのすべてのはたらきが他のものに影響されず (全機不讓)。火打ち石が起こす火花のようであり (如撃石火)、きらめく稲妻の光にも似ています (似閃電光)。燃えさかる炎を風が通り過ぎ (疾焔過風)、つぎつぎと刀が斬りつけてきます (奔流度刃)。さらに上を目指す木槌を持ち上げても (拈起向上鉗鎚)、いまだ槍を捨て口を結んで言葉を発しないことからは逃れらられてはいません (未免亡鋒結舌)。目の前に一本の道があったとして (放一線道)、これを考えてみてください。

僧が趙州和尚に問う
「すべての法は一つのものに帰ると言いますが (萬法歸一)、その一つのものはどこに帰るのでしょうか? (一歸何處) 」

趙州いわく 「わたしが青州にいたときに (我在青州)、一枚の仕事着を作りましたが (作一領布衫)。その重さは4.2キロほどだったでしょうか (重七斤) 」

編辟曾挨老古錐、
七斤衫重幾人知。
如今抛擲西湖裏、
下載清風付與誰。

ひとつに編んで一枚の布に収束することを避ける説法があり、かつてこの古くて錆びたキリのような老人はこころを開いてその答えを見せてくれたようです、
でも七斤の仕事着の重さは何人のものが知ったのでしょう?
それをたった今、寺のちかくにある西湖の水面に向かって放り投げれば、
爽やかな風に乗って飛ばされ、誰かのものになるかもしれません。

(まりび注) 垂示の未免亡鋒結舌は、ほとけにくっついている感覚で、他人に突っ込まない、言葉が出づらい、の二点を示していますが、そこから一歩抜け出して自由にひとこと言えるのはどんな達人なのでしょう? という質問です。

十二則の洞山麻三斤と同じで、重さ感覚のネタなわけで、こちらはそれがすべての根源であり、道と同じものであるとおまけヒントもついています。



第四十六則 【鏡清雨滴聲】 きょうせいうてきせい

垂示にいわく、つちを振り下ろせば即座にあらわれ (一槌便成)、凡人を超え聖人ををも乗り越えます (超凡越聖)。言葉のかけらをいくつも重ねて (片言可折)、縛りをほどき粘りを解きはなち (去縛解粘)、氷の峰の上を歩き (如氷凌上行)、剣の刃の上を走るようもの (劍刃上走)。こころや風景が積み上がった様子を見て座禅し (聲色堆裏坐)、そのこころと風景でできた山の頂上を歩きます (聲色頭上行)。縱横の不思議な使い方はとりあえず置いておき (縱横妙用則且置)、一瞬の間にすぐに去ってしまうようなときはどうでしょう? (刹那便去時如何) こんな話があるのです。

鏡清和尚が僧に問います
「門の外はなんの音がしているのだろう? (門外是什麼聲) 」
僧いわく 「雨のしずくが落ちる音です (雨滴聲) 」
鏡清いわく 「衆生はこころがてん倒しているから、自分を見失い具体的なものを追いかけてしまうのだろうな (衆生顛倒迷己逐物) 」
僧いわく 「和尚はどうしているのですか? (作麼生) 」
鏡清いわく 「鼻のあたまの汗に注目してるから、自分に迷わないよ (※さんずいに自、不迷己) 」
僧云く 「その鼻の頭で迷わないと言うのは、どんな意味なんでしょうか? (※さんずいに自、不迷己意旨如何) 」
鏡清いわく 「出身はわりと簡単だけど、脱体を説明するのはなかなか難しいだろうな (出身猶可易、脱體道應難) 」

虚堂雨滴聲、
作者難酬對。
若謂曾入流、
依前還不會。
會不會、
南山北山轉※ (雨かんむりの下にさんずいと旁) 霈。

そこにない堂を打つ雨だれの音、
こころの中にいる人は、その感覚を見ていないようで、
もしかつてその水の流れに入ったことがあるというなら、
その感覚によってまだ出会っていないそれ以前のこころに帰ることができます。
出会うことと出会わないこと、
杭州の山々にも小雨がしとしとと降りしきっています。

(まりび注) 雨だれが落ちる一瞬の音がテーマ、ふつうの人が仏を見るためにはこの雨だれの音を利用しなさいということのようですが、鏡清和尚の場合はさらに鼻の頭に意職を集中するんだそうです。

この出身と脱体 (とったい) の二つは珍しい表現で、鏡清和尚の名前そのものが古鏡と明鏡を暗示してる感もありますね。



第四十七則 【雲門六不収】 うんもんろくふしゅう

垂示にいわく、天はなにも言わないけれど (天何言哉)、春夏秋冬はめぐり (四時行焉)。大地もなにも言わないけれど (地何言哉)、万物を生成します (萬物生焉)。季節のめぐりを観察しながら (向四時行處)、そのやり方でほとけの体を見ます (可以見體)。万物の生まれる場所に立って (於萬物生處)、ほとけのはたらきを見ます (可以見用)。そして言うには、どんな場所に向かって禅僧はそれを見ることを得るのだろう? と (且道向什麼處見得衲僧)。言葉のはたらきを使うことと、禅堂での修行を離れ (離却言語動用行住坐臥)、喉と唇をもふさいで (併却咽喉唇吻)、そのことをどんなふうに説明するのでしょう (還辨得麼)。

僧が雲門和尚に問う
「ほとけの体とはどんなものでしょうか? (如何是法身) 」
雲門いわく 「六通では理解できないよ (六不収) 」

一二三四五六、
碧眼胡數不足。
少林謾道付神光、
卷衣又説歸天竺。
天竺茫茫無處尋、
夜來却對乳峰宿。

一二三四五六と六つのなにかがあり、
碧い眼の西からやって来た人が数えてもそれは足りません。
少林寺にいては神の光に行き着くことができるとみんなを騙してそう言い、
着物のすそを巻きあげてインドに帰ると説法します。
ところがインドはもう記憶から薄れてぼんやりとして場所もはっきりとはしません、
夜が来ればまたその乳峰山の宿にもどるだけなのです。

(まりび注) 六通は五感プラス知識や記憶のこと、これらが無くても人は世界を認識することができ、そのときほとけの本体があらわれます、ところが詩文にあるように、だるま大師がこの説法をしたとしても、まわりからは胡散臭い目でみられ、本人はインドがどこかも忘れかけているので、今夜もまた少林寺で寝ることになるのでしょう。



第四十八則 【王太傅茶煎】 わんたいふちゃせん

王太傅が長慶禅師のところに招かれてお茶を煎じます (入招慶煎茶)。その場には朗上座がいて、そこに来ていた客人である明招和尚の座で急須を傾けますが (時朗上座與明招把銚)。朗上座は急須をひっくり返してしまいます (朗翻却茶銚)。王太傅はこれを見て朗上座に言います
「茶釜の下にひっくり返ってるのはなにかな? (茶爐下是什麼) 」
朗上座いわく 「わかりません (棒爐神) 」
王太傅いわく 「すでにこの状態がわけわからんだろ (既是捧爐神)、どんな理由で急須がひっくり返るのかね? (爲什麼翻却茶銚) 」
朗上座いわく 「無事に千日お仕えしてきましたが、失敗したのは今朝が始めてです (仕官千日失在一朝) 」
王太傅はそれを聞くとさっと袖を払ってすぐに出て行ってしまいました。

明招いわく 「朗上座さんはお呼ばれのご飯を食べ終わったあと、長江の向こう岸までいって野原に杭を打ち込んでいたようですね (朗上座喫却招慶飯了、却去江外、打野※、木へんに埋) 」
朗上座いわく 「和尚はどうだったんでしょう? (作麼生) 」
明招いわく 「人ではないものが、そのお便りを頂きましたよ (非人得其便) 」

雪竇いわく 「ふつうなら茶釜を蹴倒すところだけどな (當時但踏倒茶爐) 」

來問若成風、
應機非善巧。
堪悲獨眼龍、
曾未呈牙爪。
牙爪開、生雲雷、
逆水之波經幾囘。

疑問がわくことは風がやってくるのに似ていて、
その心に応対するのはうまくやるためではありません。
ひとつ眼の龍は悲しみに堪え、
かつていまだその牙や爪をあらわにしたことがなく、
もしその牙と爪が開けば、雷雲が起こり、
川の上流にさかのぼる波を、いままで何回経験したことでしょう。

(まりび注) 王太傅と朗上座はともに長慶禅師の弟子で兄弟の関係、明招はお茶にお呼ばれした客人です、この三人の設定をもとに話を見るわけで、急須をひっくり返すことは貴人の前であれば重大な失態であり、場合によっては首を斬られたりすることもあるので大慌てのパニックを演技して見せるところがこの話のポイント、このパニック感がもちろんほとけです。

王太傅と朗上座の問答はわかりづらいので、書き直すとこんな感じ・・・

王 「急須がひっくり返ってるけど、なんでかな? 」
朗 「ぼーぜんとしてます (仏の真似) 」
王 「そんなのは見たらわかるけど、なんのためにぼーぜんとするのかな? 」
朗 「千日俗人でいるより、たとえ一日だけでもほとけを知った方が (首を斬らても) 価値があります 」
王太傅はその答えがイイ感じなので、自分もさっさと立ち去って、ほとけの留まらない性質をあらわして返します。

明招和尚は、朗上座の動転ぶりを評して、こころが長江の川向こうに飛んで行ってそこで杭打ちをやってるようだと言い、逆に和尚はどうか? と切り返されて、人でないものが言葉にならないメッセージをいただきましたよ、と的確な答えを返します。

捧爐神は、火炉をささげ持つ神で、転じてお釈迦さまの言う燈明をあらわすこころの本体、この場合なら呆然自失でしょうか、詩文にある一つ目の龍は仏の一隻眼のことで、その爪と牙を開くとき俗物な意識にもどってしまい、ふだんの堪悲がほとけ感覚になるようなので、爪と牙を開かないように気をつけなくてはいけません。



第四十九則 【三聖網透金鱗】 さんせいとうもうきんりん

垂示にいわく、七つ掘れば八つの穴が出来 (七穿八穴)、太鼓を破り旗を奪う (※鼓奪旗)。百回めぐり千回かさね (百匝千重)、前方を注視し後ろを振り返ります (瞻前顧後)。虎の頭にうずくまり、虎のしっぽをつかんでも (踞虎頭收虎尾)、いまだこれはそれを使いこなすものであるとは言えません (未是作家)。車の荷台から見れば牛の頭は沈んで見えなくなり、馬はしきりに周囲を見回しますが (牛頭沒馬頭回)、またいまだ変わった特別なものは見当たりません (亦未爲奇特)。そこで言います、目標とされる場所に行き着いてさらにそこを過ぎた人とはどんな様子なのでしょう (且道過量底人來時如何)。こんな話があるのです。

三聖が雪峰和尚に問う
「その網を透り抜けた金ピカの魚たちは (透網金鱗)、ふしぎにおもうのですが、なにを食べて生きているのでしょう? 」
雪峰いわく 「あなたがその網を抜け出て来るまで待って、わたしがあなたに聞きたいくらいです (待汝出網來、向汝道) 」
三聖いわく 「それでは千五百人もの修行僧がいるのに、話しの取っ掛かりすらわからないということじゃないですか (話頭也不識)。
雪峰いわく 「この老人は寺に住んでいて、雑用で忙しいのですよ (老僧住持事繁) 」

透網金鱗、
休云滯水。
搖乾蕩坤、
振鬣擺尾。
千尺鯨噴洪浪飛、
一聲雷震清風起。
清風起、
天上人間知幾幾。

網を透り抜ける金色の鱗、
言葉を休めば、流れる水もとどまります。
天を揺らし地を漂い、
ひげを震わせしっぽを跳ね上げ、
千尺の鯨が潮を噴いて大波が飛び散り、
雷が一聲とどろいて涼しい風が吹き起こります。
そしてその風が吹いたとき、
天上世界も人間もそれがはるか昔からあったことを知るでしょう。

(まりび注) 三聖は臨済和尚の後継者、とうぜん毒舌も受け継いでいて、透網金鱗は自分で悟りを得た聖人であると称して金ピカの袈裟を着る師匠たちに対する、痛烈な皮肉表現でもあります。

垂示にある過量底人は透網金鱗と同じ意味で、真理に行き着いた人はその後どんな生活をしているのか? という質問であり、これに対する雪峰和尚の答は、寺の雑用に追われて右往左往するだけのただの老人であり、その名声や富をもとめない平凡な生活感覚こそが、ほとけという感覚にくっついている属性なんだよ、と言いたいようですね。



第五十則 【雲門塵塵三昧】 うんもんじんじんざんまい

垂示にいわく、いろいろな段階をなんども乗り越え (度越階級)、いろいろな解説をも完全に拒絶します (超絶方便)。こころの本来のはたらきが対応し合い (機機相應)、言葉は意味を互いに交換しはじめます (句句相投)。あるいはその理解の門に入っていないときにも (儻非入大解脱門)、それを自由に使いこなすことを得れば (得大解脱用)、なにをもってほとけの目安をはかり (何以佛權衡)、みんなに教える手本とするのでしょう (龜鑑宗乘)。そこで言います、そのときが来ればまっすぐに断ち切ることができ (當機直截)、すなおでも逆でも縦横でも自由にあやつれる心境ならば (逆順縱横)、どんな風にほとけがあらわれる様子を言葉にできるのでしょう (如何出身句道得)。ためしにこんな話を見てください。

僧が雲門和尚に問う
「ちりのなかで暮らしている感覚は、どうしたらわかるのでしょう? (如何是塵塵三昧) 」

雲門いわく 「鉢の裏についた飯つぶ、桶の裏についた水 (鉢裏飯桶裏水) 」

鉢裏飯、桶裏水。
多口阿師難下觜。
北斗南星位不殊、
白浪滔天平地起。
擬不擬、止不止、
箇箇無長者子。

鉢のうらのご飯つぶや桶のうらの水滴にどんな意味があるのでしょう。
言葉が多くすべてを理解している師匠であっても、くちばしを下ろすことは難しく。
北斗七星や南十字星であってもそれが天にとどまってはいないし、
白い波が天に届くことが平地に起こればどうでしょう。
固まるでもなく固まらないでもなく、留まるわけでも留まらないわけでもありません、
ひとりひとりが無という名前のお金持ちの子供のようです。

(まりび注) 鉢裏飯と桶裏水は雲門和尚おとくいのイメージ行法、八方を遮断してさらに天と地にもふたをされ十方坐断状態になった鉢の中の飯粒と、周りを囲まれた桶のなかでボンヤリとゆらめいている水のキモチを想像してください、それはよくわかった師匠でも言葉では伝えられないし、定まった場所もなく、その意気は天を衝くようで、自分がなにやらお金持ちの子供だったことに気がつくかも知れません。




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